「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

友好都市訪問、西米良村編・・・ラスト

2014-12-10 18:58:04 | 遠野

 今回の菊池市及び西米良村訪問、3泊4日という日程でしたが、あっという間に過ぎ去ったという思いと、やはり交流が一番ということで3晩にわたる交流会で酒席をこなしたという印象でもあります。

持参した名刺は全て配布・・・西米良村での交流会の最後の方は名刺が切れてしまって失礼をしたという思いでもありました・・・(;'∀')

菊池市での史跡巡り等の後、一路西米良村行き・・・

 

菊池記念館

 

宮崎県児湯郡西米良村

 

今回の訪問のテーマは「菊池一族の歴史」

昨年は神楽交流、一昨年は産直交流と、ここ数年はテーマに沿っての訪問交流団を派遣ということになっておりますが、菊池一族の本拠地である熊本菊池市はわかるのですが何故に宮崎の西米良なのか?・・・

もちろん、西米良も菊池氏つながり・・・

 

「米良氏」

米良氏は肥後(熊本)守護職の菊池氏の後裔で、菊池第22代、菊池能運の子、重次に始まるとされる。

南北朝期、九州南朝方として武威を誇った菊池氏であったが南北朝合一後、室町時代もよく勢力を維持していたが一族、重臣の謀反がつづき、その力も弱体化していく。

22代菊池能運の時、叔父の宇土為光が家臣と図って謀反を起こし、菊池本城の隈府城を奪われ、野戦でも菊池能運勢は敗れ有馬氏を頼り再起を図ることとなった。

その際に能運は弟の重房に妻子を託し米良の山中へ落ち延びさせたという。

菊池能運は相良氏の協力や忠臣の応援を受け宇土氏を遂に討ち隈府城を奪還するも、戦傷が元で死去する。

菊池氏は一族から当主を迎えるも人気がなく廃され、ついには大友により養子が入り義武が継承するも大友氏により殺害され肥後菊池氏は滅亡した。

 

米良の山中に逃れた重房は甥の重次を擁して米良地方を抑え重次は米良氏を名乗り、その後継はよく領地を守り維持した。

米良地方には菊池一族が早くから住まいしており、一族の協力もあり米良氏は険阻な山間に一大勢力を築き、乱世を生き抜き江戸期には大名各である表交代寄合の一家となり明治維新を迎え、姓を菊池に改め男爵となった。

 

この日、記念館敷地内の山中では菊池祭が行われ我々訪問団も参拝して参りました。

友好都市から来たということ、菊池姓ということで歓迎いただきましたが、人のみならず地域との縁、ほんと感じずにはいられません。

 

その後、米良氏が館を置いたされる小川作小屋に移動

 

山深きところでしたが晩秋の風情が色濃く残されておりました

 

 

 

ほぼ3日間お世話になった菊池市の皆さんとお昼をいただき、ここでお別れ・・・

名残惜しいことではありますが、またの交流をよろしくお願いいたします。

 

熊本県菊池市のみなさん

宮崎県西米良村のみなさん

お世話になりました・・・ありがとうございました。

 

 

そのまま宮崎空港へ

南国という雰囲気抜群・・・!

宮崎といえば「東国〇・・・」とかマンゴーと言いたいですが、少年時代に流行った新婚旅行といえば宮崎の日南海岸とかジャイアンツのキャンプ地というイメージが今なお残る土地という思いですね・・・(-_-;)

 

宮崎空港からANAで大阪伊丹まで、伊丹からJALに乗り換えて、いわて花巻まで・・・

強風の影響で1時間程度遅れての到着でしたが、なんとか無事に帰宅いたしました。

 

 

今回の菊池市及び西米良村訪問、テーマの菊池一族に触れるということに、ものすごく刺激を受けたのは確かなことでもあります。

以前から遠野の菊池姓に関して素人ながら調べていた経緯もあり、これを機会に調べの再開をと意気込んでおります。

今後は菊池一族関係の歴史的内容な記事が増えるかもしれません。

いずれ頑張ってみようと思います。

 

生涯のうちで何度、九州へ行けるのか?

今回で2度目となりましたが、気持ちだけはもう一回は行ってみたい、そう思うのでした

(;^ω^)

コメント (6)
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