「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

宮守 雲上鉄山と溶鉱炉跡

2021-02-23 16:43:23 | 歴史・民俗

 

今回、エントリーするにあたり参考、引用した図書、書籍

「宮守村誌」「宮守風土記」

 

〇岩手製鉄株式会社 雲上鉄山(うんじょうてつざん)

 ・大正7年3月(1918年)設立・翌大正8年に火入れを行い稼働

 ・資本金 500,000円(払い込み資本金125,000円)

 ・関係者 代表取締役社長 池野 三次郎(盛岡)

      取締役 大矢 馬太郎(盛岡) 照井 愛助(宮守)

 

 「雲上鉄は非常に靭性に富み、特殊の銑鉄たることを認む」と証明され往時は作業員約300人、溶鉱炉があった下郷蘭場には宿舎3棟、事務所、石炭窯、作業井戸、見張台等があった。

 

溶鉱炉遺跡の一部

 

高さ約4メートル、長さ約40メートルの石造の壁が現存し、かつては高炉、送風の煙突が建っていたとされ、当時石壁の上部は平地とし宮守駅(岩手軽便鉄道)までの馬トロ(馬で引くトロッコ)の道があった。

また塚沢方面からは多量の木炭が運ばれ、鉄鉱石は雲上鉄山から毎日30台もの馬車で運び込まれ炉へ入れられたとのこと。

しかし・・・

その隆盛も第一次世界大戦が終わり陰りが見え始め、鉄山存続のための採算が合わず、大正11年(1922年)9月、電気炉製鉄に転換し経営刷新を図るも第一次世界大戦後のデフレには勝てず休止となり、昭和10年(1935年)頃には機械類、建物等が解体され持ち去られたとのこと。

(山神社も移されたとのこと)

 

という簡略的な歴史の流れとなりますが、溶鉱炉跡は下郷蘭場の某所に残され、一部のみ遺構が確認できます。

しかし、鉄鉱石を産した雲上鉄山の場所については小生の確認は不明という状況です。

雲上・・・うんじょうという呼び方ですが、塚沢と達曽部の境には雲ノ上山「くものうえやま」があり、おそらくこの山麓辺りに鉄山があったものと推察されます。

細かな地名の場所に坑道跡とする遺構もあるとの記述もあり、少なくても下宮守塚沢地区に何かしらが存在していたことは確かな事でもあり、現地調査(おおげさ・・・笑)が簡単にできる時季に訪ねてみたいと思っております。

 

今回のエントリーについては、栃木県在住のK氏からの問い合わせがあり、まずは宮守村誌の記述から調べ、さらにもう少しだけ詳細をと個人的に求め宮守風土記(同級生ブロガー「遠野なんだりかんだり」(ブックマークにリンク)笛吹さんを訪ねた結果)行き着いたことでもあります。

それでもまだまだ簡略的な内容であり、宮守風土記の著者であるM原氏の言葉にもあるとおり、地域の文化、産業の面でも先人の努力を地域民や子孫に伝えたい・・・これが一番大事な事だと小生も思っております。

 

JR宮守駅

2015年、建て替えされた宮守駅

ホームに至るミニ回廊は健在

 

何度か宮守駅含み小生の知っている宮守の街について記したことがありますが、かつての面影のみ感じる雰囲気となっております。

現役時代、昭和後半~平成~令和初年と40年の勤務の中、宮守勤務は通算4度、14年となりました。(厳密には13年10ケ月)

小生の宮守出先機関勤務は最多、最長となっているはず・・・。

別に自慢でも逆の話でもありませんが、宮守村、後の宮守町への個人的な造詣は今も実は感じております。

宮守駅前

商店や旅館、食事処の食堂、小料理、寿司屋、さらにスナックがあり、遠野高校宮守分校(情報ビジネス校・・・後に廃校)も近くにあって列車通学の高校生の姿も多数、仕事帰りの方々で賑やかでした。

当直勤務での時折の出前、この駅前の「小松屋」さんからの「かつ丼ぶり」が定番で、当時の上閉伊郡一の美味いカツ丼だと思っております。

ほんと美味かった\(◎o◎)/!

今は昔ですがね・・・(;^_^A

とにかく懐かしい・・・。

 

 

参考図書、書籍

コメント (8)
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