慶長6年、阿曾沼広長(遠野孫三郎)の気仙落ちで阿曾沼氏は遠野盟主の座を追われ、遠野阿曾沼氏時代が終焉、南部太守、南部利直がより深く関りをもちながらも、遠野郷は、阿曾沼一族或いは旧臣の鱒沢氏、上野氏、平清水氏が大封を得て、彼らを主に統治がはじまる。
さらに鱒沢氏、平清水氏、上野氏が相次いで没落となり、南部利直は毛馬内三左衛門直次を遠野城代と成し、南部家による本格統治がはじまることになります。
この阿曾沼氏没落により、寛永4年の八戸根城の八戸弥六郎直義が遠野へ移封されるまで、さらに八戸直義の遠野入部前後、阿曾沼遺臣の多くが没落し、遠野を離散していったかのような雰囲気がございますが、資料等を調べてみますと主要な旧臣、遺臣達は、南部利直に采地を賜り、名を残した者、遠野領主八戸家に新規に召抱えられた者と、多くの遺臣達が没落したとは言いがたい内容でもあるようです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/d8/c2646260621d9884cef9956c9e543eb1.jpg)
本宿館跡(西館)・・・土淵町
本宿氏は、老之丞家久の時に気仙郡より遠野へ移住。
遠野孫次郎(阿曾沼広郷)に仕え、本宿村を給る。
慶長6年、南部利直より8百石を賜り、閉伊郡惣司。
家久の子、因幡家重の時に150石、家重の子、家治の時に八戸氏遠野入部に際し、岩手郡大釜に80石を給され、遠野を後にしたとされる。
他に三戸(盛岡)南部家に仕えた旧臣達は・・・・
駒木氏・細越氏・内城氏・菊池氏・宮森氏・上野氏・山口氏(火渡)・栃内氏・平原氏・畑中氏・高屋氏・新谷氏・下川原氏・・・等
遠野南部氏(八戸氏)に仕えた旧臣・・・
末崎氏・欠上氏・男澤氏・菊池氏・板沢氏・宇夫方氏・・・等
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/46/dc61a672620db977cb8ae59b3e95f2e0.jpg)
八幡館・・・松崎町駒木(海上)館主・駒木豊前
駒木氏もまた南部利直に封地500石を安堵され、後に子の隼人広三の時に350石にて、遠野を去る。
一族の中には遠野八戸家に仕えた家も確認できる。
ということで、各家の詳細は、後日に弐として掲載予定です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/4c/00443cc5f4e2f46337b5107a353f62ef.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/1e/8d3d3f24a88630fff652368f8711b043.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/a5/6b77812396fe8d9123033f66480d96c4.jpg)
天正年中、阿曾沼広郷により光興寺の横田城(護摩堂館)が鍋倉山に移され、その際に城下町も移されたといわれます。
広郷は主家への権力集中を目指したともいわれ、有力家臣の多くを城下町に移住させ、画像の石倉丁はその屋敷跡が多く存在した場所ともいわれます。
私は、信長公記にある遠野孫次郎が白鷹を安土へ贈った際に、信長の統治体制を聞き及び、このことにて主城を移したのではないのか、鍋倉城の築城は、織田信長との接触を図った天正7年以降だったものと考えております。
弐では葛西旧臣にして遠野家士(阿曾沼氏家臣)だった諸氏について、掲載予定です。
さらに鱒沢氏、平清水氏、上野氏が相次いで没落となり、南部利直は毛馬内三左衛門直次を遠野城代と成し、南部家による本格統治がはじまることになります。
この阿曾沼氏没落により、寛永4年の八戸根城の八戸弥六郎直義が遠野へ移封されるまで、さらに八戸直義の遠野入部前後、阿曾沼遺臣の多くが没落し、遠野を離散していったかのような雰囲気がございますが、資料等を調べてみますと主要な旧臣、遺臣達は、南部利直に采地を賜り、名を残した者、遠野領主八戸家に新規に召抱えられた者と、多くの遺臣達が没落したとは言いがたい内容でもあるようです。
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本宿館跡(西館)・・・土淵町
本宿氏は、老之丞家久の時に気仙郡より遠野へ移住。
遠野孫次郎(阿曾沼広郷)に仕え、本宿村を給る。
慶長6年、南部利直より8百石を賜り、閉伊郡惣司。
家久の子、因幡家重の時に150石、家重の子、家治の時に八戸氏遠野入部に際し、岩手郡大釜に80石を給され、遠野を後にしたとされる。
他に三戸(盛岡)南部家に仕えた旧臣達は・・・・
駒木氏・細越氏・内城氏・菊池氏・宮森氏・上野氏・山口氏(火渡)・栃内氏・平原氏・畑中氏・高屋氏・新谷氏・下川原氏・・・等
遠野南部氏(八戸氏)に仕えた旧臣・・・
末崎氏・欠上氏・男澤氏・菊池氏・板沢氏・宇夫方氏・・・等
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八幡館・・・松崎町駒木(海上)館主・駒木豊前
駒木氏もまた南部利直に封地500石を安堵され、後に子の隼人広三の時に350石にて、遠野を去る。
一族の中には遠野八戸家に仕えた家も確認できる。
ということで、各家の詳細は、後日に弐として掲載予定です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/4c/00443cc5f4e2f46337b5107a353f62ef.jpg)
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天正年中、阿曾沼広郷により光興寺の横田城(護摩堂館)が鍋倉山に移され、その際に城下町も移されたといわれます。
広郷は主家への権力集中を目指したともいわれ、有力家臣の多くを城下町に移住させ、画像の石倉丁はその屋敷跡が多く存在した場所ともいわれます。
私は、信長公記にある遠野孫次郎が白鷹を安土へ贈った際に、信長の統治体制を聞き及び、このことにて主城を移したのではないのか、鍋倉城の築城は、織田信長との接触を図った天正7年以降だったものと考えております。
弐では葛西旧臣にして遠野家士(阿曾沼氏家臣)だった諸氏について、掲載予定です。
今年は阿曽沼で、と宣言しておられましたので虎猫さまに相当の期待をしております、秘密結社2でございます。
具体的な姓を聞くと「この家か」と特定されたりしますね。ですから、おいらも皆様がなんとも思わなくとも、氏素性は公共電波では披露しがたいですわ
・・
ワタクシの関係は少しずつ聞き耳をたてておりますが、いざこの地になると妙に腰が引けたりします(汗)
んでも、虎猫様頼りになんとかかんとか目的を達成することができれば、と思っております。
今後とも、よろしくお願い
今頃気がつきました。この山は下栃内宝領社がある山と山続きだったんですね。
質問ですが角城舘の下に何かお社があり(私は未調査)、栃内舘の近くに八幡様があり、山口舘には十二薬師(未調査)があり、五日市舘には愛宕さん…と舘とお社は何か関係があるのでしょうかね?
山崎の八幡様は近郷八八幡の一つに数えられる…とかなんとか、と図書館の資料にあった気がします。他の七つの八幡様の所在等はこれも未調査なんですが栃内舘と関係して八幡様があると仰っていたような気がしましたから他所の舘と関係して八幡様が近くにあるのではないかと思ったりもしました。すみません、質問は舘とお社の関係です。
この前遠野へ行ったとき、石倉丁を通り、「阿曽沼時代の城下かあ・・・」と妙に感心した覚えがありました。
遠野の城下めぐりも奥が深いです。
本格的な遠野阿曾沼時代は、秋以降になりそうですが、春先から家臣団の一覧概要を手がけておりますが、なかなか進みません。
これが終った後、しかも秋以降となりますと恒例の館跡めぐりもございますら、雪が降ってからかもしれません。
来年が私にとっての阿曾沼元年かもしれません。
さて、公共の電波・・・・そのとおりかと思います。地元民としては姓を聞いただけで、あのお宅の系統か、あの家かとなりますから、極力現在のお宅には触れずのスタイルでもあります。
しかし、4百年も前のこと、しかも少ないながらもその当時の先祖の名とかが伝えられていること、これは凄いことかもしれません。
本格的な郷土史発展のためには、この方々の協力なしでは成り得ませんから、笛吹さん並みに聞き取りも必要ですね・・・笑
真冬時期に中年探偵団で訪問したホウリョウの隣山です。
館と社・・・おそらくは館が最初で、後の時代に館跡に社が建立かと思われます。
場所的には館同様、集落を見渡せる高台といいますか山野という立地、かつての歴史と相まって方角やら条件がよいものと思われます。
八幡社に関しても上記と同じと思いますが、武門との関わりは八幡でもあり、館跡との結びつきは大いに関連ありかと思います。
是非に土淵町内の八幡社探訪、お願いします。
中年探偵団も途中合流できるようしたいと思います。
阿曾沼時代後期に整えられた遠野城下、武家屋敷もその通りかと思います。
ただ、強制的に移転させられたともいわれ、また事を急ぎすぎたのか、街並みは雑然としていたともいわれております。
これらは八戸から遠野入りした八戸家が本格的に整え、後の城下町にし、発展させたようです。
遠野の町を探訪していて、八戸と同じ地名なり通り、寺院、親しみを覚える内容があって、興味が深かったのではと思いますが、いかがでしたか?