「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

津軽工藤氏と根城南部氏

2009-05-24 14:26:19 | 歴史関連コラム?
 小生の母方の姓、工藤・・・その昔、八戸から根城南部氏すなわち八戸氏、後に遠野南部氏と共に遠野へ来たといわれ、遠野南部家の下級家臣でもあった。
 大叔父や叔父によると本家筋の工藤氏があって、家老加判を代々勤める重臣の家柄とのことで、寛永11年諸士の俸禄によれば、工藤与四郎(勘々由)2百石であると推測される。
 また、後に本家は失火で屋敷を全焼させたということで、一時上士から平士に格下げの処分をされたと伝えられ、所伝でも大身の工藤氏の屋敷全焼の事が語られているので、おそらく間違いないものであろう・・・。

 ただどの時点で分家となったものか、或いは八戸時代から既に分家であったものかは本格的な調べに至らず不明となっているも下の画像、母方祖父が先祖3百年として建てた墓碑があり、やはり遠野へ来てからか?




 ということで、遠野での工藤一族に関しては、今後徐々に調べを進め、然るべき時に本格的に調べたいと思っておりますが、まずは机上での調べということで、年代はかなり遡りますが、北奥羽における工藤氏とその主筋となる八戸根城南部氏(遠野南部氏)との関係等について考察してみたいと思います。

 まずは根城南部氏と最も関係が深いとされる津軽工藤氏関連から・・・




 これは、津軽黒石(青森県黒石市)に所領を持つ工藤右衛門尉貞行が万が一を考え、生前に嫡女であった加伊寿御前に所領や職を譲るとした内容である。
 工藤貞行は津軽黒石の政所職であり、津軽田舎郡、山辺郡の他に常陸や鎌倉にも知行地を持ち、さらに伊具郡(宮城県)内の村等の代官職を持つ武家であった。




 工藤貞行は、鎌倉幕府、北条氏の御内人であったが鎌倉北条氏が後醍醐天皇による倒幕により滅亡、これにより北奥羽各地の北条方残党が建武親政に抵抗すると工藤貞行は、陸奥守北畠顕家に従い合戦奉行として津軽の北条方鎮圧に功があって、津軽山辺郡二想志郷の内は合戦での勲功として拝領、他に田舎郡の内に所領をあるが、女子の加伊寿御前に記述の2ヶ所を譲るとした内容で、男子が出生した際に、改めて配分するとの内容である。


○工藤右衛門尉貞行・・・生年没年不詳
 津軽田舎郡黒石郷を中心に活躍、元亨2年(1322)安藤一族の乱があり、鎌倉からの鎮撫軍が派遣され、正中2年(1325)には鎌倉御家人の工藤左衛門尉祐貞が派遣、現地の工藤貞行も鎌倉方として活躍したといわれる。
 後に鎌倉幕府が滅亡、北奥羽の工藤一族の多くは北条方として抵抗する中、宮方の南部師行(一応遠野南部氏先祖・伝、八戸根城南部氏第4代)と共に北条残党の鎮圧に戦功をあげ、北畠顕家配下として名を刻む。
 その没年は不明とされるが、延元3年(1338)足利尊氏討伐の北畠顕家に従い、西上の軍の人となるも北畠顕家、南部師行と共に泉州(大阪府)で足利軍に敗れ戦死ともいわれる。

 子に男子はなく、女子5人と伝えられ、嫡女は加伊寿御前、その妹に福寿御前の名がみられる。

 貞行は伊豆の工藤祐経(曽我兄弟の仇討事件)の子孫ともいわれ、祐経の子、祐時(犬房丸)が陸奥に下向との伝説もあり(八戸)、その末裔と考察される書籍も存在するも真意は不明、鎌倉時代、青森県八戸やその周辺地域にも工藤一族の足跡が確認でき、鎌倉幕府滅亡後の北条方後人の中にも多数の工藤氏が含まれている。

 そんな中、何故に津軽の工藤貞行は所領を安堵され、建武親政下で宮方として活躍したのだろう・・・北奥羽検断職として下向した南部師行、政長兄弟との縁、これによる何かあったものだろうか?




 目谷郷、野尻郷は工藤右衛門尉祐貞法師の所領であったが、鎌倉幕府滅亡によりこれを祐貞から没収、北条方残党鎮撫の勲功として工藤中務右衛門尉貞行に与えるという内容である。







 尼しれんより娘加伊寿御前への譲状
 工藤貞行の妻、後家である「しれん」から南部殿(南部信政・政長の子)に嫁いだ娘、加伊寿御前に黒石の所領を永代に譲り渡すという内容である。
 工藤貞行は、いずれの所領も後家が一生の間、領有し一期の後は女子供と計って譲り、特に黒石は所領の中心地なので、これらを持ち続ける才覚ある者に譲るべしとしていた。
 南部信政(根城南部家第6代)の妻となっていた娘加伊寿御前の器量を認めて永代に譲り子々孫々まで与えるとしている。
 ただし、石名坂(黒石の一部)は志があって加伊寿の妹、福寿御前に譲るとしている。
 加伊寿御前には女ながらも惣領として他の妹も見守っていくように、またこの書状は「しれん」の自筆で、他の者が譲状があると言っても用いてはならないとしている。

 譲状の興国4年は武家方の曽我一族が攻勢に転じ宮方(南朝)の南部氏が守る糠部郡内に攻め入り、曽我勢が敗退した翌年といわれ、南朝方であった黒石工藤氏は後家である尼しれんが家をよくまとめ所領を守った女丈夫とも伝えられております。
 
※一期(一期分・いちごぶん)
 婦女子に譲る土地等をその婦女子の一生の間だけという期限付きで、後は惣領に帰属するとしたもの。





 興国4年に貞行の後家しれんが、娘加伊寿御前に黒石の所領の一期後は譲り渡すと譲状を与えたが、加伊寿御前と夫南部殿の間に生まれた孫、力寿丸に改めて所領を譲り渡すとした内容である。
 この譲りに関しては他の子供達は違論を唱えてはならないとし、ただし、女子については少しずつ一生涯のうち譲るというもので、このことは譲証文に記してあるので守るようにとしている。
 さらに自筆であり、自筆以外は用いてはならないとある。


※力寿丸は、後の南部信光(八戸根城南部代7代)





※ 一五とありますが十五の間違い


 祖父工藤貞行の遺領を祖母である「しれん」から一期の後に所領が南部信光に譲られたが、南朝方鎮守府将軍である北畠顕信(顕家の弟)から所領として安堵された内容である。







 北奥羽南朝方として、北奥羽の地を北朝方から守り通していた南部惣領、南部政長(八戸根城南部家第5代)が孫である南部信光には八戸を、その弟の政光には七戸を譲るとする内容で七戸に関しては半分を加伊寿御前に一期として与えるとしている。
 八戸、七戸いずれも政長が勲功によって拝領した土地であるとしている。



○加伊寿御前
 幼名を数子といい長じて加伊寿といわれ、黒石工藤氏、工藤右衛門尉貞行の嫡女。
 陸奥国糠部郡に居た南部政長の子、信政に嫁ぎ南部信光、政光を生んだ母である。
 一説には夫とされるのは信政ではなくその父親である政長であるという考察もあるが、いずれ南部殿と称される南部惣領家に嫁いだのは史実とみられる。



 まとめ

 根城南部氏に関わる伝承に南部の押し掛け婿というものがあるそうだ。
 南部弥六郎義長という若者が八戸の工藤氏の館を占拠して工藤氏の未亡人を脅して無理やり娘の婿となったものとか、実は以前からこの内容を書籍等で引用したりして紹介していた経緯がありますが、ホントのところ、直接何かを詳しい方々から聴いたわけではない。
 また天正年間に甲州から逃れた南部一族があり、やはり八戸工藤氏の館を占拠し、そのまま三戸南部、南部晴政の承認を得て八戸氏となったというもの・・・等がありますが、ここは遠野南部家文書にあるとおりとすれば、津軽工藤氏、工藤貞行からの系譜につながる関係とみてもよさそうである。

 御家しれんから南部信光へ、母加伊寿御前から信光へ、加伊寿御前の妹達の一期分も後に惣領へ・・・すなわち南部信光、政光兄弟へ津軽工藤氏の所領はそのまま引き継がれたとみるべきで、津軽工藤氏は根城南部氏の中に取り込まれていったものと解釈でき、これがもとで八戸南部氏が大きな基盤を得ることができ、さらに津軽工藤氏に連なる一族の協力によって勢力拡大が出来たものと思われる。

 津軽、糠部郡(岩手県北から青森東南部)さらには秋田仙北郡の一部は八戸根城南部氏の所領があったところであり、その中でも津軽に関しては工藤氏との縁によるものが大であるのは史料によっても明らかであるも、後の室町中期以降、どのような過程を経て三戸南部氏(後の盛岡南部氏)へ勢力移行がなされたのか未だに疑問が残るのも事実でもあります。

 いずれ、まずは工藤氏と八戸氏という内容で徐々に調べを進め、八戸や津軽地方での郷土資料閲覧等で再確認をし、さらには盛岡南部の工藤氏、やがて北奥羽全体の工藤氏の足跡を少しでも解ければと思うところです。
 肝心な遠野での工藤氏は小生の勇気と実行力があれば、ある程度は解明できるのですが・・・・このことはその時期がきましたらいずれまたということで・・・・。

                  参考引用図書 八戸根城南部家文書




 午後2時過ぎから休憩をいれながら、午後6時・・・アップ作業が随分とかかってしまいました・・・・


関連ブログ・・・こちら 

Force Dragon の 【 男 の 流 儀 】様
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14 コメント

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力作 (藤九郎)
2009-05-25 19:46:37
こんばんは~。
いや~、まさに力作というか労作というか、大作ですね!!
根城南部氏と工藤氏、八戸と工藤氏というのはマイナーですが実はかなり大事な話だと思います。
工藤犬房丸の伝承が残る八戸の神社もありますし、この辺も含めてまた八戸に来ていただきたいものです。
私も工藤氏のことを一緒に調べて歩きたいです。
返信する
よろしく (とらねこ)
2009-05-25 21:47:04
藤九郎さん
是非に八戸工藤氏の足跡を共に調べて歩きたいですね。
遠野工藤氏にも必ず突き当たる八戸、またひとつ八戸へ行く大義名分ができた思いですし、楽しみでもあります。
その際はどうぞよろしくお願いします。
返信する
お初にお目にかかります (健龍庵)
2010-05-15 13:17:59
 おはつにお目にかかります。根城南部氏と奥州工藤氏の関係を調べていてこちらのブログに辿りつきました。
 私は黒石の産で母の旧姓が工藤、南津軽の産の妻の母の旧姓も工藤です。

 今、自分のルーツを考えてみようと思い根城南部氏と奥州工藤氏のことについてブログに書いています。『Force Dragonの男の流儀』で検索していただくと最新記事が検索できると思いますので、ご一読いただければ幸いです。

 内容はともかく私のブログを開いていただければ、管理人様もあらまビックリだと思います。私はこちらのブログを開いた瞬間にビックリしてしまい一瞬自分の目を疑ってしまったのです。
 同族とは考えることが一緒なのでしょうか。 
返信する
はじめまして (とらねこ)
2010-05-16 11:07:43
健龍庵さん、はじめまして。
ようこそお越しくださいました。
管理人のとらねこと申します。

津軽黒石に縁ある方、さらに工藤氏にも深い関わりがあるといことで、恐縮しているところです。
小生の場合は、自分のルーツといったところではありませんが、遠野南部氏(八戸氏)と関わりある工藤氏との関係に興味があるということ、また母親の家系が工藤姓であるということで、若干調べて記載したに過ぎません・・・と言いながらも興味ある分野ですので、こうしてコメントをいただき、感謝しているところですし、何か情報等も含めてありましら今後もひとつよろしくお願いいたします。
この度は誠にありがとうございました。
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ありがとうございました (健龍庵)
2010-05-18 12:48:49
 拙ブログの方へもコメント頂き恐縮しております。

 私も妻もとらねこさんと同様に、母方が工藤なのですが、双方とも女系です。私の母方は5女1男、妻の母方は8女2男です。工藤氏というのはやはり女系であると思われます。
 「根城南部氏は女系の工藤氏」という云われ方もあるようですが、家の名は男系が残っても、血統は女系が継いでいくような気もします。
 工藤の縁ということでこれからもよろしくお願いいたします。
返信する
こちらこそ (とらねこ)
2010-05-19 10:19:40
健龍庵さん
再コメント痛み入ります。
工藤姓に関しては母方ということで小生は菊池姓ですが、こういった歴史分野とかに興味があって、少し調べているという程度となっております。
盛岡南部藩士の工藤氏の中には実は厨川工藤氏ではなく八戸根城家臣の工藤氏の系譜ということも判明しており、かつては大きな勢力だったことが窺われ、いずれ詳しく当方も調べてみたいと思ってます。

女系・・・工藤氏はともかく我家は代々女系で父親の代のまでは何故か男子は早死にしたりだったらしいです。
ということで、今後とも何かございましたら、よろしくお願いします。
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工藤氏 (稲用)
2013-08-22 17:07:48
岩手の工藤家を調べていたら、名久井の工藤家の話が出てきて、その後とらねこさんのブログが引っ掛かりました。
八戸に犬房丸(祐時)の伝説がありますが、いまさらなんですが、犬房丸は系図上ではうちの先祖でもあるんですね。八戸市の蕪島神社は犬房丸が勧請したと伝わっていますが、上記の貞行の先祖と日向伊東家(稲用家)の先祖は兄弟で、犬房丸の子らです。
犬房丸(祐時)の
子その1:祐朝 ・・・ 貞行に繋がる
子その2:祐光 ・・・ 日向伊東家・稲用家に繋がる
そして名久井の工藤氏(東氏)も稲用家と同じ祐光の子でした。
最近私はブログで「戦国南部興亡記」というコーナーを連載していますが、八戸・三戸地域の戦国時代の解明には工藤氏が鍵を握っていると思っています。
今後、その解明を進めていきますが、その過程で津軽の貞行の系の謎も解明できるかもしれません。
八戸に残る犬房丸伝説も調べてみたいです。
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早とちり (稲用)
2013-08-22 17:12:53
失礼しました。
もう一度系図を見てみたら、稲用家は祐光の系ではなく、祐光の兄弟の系でした。
訂正いたします。
でも犬房丸の子孫であることは間違いないですね(系図上では)。
犬房丸は謎が多いです。

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遠い親切? (とらねこ)
2013-08-22 18:36:59
稲用さん
犬房丸つながりでかなり遠いかもしれませんが先祖でつながっているかもしれませんね・・・(*゜▽゜*)
八戸の工藤氏関連の今後の調べや考察に期待しておりますし、楽しみにしております。
また自分でもそのうちに調べてみたいそんな思いでもありますので現地調査で奥州入りの際は是非にお声がけください。
返信する
了解 (とらねこ)
2013-08-22 18:38:13
稲用さん
了解です。
あっ、先のコメントタイトル「親戚」と打ちこむつもりが親切になってました・・(ーー;)
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