「菊池、佐々木は馬の糞」・・・馬産地遠野、昔の遠野ならではの言い方で、そこら中に馬の糞が落ちているといったことで、それだけ遠野では菊池さんが多いという例えとなっている。
無論、今時、落ちている馬の糞を見つけ出すことは難しいことではありますが・・・笑
他に群衆に向かって小石でも投げれば菊池さんの誰かに当たる確率が極めて高いという言い方もされております。
そういう小生も菊池姓ですが、高校を卒業するまでは確かに苗字で呼ばれたことはほとんどなく、また、これが普通といいますか何も感じずにいたこと、これはホントのことでもありました。
今こうして、菊池姓の探求をしているからこそ、あまりにも多い遠野の菊池さんを実感しているところです。
ちなみに何度か過去にもご紹介しておりますが、4人に1人は菊池姓、世帯でいうなら約1万世帯強の内、2千世帯は菊池姓のお宅でもあります。
さて、遠野の菊池姓を探求し歴史的な何かを調べれば早期の段階で小友の新谷菊池家由来」菊池家系図に行き当たります。
平清水氏、新谷氏とつながる系図ではありますが、紐解けば天正年間末期における豊臣秀吉の奥州仕置に関り改易となった葛西氏の配下であった菊池一族の遠野流入がそのひとつであることは間違いなさそうでもある。
遠野の菊池姓探求では大きなウエイトを占めている天正年間末期でありますが、それ以前の時代に関しても、若干触れられている点もあり、そのひとつに九州肥後国の菊池一族、菊池武時の九男といわれる菊池武敏の奥州下向説、これは南北朝時代まで遡ることになりますが、その系譜を伝えるという宮守氏(宮森・宮盛・宮杜)の存在があげられます。
私の菊池姓探求では、一応この南北朝期までが遠野の菊池氏流入の考察範囲と決めておりますが、もうひとつ、遠野市史や遠野の城館跡関連資料に見える青笹臼館の菊池兵庫助成景の存在、前説のふたつの菊池一族の系譜との接点も考えられますが、こちらも興味が強いものでもあります。
さて、前回エントリーでご紹介した書籍「菊池一族の誇り」に掲載の内容で実に興味深い系図が記載されておりました。
まさに驚愕といった場面ではありましたが、新谷菊池家系図の他にも菊池家系図が無いのがおかしいと常々思っておりましたので、やはり在ったかという思いでもあります。
著者の菊池先生の解説によりますと、2代九郎三郎の頃に阿曽沼氏に仕え、4代重隆から15代長元の時代に青笹の臼館を居舘としていた。
この系図でまさにあの菊池兵庫助成景が登場している。
10代菊池盛隆の時に陣代(後見役)として君臨、しかも盛隆の叔父である。
正長元年(1428)~寛正6年(1465)までの37年間にわたり陣代として臼館菊池一族に重きを成していただろうと推測されますが、寛正5年に菊池宗家と総帥権をめぐって対立、遠野領主阿曽沼氏をも巻き込んで戦乱となり寛正6年に討ち死にと記されている。
さらに14代菊池長光時代に長光が幼いことをよいことに菊池成景の末裔、大弥太成武が宗家に陰謀をめぐらし、一族間の争乱となっている。
15代菊池長元の時に臼館を放棄して鳥越屋堡に移住、しかし長元は敗れ青笹菊池一族の総帥権を失い、鳥越屋堡も放棄している。
その後、遠野孫三郎(阿曽沼広長)に仕えるも慶長5年に主家と共に零落、同6年、気仙郡大谷地(住田町)の戦いで討死にと記されている。
※鳥越屋堡→糠前鳥小屋・・・・「堡」とりで
臼館跡(青笹町)
系図によれば臼館は資料による菊池成景の居館ではなく、青笹菊池惣領家の居館となることになります。
系図では一族間の争乱を伝え、遠野物語拾遺に登場の「戦場」の伝承と思わせる内容も含まれ、興味深いことではあります。
惣領家と支流であるも一族で力ある菊池成景との総帥権を争った戦乱、この内容に以前から調査探訪を実施している同町沢田の花館の存在をどうしても重ね合わせてしまいます。
私は花館の妄想考察に、花館の菊池氏、臼館の菊池氏の争いがあったのではないのかと考察しておりますが、まさに一族間の争い、これに阿曽沼氏も巻き込んでの戦乱が記され、大きく展開が変わった思いではないものの、今後の探求の道標的な何かは得た思いがいたします。
伝承では飯豊の館の主と臼館の館主の争いとも伝えられ、このことが頭から離れませんが、系図でいう惣領家が最後に篭った館を鳥小屋堡としていますが、花館のことではなかったのか?もし鳥小屋付近に館跡が残されているなら新発見でもあり、これはこれでたいへん興味があります。
しかし、鳥小屋辺りから花館までは直線距離で1キロ位か?近いには近い・・・・?
花館跡・・・青笹町
私の花館考察では、花館の菊池一族は別グループが臼館に移動、後に糠前辺りを主戦場に領地争い等で争乱となったのではないのか、最後は花館側が敗れたのではないのか?と妄想考察をしております。
いずれにしても遠野菊池の会刊行の「菊池一族の誇り」・・・なかなかの秀説が展開されており、かなり参考になっております。
私の妄想考察にもある程度近い内容もありますし、私が疑問と思う点も別方向から考えやすい考察がけっこうあって、取り組みやすい著書でもあります。
しばらくはこの書籍を中心に遠野菊池一族の考察となりそうです。
おまけ
涙・・・・実は今回のエントリー、もっと長文でかなり核心に迫った内容を記述しておりましたが、途中でプレビューにて確認した際に誤字を確認、そのままブレビュー画面をクリックしてしまい、2時間以上かけた労作が水の泡・・・・泡・・・あわわわ・・・涙
空いた口が塞がらず・・・汗・・・・たまにあるんですが学習しているはずが・・・・涙・・・・。
今回のエントリーはかなり疲れました・・・汗
そんな主人の横で・・・・汗
あきれるも少しだけ癒されました・・・・笑
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そういえば菊池秀之氏の信州佐久菊池氏も赤星氏の流れと伝えていることが思い出されました。
青森にも見られる赤星氏・・・菊池成景の名前・・・
面白そうな展開ですね。
赤星ということは、北奥羽の場合ですと青森となりますが、八戸から遠野へ入ったという俗説に符合しそうな雰囲気もあります。
いずれ菊池成景は遠野の歴史にも語られる菊池一族の代表的な武将で伝承でも語られる人物でもあり、この方面の調べも興味深いです。
信州佐久には桜井ばかりかとおもてましたが菊池氏もあるのですか
臼舘
>気仙郡大谷地(住田町)の戦いで討死に
で家名は途絶えたのでしょうか?
今月8日に喜清院にお墓参りに行ったとき
「臼舘」と掘られた墓石を見かけました。
丑舘姓の方は居られますし、そのお宅かなと思ったのですが、そのお宅は別にお墓がありまして・・・
んじゃ、臼舘家は?
ちと、不思議な気持ちになっておりました。
それにしても、どうしてここまで、江刺・遠野で菊地&菊池が広まったのか・・・・・・
私は、どうしても熊野米良文書に出てくる長禄年間の出羽・奥州両国一円菊地の一族檀那売券文書と文明年間の奥州一円菊地名字檀那売券文書が気になってしかたありません。同族の者が一円に広まるほど居たのはなぜなのだろうと?
この話ををはじめると、朝になりますね!笑
今後の展開を楽しみにしています。
臼館の菊池氏の末裔の方がどうなっているかは調査不足で不明ですが、一説には宮沢姓となって今にその系譜を伝えているともいいます・・・仔細は不明?・・・嫁さんの旧姓が宮沢姓ですのが、土淵の宮沢か上郷の宮沢か?花館との関連性からは土淵飯豊の宮沢の方が何かしら関わりがありそうな雰囲気でもあります。
花館の館主は宮沢某と語られております。
米良文書、確かに気になるところです。
南部一族という文字もかなり確認でき、これもまた興味深いものがありますが、今日の遠野、江刺の菊池姓の爆発的広がりを考えますと、これまた頭を悩ませる内容でもあります。
あまりにも多すぎる姓、菊池・・・わかりそうでわからない、でもこれがまた調べる楽しみもあっていいですよね・・・笑
今の姓、珍しいのですか?・・・気になりますね。
後でこっそりと教えてください。
地名での姓、何か謂れがありそうですね。
この寺はのちに采女の末裔という内膳という武士住持が争って気仙沼大島に移転されますが、この武士の名は菊池内膳とも村上内膳とも伝わっているんですよ。気になるのは系図の球磨太郎長元が慶長六年の合戦で戦死しているところで、広長方に付いたのか、南部方に付いたのか分かりませんが、これが合地沢の菊池家の来住とされる頃と同時期なのは気になりますね。この家が獅子頭を管理する猫淵神社の権現舞は全盛期には遠野の上郷、青笹、小友にまで踊りにいったと聞いてきましたが…。