午後は青空か広がり春のような気候という天気予報ながら、雨模様、エントリーの画像収集に出かけるも途中で断念、よって以前の画像をひっぱり出してご紹介いたします。
天気予報は昨夜のもの、今朝のものは確認していない・・・汗
てずからさんや山猫さんも数え唄風に自ブログでご紹介されてましたが、当方は遠野の歴史関連の数え唄、節回しや語呂は無視しております・・・・笑
壱(一)
一里塚
宮守町迷岡の一里塚
慶安年間に遠野南部家の命により遠野城下宇迦神社を始点に花巻街道に作られた一里塚。
駒形神社脇に現存しており、当時の街道は現在の国道ではなく迷岡から鱒沢に通じていたことが窺い知ることでもあり、その遺跡もほぼ当時の形でのこされています。
弐(二)
二日町の何かと考えましたが、二日町の谷地館とかお寺とか、なんでも繋がってしまいますので、今回は弐は省きます。
参(三)
三戸守行
三戸守行(南部守行)の墓・・・附馬牛町東禅寺
三戸南部第13代、三戸南部中興の祖といわれ、北奥羽で多くの伝説的な逸話を残す武将であるが、永享年間の室町初期、気仙勢、大槌勢に包囲された遠野横田城の援軍として南部勢を率いた三戸守行が来援、気仙勢に上宮守神成館で一度は敗れるも、退却と見せかけて達曽部~附馬牛への間道を抜け、突如として松崎へ乱入、大いに気仙、大槌勢を打ち破るも大槌城での戦いで流れ矢にて討ち死に・・・遺体は附馬牛東禅寺に埋葬されたと伝えられる。
しかし、私は守行が遠野へ来たものかは疑問であり、三戸南部氏が当時北奥羽で覇を唱えていたかも疑問視している。
討死にした年齢は79歳ともいわれる当時としてはかなりの高齢でもあったという。
四
四戸三平
四戸三平の碑・・・松崎町白岩 遠野郷八幡宮境内
遠野出身、盛岡藩士。
幕末~明治初期に活躍した馬術の天才、明治新政府の下、近衛連隊騎兵の教官を歴任、三平の弟子の多くは後に曲馬サーカスの師匠を輩出、まさに軍馬、馬術の神様と賞賛された人物であった。
伍(五)
五日市館
五日市館の愛宕社・・・土淵町土淵五日市
阿曽沼時代、五日市は市が開催され、五日市館と共に繁華な地域であったと伝えられる。
館主を五日市又五郎と伝えられるも詳細はわからず、今は館跡山頂に愛宕社が鎮座し、東側山麓には五日市集落が佇んでいる。
六
六郎
南部神社・・・鍋倉城址
遠野南部歴代8世を祭神とする神社であるが、初代実長公は南部六郎実長、5代政長公も六郎と称し、八戸から遠野へ入部した歴代公は弥六郎と称していた。
甲斐国波木井(山梨県身延)を領していた南部実長公、実継公、長継公と4代南部師行公の関連は最近の研究では史料の上ではその関連性が見えないとの見解が主流となっている。(師行公は長継公の養子として本家から入ったと通説では語られる)
遠野にての南部氏研究も通説にとらわれない最新の研究成果を導入しつつ、検証のし直しが必要と感じます。
余談で失礼なことではございますが、遠野旧事記の口語訳を著された○原先生もまた六○氏といいますが、遠野の偉人として加えさせていただきます。
その功績はすばらしいと私は思います。
七
七観音
遠野七観音・・・七番笹谷観音・・附馬牛町東禅寺沢の口
嘉祥年間とも斉衡年間(848~856)ともいわれ、天台宗開祖の最澄の高弟、慈覚大師円仁が早池峰山妙泉寺を草創し、その際に霊木を得て一本の木から七体の観音像を刻んで七箇所の地に安置したのがそのはじまりと伝えられる。
一番・大慈山長福寺 山谷観音(小友山谷)
二番・麦沢山松崎寺 松崎観音(松崎)
三番・谷行山細山寺 平倉観音(上郷平倉)
四番・鞍迫山福滝寺 鞍迫観音(宮守上鱒沢)
五番・月見山平沢寺 宮守観音(宮守上宮守)
六番・大月山栃内寺 山崎観音(土淵栃内)
七番・附馬牛山長洞寺 笹谷観音(附馬牛東禅寺)
寺の焼失や荒廃さらに秘仏の行方知れずやら、その実態がなかなかつかめないものではあるが、そのほとんどが江戸時代になってからの復興といいますか再興が語られ、以前の姿は言い伝えのみがその主でもありますが、機会がございましたら七観音全てをお参りすること、是非にお薦めいたします。
八
八幡太郎義家伝説
八幡太郎と足洗川
前九年合戦にて敗走する安倍貞任を追って八幡太郎(源義家)は遠野へもやって来たと伝えられる。
義家の愛馬の足を洗った川を足洗川と呼び、源氏軍が陣を敷いた場所を八幡座と伝えられ、安倍軍と矢合戦が行なわれたと伝承されている。
土淵町大杉には安倍貞任の弟の屋敷があったり、貞任山やその他その逸話を残す箇所が伝えられている。
前九年合戦との関わりを深く残す地、遠野、この時代もまた大いに研究すべきではあるが・・・・・。
八幡太郎義家の像は群馬県内のものです。遠野にはございません。
九
九曜紋
遠野南部家の裏家紋
南部家の家紋は南部鶴と称される双舞鶴紋であるが、遠野南部家の場合は、家臣には自家の家紋がついた羽織とさらに主家からいただいた双舞鶴紋或いは九曜紋が入った羽織があったといわれている。
主家からの羽織は先祖が何かしらの功で下賜された場合、または殿様の代理として何かの役に就いた際にいただいたもの等とされますが、九曜紋の場合は家老加判の新田氏からいただいたものといわれている。
下賜された紋付羽織は何かの祭事やら行事で着用が義務付けられ、これら羽織は古ければ古いほど価値があって、身分問わず羽織が示す先祖の功労で席順がその時だけ変わったといわれるくらい大切なものだったそうです。
九曜紋も裏家紋とはいえ、表で幅を利かせる効果がある存在でもあったようです。
拾(十)
拾戸
遠野盆地
流石に書き込みだけで若干疲れました・・・・笑
遠野南部家より市に寄贈された古文書の写本、一頃新資料の発見とか遠野が拾戸、すなわち南部領の十番目の戸とか話題になりましたが、これは何も知られざる歴史でもなく、遠野市史やら南部家文書をまとめた書籍にも活字として記載されている内容で、写本が出てきたからといって今さら騒ぐようなことではない。
強いていえば、遠野南部家の現当主様から本物を写した極めて本物に近い内容をいただいたということが凄いことで、その歴史的価値等をもっと評価するべきで、他の資料もさらに大切に保管なり、解読するなり後世に伝えることが肝要かと私は思います。
さて、拾戸は遠野、これは太守南部利直から遠野転封により遠野の知行に関する調査目録を八戸直義がいただいた黒印状ですが、その中に「拾戸(とおのへ)遠野村付の目録」と記述されている。
これにより遠野は拾戸、十番目の戸と認識するものですが、確かに太守の利直が発給した公文書でもあるし、太守自らもそういう認識だったと推測されます。
しかし、ではそれ以前から遠野は拾戸と呼ばれていたかといえば、それは確認できず、また遠野へ八戸氏が入部し、後の時代も拾戸といわれていたか、または公文書に拾戸と書かれていたのか・・・といえば私は今の所確認していない。
おそらく、南部利直とその側近達によるその時だけ遠野は拾戸という位置付けとした内容で、それだけ遠野は領内の南境として重要拠点であり、また八戸家に対してもそれだけ重みのある大切な地へ移っていただくという意味合いがあったものだろうと私は考えます。
ということで・・・・・どんどはれっ
天気予報は昨夜のもの、今朝のものは確認していない・・・汗
てずからさんや山猫さんも数え唄風に自ブログでご紹介されてましたが、当方は遠野の歴史関連の数え唄、節回しや語呂は無視しております・・・・笑
壱(一)
一里塚
宮守町迷岡の一里塚
慶安年間に遠野南部家の命により遠野城下宇迦神社を始点に花巻街道に作られた一里塚。
駒形神社脇に現存しており、当時の街道は現在の国道ではなく迷岡から鱒沢に通じていたことが窺い知ることでもあり、その遺跡もほぼ当時の形でのこされています。
弐(二)
二日町の何かと考えましたが、二日町の谷地館とかお寺とか、なんでも繋がってしまいますので、今回は弐は省きます。
参(三)
三戸守行
三戸守行(南部守行)の墓・・・附馬牛町東禅寺
三戸南部第13代、三戸南部中興の祖といわれ、北奥羽で多くの伝説的な逸話を残す武将であるが、永享年間の室町初期、気仙勢、大槌勢に包囲された遠野横田城の援軍として南部勢を率いた三戸守行が来援、気仙勢に上宮守神成館で一度は敗れるも、退却と見せかけて達曽部~附馬牛への間道を抜け、突如として松崎へ乱入、大いに気仙、大槌勢を打ち破るも大槌城での戦いで流れ矢にて討ち死に・・・遺体は附馬牛東禅寺に埋葬されたと伝えられる。
しかし、私は守行が遠野へ来たものかは疑問であり、三戸南部氏が当時北奥羽で覇を唱えていたかも疑問視している。
討死にした年齢は79歳ともいわれる当時としてはかなりの高齢でもあったという。
四
四戸三平
四戸三平の碑・・・松崎町白岩 遠野郷八幡宮境内
遠野出身、盛岡藩士。
幕末~明治初期に活躍した馬術の天才、明治新政府の下、近衛連隊騎兵の教官を歴任、三平の弟子の多くは後に曲馬サーカスの師匠を輩出、まさに軍馬、馬術の神様と賞賛された人物であった。
伍(五)
五日市館
五日市館の愛宕社・・・土淵町土淵五日市
阿曽沼時代、五日市は市が開催され、五日市館と共に繁華な地域であったと伝えられる。
館主を五日市又五郎と伝えられるも詳細はわからず、今は館跡山頂に愛宕社が鎮座し、東側山麓には五日市集落が佇んでいる。
六
六郎
南部神社・・・鍋倉城址
遠野南部歴代8世を祭神とする神社であるが、初代実長公は南部六郎実長、5代政長公も六郎と称し、八戸から遠野へ入部した歴代公は弥六郎と称していた。
甲斐国波木井(山梨県身延)を領していた南部実長公、実継公、長継公と4代南部師行公の関連は最近の研究では史料の上ではその関連性が見えないとの見解が主流となっている。(師行公は長継公の養子として本家から入ったと通説では語られる)
遠野にての南部氏研究も通説にとらわれない最新の研究成果を導入しつつ、検証のし直しが必要と感じます。
余談で失礼なことではございますが、遠野旧事記の口語訳を著された○原先生もまた六○氏といいますが、遠野の偉人として加えさせていただきます。
その功績はすばらしいと私は思います。
七
七観音
遠野七観音・・・七番笹谷観音・・附馬牛町東禅寺沢の口
嘉祥年間とも斉衡年間(848~856)ともいわれ、天台宗開祖の最澄の高弟、慈覚大師円仁が早池峰山妙泉寺を草創し、その際に霊木を得て一本の木から七体の観音像を刻んで七箇所の地に安置したのがそのはじまりと伝えられる。
一番・大慈山長福寺 山谷観音(小友山谷)
二番・麦沢山松崎寺 松崎観音(松崎)
三番・谷行山細山寺 平倉観音(上郷平倉)
四番・鞍迫山福滝寺 鞍迫観音(宮守上鱒沢)
五番・月見山平沢寺 宮守観音(宮守上宮守)
六番・大月山栃内寺 山崎観音(土淵栃内)
七番・附馬牛山長洞寺 笹谷観音(附馬牛東禅寺)
寺の焼失や荒廃さらに秘仏の行方知れずやら、その実態がなかなかつかめないものではあるが、そのほとんどが江戸時代になってからの復興といいますか再興が語られ、以前の姿は言い伝えのみがその主でもありますが、機会がございましたら七観音全てをお参りすること、是非にお薦めいたします。
八
八幡太郎義家伝説
八幡太郎と足洗川
前九年合戦にて敗走する安倍貞任を追って八幡太郎(源義家)は遠野へもやって来たと伝えられる。
義家の愛馬の足を洗った川を足洗川と呼び、源氏軍が陣を敷いた場所を八幡座と伝えられ、安倍軍と矢合戦が行なわれたと伝承されている。
土淵町大杉には安倍貞任の弟の屋敷があったり、貞任山やその他その逸話を残す箇所が伝えられている。
前九年合戦との関わりを深く残す地、遠野、この時代もまた大いに研究すべきではあるが・・・・・。
八幡太郎義家の像は群馬県内のものです。遠野にはございません。
九
九曜紋
遠野南部家の裏家紋
南部家の家紋は南部鶴と称される双舞鶴紋であるが、遠野南部家の場合は、家臣には自家の家紋がついた羽織とさらに主家からいただいた双舞鶴紋或いは九曜紋が入った羽織があったといわれている。
主家からの羽織は先祖が何かしらの功で下賜された場合、または殿様の代理として何かの役に就いた際にいただいたもの等とされますが、九曜紋の場合は家老加判の新田氏からいただいたものといわれている。
下賜された紋付羽織は何かの祭事やら行事で着用が義務付けられ、これら羽織は古ければ古いほど価値があって、身分問わず羽織が示す先祖の功労で席順がその時だけ変わったといわれるくらい大切なものだったそうです。
九曜紋も裏家紋とはいえ、表で幅を利かせる効果がある存在でもあったようです。
拾(十)
拾戸
遠野盆地
流石に書き込みだけで若干疲れました・・・・笑
遠野南部家より市に寄贈された古文書の写本、一頃新資料の発見とか遠野が拾戸、すなわち南部領の十番目の戸とか話題になりましたが、これは何も知られざる歴史でもなく、遠野市史やら南部家文書をまとめた書籍にも活字として記載されている内容で、写本が出てきたからといって今さら騒ぐようなことではない。
強いていえば、遠野南部家の現当主様から本物を写した極めて本物に近い内容をいただいたということが凄いことで、その歴史的価値等をもっと評価するべきで、他の資料もさらに大切に保管なり、解読するなり後世に伝えることが肝要かと私は思います。
さて、拾戸は遠野、これは太守南部利直から遠野転封により遠野の知行に関する調査目録を八戸直義がいただいた黒印状ですが、その中に「拾戸(とおのへ)遠野村付の目録」と記述されている。
これにより遠野は拾戸、十番目の戸と認識するものですが、確かに太守の利直が発給した公文書でもあるし、太守自らもそういう認識だったと推測されます。
しかし、ではそれ以前から遠野は拾戸と呼ばれていたかといえば、それは確認できず、また遠野へ八戸氏が入部し、後の時代も拾戸といわれていたか、または公文書に拾戸と書かれていたのか・・・といえば私は今の所確認していない。
おそらく、南部利直とその側近達によるその時だけ遠野は拾戸という位置付けとした内容で、それだけ遠野は領内の南境として重要拠点であり、また八戸家に対してもそれだけ重みのある大切な地へ移っていただくという意味合いがあったものだろうと私は考えます。
ということで・・・・・どんどはれっ
数字が付く地名は幾つかあるから挙げるだけは出来ましょうが、歌にするという発想がないですね。
「何かに準える」作業もなかなか労力が要ります。
時折妄想の域を出ないであろうテーマを考えていますが、形にするには時間の余裕がありません。
今のトコ、成し遂げた皆々様の独創性に拍手を送るのみ
続石は歴史ネタです。
サーカスの曲乗りを輩出した遠野という切り口は、すごい斬新です。はぁぁ、びっくり鯉太郎です。
コメントがシンクロした!
ああ、びっくり!
ありがとうございます。
少しクドク長くなったエントリー、しかも歴史絡みということで面白みに欠けますが、お付合い感謝いたします。
妄想、結構ではないですか、その妄想というより発想がいいのでありまして、特にたま千代さんのエントリーはすばらしい画像と共に遠野人にはない感性があって皆さんをひきつける何かがあるものと思っております。
さて山猫氏の来遠近し、たま千代さんのご出馬もご期待しているところですよ、11月と代わり映えしない風景かとは思いますが、遠野の少し早い小さな春を見つける、これもまた楽しいのではありませんか、是非に前向きのご検討にてご来遠をお待ちしております。
ホントだっ、たま猫さんとダブってますね、やはり駿河と亘理は遠く離れていても赤い糸ならぬピンクの糸で繋がっているのか・・・・笑
お二人の遠野に関する事柄は賞賛にあたりますよ、まさに最強遠野通いブロガーでしょう・・・・。
さて、歴史数え唄風・・・少し堅い内容となりましたし、歌になっていないということ、まことに恥しい限りです。
次回はもう少し砕けた内容としたいと思います。
目の付け所が「とらねこ」してます(*^-^)v
遠野数え紀行とでも申しますか、続編もありそうですね。
いやいや勉強になる(=^▽^=)
わたしゃ~勉強がたらんね~(+_+;
お誉めのお言葉、おしょすす・・・笑
続編も考え中ですが、歴史関連はネタはあっても数え唄風は少し難しいです。
五十音順とか、地域とか・・・何かに限定すればまだまだ出てきそうです。
ところで山猫氏を駅でお出迎えして、午後半日、土淵や松崎を運転手をすることにいたしました。
飯豊界隈にもお邪魔する予定ですだ。
ありがとうございます。
マイナー分野ですし、なかなか通とかマニアしか来ない分野でもあると認識してますが、それでも反応がなければ励みにもならないと思ってましたので、うれしいです。
さて、是非にミニぶれんどへのご参加よろしくお願いします。
恥しいことはございません、私なんかは顔だけでも自信が持てないのに、ましてや口下手ですからね。
でも、会ってみればそれほどでもなくて、かえって楽しいと思いますよ。
一応、一如さんや携帯番号等がわからない方々の為に11日午後6時半頃に遠野駅前河童像の辺りにて赤いジャンパーを着て目立つようにしてお待ちしておりますので、お声掛けください。
無論、義姉さんに連絡して番号を確認いたします。
ちらっとしかみなかったけど、なんとも謎が残る墓ですね。
四戸三平、八戸藩士だった渡辺馬淵の記した「馬淵野史」には四戸九馬と書かれていますが八戸藩にも鳴り響く馬術の名人だったようですね。
南部の偉人といってもいい人だと思います。