「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

師走、福泉寺プチ散策

2009-12-16 18:13:28 | 福泉寺・伝承等

 今朝は氷点下7度近くまで冷え込み、日中は晴れたものの風が冷たくてカメラ撮影を兼ねた散策をしようか?それともこの時期にライフワーク化している市内の城館跡の探訪をしようか、はたまた寒いので何処へも行かずに家で温まっていようかと迷う・・・。

 とりあえず、年末の支払い関係があって市内の金融機関廻りを午前中行うも、やたら寒くて帰宅するや出かけるのが億劫になって昼過ぎまで家でゴロゴロしておりました。

 しかし、いいお天気には変わりなく、少し身体を動かそうということで、いつもの散策コースを久しぶりにカメラ片手に歩いてみました。

 

 

 陽が射すのは山や木々の影響で午前11時近くとなる福泉寺、池の氷もほとんど融けない。

 

 

観光オフシーズンといったところ・・・参拝者もほとんど訪れない。

 

 

一気に大観音・・・汗

 

多宝塔

 卓越技能者で社寺工舎代表の菊池棟梁が奈良での修行を終えて一番最初に手掛けたのが地元福泉寺の多宝塔であった。(昭和53年着工、昭和57年完成)

 

 大観音堂

 

 2代住職 尻石(摺石)宥然和尚が単独で20年の歳月を費やして彫った福徳十一面観音像が収められている。(昭和40年10月落慶)

 高さ17メートル、木彫観音では日本一の大きさを誇る。

 

拝殿には・・・

 

 

 

 彫もの及び細工は小山田(現花巻市東和町)の小原喜蔵氏・佐々木松太郎氏によるものである。(昭和37年依頼とのこと)

 ちなみに小原喜蔵氏は福泉寺本堂を手掛けたあの小原樗山氏の長男。

 

 本堂の彫もの(小原樗山 作)

 

 

大観音像(福徳十一面観音像)

 

 

 2代宥然師、3代正全師共に出身は下閉伊郡小国村尻石(現川井村・川井村はH22年1月1日宮古市と合併)

 過去ログにも記したことがありましたが、シンガーソングライターの「高石ともや」さんは、福泉寺とも縁がある方で、高石さんの父は川井村の尻石のご出身で宥然和尚の甥で、正全和尚の従弟である。

 先日、テレビ局クルーが取材に訪れるとの情報があったが、年に何度かテレビや雑誌等の取材があるお寺さんでもあり、いつものことと流しておりました。

 有名タレントが来るとかであれば、アナウンスも高々で入ってくるのですが、今回は音無しであったこと、情報源の母親が取材日程とか聞いてなかったこともありますが、どうやら高石ともやさんが来たらしい。

 「遠くへ行きたい」というテレビ番組で、この旅の主役は高石ともやさん。

 数十年ぶりに遠野の従弟(住職)と会い、先代住職(宥然師)の墓所に手を合せ、境内を住職の案内で散策する内容であったそうです。

 その後、川井村尻石を訪れ父の故郷の方々と親睦、その懐かしさに触れたという番組構成だったようです。

 正全和尚も高石氏とは数十年ぶりの再会で、懐かしさもひとしおだったと聞きました。

 

 キー局の放映は12月20日なそうですが岩手では放映されていないみたいです。

 

 

 今回も肉球・・・汗

 

 

 次回の福泉寺は大晦日の風景をお伝え予定です。

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寒い・・・

2009-12-15 19:14:18 | その他

 天気予報通り、気温も下がり里も積雪となりましたが、市内ではバラツキがあるようで上郷方面は一面銀世界だったとか?また花巻や北上といった内陸部も少ないとはいえ白い朝だったようです。

 遠野中心部は・・・パヤっと気持ちだけ降ったようですが、道路の凍結もあって久々に車の運転に肩が凝ったという方々も多かったのではないでしょうか?

 

松崎町駒木・・・我家から

 

 寒いというより、まだ真冬ではありませんので、中途半端な寒さ・・・。

 寒ければ寒いで覚悟もしますし、身体もそれなりに慣れるということで、カメラ持って出かけるということも有りなのですが、本日は全くその気になれず・・・汗

 城館探訪もまだまだ出来るのですが、本日は休養日にしてほとんど一日中自宅で過ごす・・・。

 よって画像もないので僅かに家の中で咲いている花っこでごまかす・・・汗

 

 

 

 

おまけ

 

1ヶ月に2~3回は盛岡冷麺・・・大汗

 

 

画像は12月12日のもの。

 

 なんか平均すると月に2~3度は盛岡冷麺を食べているような・・・。

 今年は特に多いような気がします。

 

 12日は前橋に行く長男を新花巻駅まで送っていったついでに昼は盛岡冷麺をいただいたものです。

 あっ・・・ちなみに今回は「やまなかや」です。

 寒くても冷麺は美味いですね・・・笑

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都会の味、ホッピー

2009-12-13 21:08:39 | その他

 オール阪神巨人のコマーシャル・・・「車にポピー・・・ポピー」・・・笑・・・なわけないでしょ・・・汗

 

 ホピーではなくホッピー・・・・

 

 

 遠野では、ほとんど飲むことができないホッピー・・・・。(若干焼鳥屋さんなんかで飲める)

 進学や就職で都会暮らし(首都圏)の経験が皆無である小生、若い頃はその存在さえ知らなかった。

 何かのうら覚えで焼酎のピール割だと思いこんでおり、これ飲んだら悪酔いするに違いないと東京なんかに行った際は敬遠していた。

 しかし、近年、東京の下町をひとり歩いていると、昼日中から居酒屋が営業している。

 喉が渇いていたし、遊びで上京しているということで生ビールを飲むことに・・・陽も明るいうちに景気付けは気が引けたが思い切って暖簾をくぐり、生ビールを注文、肴は煮込み(もつ煮)・・・・たまたまカウンターに座っていた見知らぬ親父がホッピーを飲んでいたが、なんだか無性に飲んでみたくなり、生ビールを一気飲みするとホッピーを注文。

 

 

 ジョッキに氷、焼酎は7分目位か、ホッピーを注ぐも全部入り切れるものではない、しかも焼酎がきつい・・・汗・・・少し飲んではホッピーを注いで飲んでいると丁度よい加減になる。

 うん、これはなかなかイケる飲みものだっ・・・と思っていると隣の親父が2杯目を注文、ホッピーの瓶ではなく氷と焼酎の入ったジョッキが目の前に置かれる・・・。

 手元にあるピンのホッピーをジョッキに空けて美味そうに飲んでいる。

 小生はチビチビやりながらその動作を研究していると、瓶一本で2杯飲めるらしい・・・また、空になったジョッキは「中(なか)」といって追加注文するものだとわかった。

 つまり一本のホッピーで焼酎2杯(ジョッキ)飲めるわけである。

 これでわかったつもりではいけない・・・笑

 

 画像は市販品の黒ホッピーですが、ホッピーと注文すると白か黒かと大概聞かれる。

 白ホッピーとはどんなものなのか知らないので、瓶の色を思い出して「黒」といつも注文している。

 

都内の某所にて・・・2009年夏

 

 

 やはりホッピーの肴は煮込みである。

 これが見事に合う・・・柔らかなモツを頬張り、口の中の油毎、ホッピーで流し込めば至福の瞬間である・・・笑

 

 また、内臓系や焼鳥にもピッタリ合う・・・。

 

 

 

自宅でホッピー・・・。

 

 焼酎は甲類が良いとのことですが、首都圏では三重の焼酎「金宮」が多用されている雰囲気、これはBSで放映されている「居酒屋放浪記」で知った。

 自宅でホッピー飲む際は是非に金宮を手に入れて飲もうと思う・・・。

 

夜の上野

 

 ホッピーは上野をはじめ下町がよく似合うと勝手にイメージしている。

 小奇麗な居酒屋よりも活気があって、焼き物の煙が漂う雰囲気で飲むのが一番だとも思っている・・・笑

 できれば店に入りきれず屋外のビール箱をテーブル代りに飲むというのも想定内、全く平気になってしまった・・・笑

 いずれ上京したらホッピーを堪能したい、密かな楽しみです。

 

 ちなみにホッピー発祥は横須賀、正式な飲み方は氷は入れずに焼酎をホッピーで割るというスタイルらしいですが、小生、今のところ氷が入っていないホッピーには馴染んでいない・・・汗

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バギッ!

2009-12-11 19:40:36 | 

 庭の一角に以前トロゲ(灯篭木)を立てた際の支柱がそのままとなっている。

 そのうち解体といいますか片付けようと思うも、時折、布団干しや大根とかの干しモノに重宝していた為にそのままとなっておりました。

 10日、近所から生イカのお裾分けがあって、好天に誘われて母親がイカの天日干しを支柱のすぐ前にあるアルミ製の物干しにイカをぶら下げて干しておりました。

 ネネが家の中で昼寝に興じているのを見計らって・・・・。

 

 しかし、ネネも好天に誘われて、散歩に出かけたいということで事情のわからない小生が外へ出してしまった・・・

 はじめは気がつかず庭先で毛づくろいなんかしていましたが、ここは動物、匂いに敏感ということでイカの存在に気がついたようです。

 母親も察知、すぐにイカの回収、何食わぬ顔で家の中に入るも、辺りにはまだイカの匂いがあったらしく、ジャンプ一番、物干しを転倒させると、近くの支柱に駆け上がった・・・

 

 なんか美味そうな匂いだニャー

 ミリッ・・・

 

ニャッ・・(うん)

 

ミシッ・・・

ニャン・・・

 

 音だけでなんとか折れずに済みましたが、そのうち片づけなければと思っております・・・汗

 

 

おまけ

 

 10日夜、急な呼び出し・・・防寒装備もそこそこに出かけてしまい、2時間外歩き・・・

 結構冷えた晩で身体の芯まで冷え、0時過ぎに帰宅して即お風呂に入るも、なかなか温まらない・・・・。

 家人は既に夢の中、暗い部屋で電気コタツに入って暖をとるも、これもなかなか暖まらない・・・結局寝たのが2時近くか?・・・・30分程寝たかなという感覚で5時半に目覚ましが鳴り強制起床・・・さらに一枚厚手の服を着て再度昨夜の続きに出発・・・。

 早朝はさらに冷え込み、かなり厳しい状況、夏の暑さより冬の寒さの方が平気と思っていたが、歳なんでしょうね、関節という関節がぎこちない雰囲気、歩みも緩慢だと自分でも気が付くほど・・・

 まもなく大台、まだまだ大丈夫と思っていたが、やはり若い時のようにはいかないと身に染みてわかったところです。

 

 

 冬に川下りに興じているものではありません。

 かなり真面目で真剣な行いなんですが、間もなく3艘の内、1艘水没・・・汗、全身ずぶ濡れ3名を出して完了・・・・。

 

 

 最後に「ちょんちょん様、ゴムボートありがとうございました。たいへん助かりました」

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板沢館・遠野三大城館跡

2009-12-10 15:59:24 | 歴史・民俗

画像は2009年12月8日の内容です。

 

板沢館跡が残される山野

 

上郷町で設置の標柱

 

 今回で三度目の探訪となる板沢館跡・・・。

 館跡探訪を始めた頃、詳しい資料もなく、ただ感に頼ったり、地域で場所を聴取したりと随分と館跡探しにはそれなりに苦労もいたしました。

 板沢館に関しては○区セ○○ーにメールをして、その場所を聞こうとしたのですが、帰ってきた返信は・・・「場所について知りたければ地区センターに来い・・・」という、なんともそっけないと言いますか後から怒りが込み上げてくる内容だったことを思い出す・・・。

 今なら一般市民にこの内容では、ただでは済まないと思いますが、小生を同じ出処から給金いただく人間としてみたものなのか?いずれ絶対今後一切あんた達からは聴かないぞ・・・と思ったことは事実でした。

 幸い、麓の曹源寺ご住職に会うことができ、詳しく館跡の位置や遺構、そして若干の由来等もお聞きすることができて初探訪したことを思い出します。

 

主郭背面(北西の段差)

 

中央部分(南東側)の帯郭(上部)

 

中腹部分

 

 

 残存度良好の遺構群、気仙郡から遠野城下への最短ルート、浜峠口付近に配置された上郷地区最大の一大拠点といった位置付けの館、館主は平清水一族の菊池又市郎、そして本姓菊池の板沢氏歴代と伝えられている。

 

○板沢館(城) 南部領内48城破却の事

南部大膳大夫分国諸城破脚共書上之事

 天正20年(1592)南部太守、南部信直は豊臣秀吉に対し、領内主要な城館48箇所について36城は破却、12城に関しては存続という内容を報告したとされる。

 その中で、遠野については・・・

 閉伊郡 横田  山城破脚 信直抱 代官九戸左馬助 

 同郡  板沢 山城破脚  淺沼藤次郎持分

 同郡  増沢 山城    淺沼忠次郎持分

 遠野では上記3つの城が挙げられるが、増沢(鱒沢)城は存続されたという12箇所に入っている。

 城という位置付け、拠点という考え方では3城が遠野を代表する城館ということに成り得ますが、板沢館はそのひとつということで、重要視されていたことが伺われます。

 しかし、遠野以外の城に関しても言えることですが、一応に伝えられる城主の名が一方で伝えられる人物でない場面も多々みられ、特に遠野に関しては鱒沢城の浅沼忠次郎以外は初耳であること。

 横田城に関しては天正20年当時は南部信直傘下とはいえ阿曽沼広郷あるいは広長であるし、板沢城の浅沼藤次郎とは何者であったのか、また横田代官九戸左馬介とは・・・?

 無論、南部領内の城館は48に留まらないはずですし、別資料には横田城には九戸左馬介と唐之者供・・・という語句が付いているものもあり、「唐之者供」に関しては以前ブログで掲載した際に、コメントをいただく皆様から秀吉の朝鮮出兵に関った者達の意とご教授いただいており、少なくても朝鮮出兵以降(文禄、慶長)に書かれたものということになります。

 いずれ江戸期に入ってから書かれた内容との指摘もあり、その内容の信憑性も含み、どのような意図があったのか、という点も興味が尽きないところでもある。

 

 ただ、板沢館は遠野を代表する気仙方面からの侵入を防ぐ、第一級の軍事、交通の要衝の城館であることは、間違いないものと思います。

 

 麓の標柱設置という地元の方々には史跡を後世に伝えようとする意図に関して敬意を表するところでもありますし、出来れば館の概要図や説明を加えた説明板があれば、よい一層広く知れ渡ると思います。

 

 滴水山 曹源寺(曹洞宗)

上郷町板沢



 天正2年(1574)の開基と伝えられる。

 土淵町の常堅寺の末寺といわれ、板沢館の板沢氏の庇護を受けていたという。

 檀那と思われる人物に板沢泰之進、菊池左門とある。

 手持ち資料では見つけ出せなかったが何かで見た記憶があって、その内容に小友平清水の西来院との由来も伝えられるとか?

 平清水といえば小友平清水一族(本姓菊池)、板沢館主、菊池又市郎と新谷菊池系図に記され、平清水平右衛門景頼の兄とされる。

 又市郎かその嫡子は板沢平蔵とされるが、「平」の字を使うところをみますと何かしら強い関連性があると見て良いのでは・・・・・・。

 

 ちなみに曹源寺画像の右寄り中央にお堂が見えますが、「狢堂」である。

 

 遠野物語拾遺187話に登場の狢伝説で有名なお寺さんが曹源寺である。

 その昔、寺が無住で荒れ果てていた頃、歴代住職を喰い殺した狢を旅の僧が退治したという内容である。

 

 

 おまけ

 

 本日は青笹町の臼館探訪を行いましたが、その途中、土淵町飯豊近くで低く飛ぶ猛禽類を発見。

 結構小さくて、胸羽毛が完全に白い、上手く近くの電柱に止まったので、即連射・・・ただしサブ機のE500で、しかも18-180のレンズ・・・でもトリミングすると、まずまずの写りということで・・・・。

 さてトンビではない雰囲気ですが、いかがでしょう・・・・ノスリのような気もしますが・・・?

 

 


 

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中館跡と鳥越屋堡

2009-12-08 18:53:00 | 歴史・民俗

中館跡(青笹町糠前赤羽根)

二の郭

 

 以前に中下菊池家系図の書籍を参考に遠野の菊池姓の概略を記述した経緯がありましたが、その中で出てくる「鳥越屋堡」(鳥小屋(とりこやとりで))とは何処を指すのか?青笹町内の鳥小屋近在にその堡(とりで)跡は残されているのか?

 そんな思いがあって、鳥小屋~赤羽根地区の山野を見ながら車で流しておりました。

 昨年、2008年師走、赤羽根地区の山野に空堀らしき遺構を発見、丘陵部への道があって車を乗り入れますと、こんもりとした土盛と自然石の墓石と思われる複数の墓所を見(中館一族の墓)、その背後の斜面に紛れもない館跡特有の空堀跡をみて、館跡であると内心小躍りしたことを思いだす。

 平城ながらも空堀は良好に残され、しかも東は八坂神社の辺りから西端の山野までのかなり広範囲な館域であると確認しておりますが手持ちの資料では南部藩政時代初期の頃、八戸から遠野へ入部した八戸直義(遠野南部氏)の重臣、中館勘兵衛の屋敷跡と判明しております。(寛永4年入部)

 この度、約一年ぶりに再訪しまして画像取材を主に行いましたが、中下菊池家系図に記された鳥越屋堡の事が思い出されましたので、あれこれ記したいと思います。

中館の空堀跡

 

 

 中館氏の屋敷跡ということで、江戸期~・・・が主な使用年代といえます。

 しかし、中館氏がこの地に移ってから本格的に土木工事をしたものなのか、遠野八戸家の家老職(400石)とはいえ、これほど広範囲な館域が必要だったのか、甚だ疑問ではあります。

 城館屋敷跡の資料には、かつての住居跡等があった場所に屋敷を構えたと推測してますが、おそらく住居跡というよりも中世城館跡に屋敷を建てたのだろうと思います。

 中館氏が来た際に若干の防御上必要な遺構の改修等は施されたと想像はしますが、現在見える遺構等が大幅に変わるような大規模な工事は実施していないと思ってます。

 

 中世城館跡とは何を指すのか?・・・脳裏に浮かぶのは鳥越屋堡ということになりますね。

 

かつての水堀跡

 

 中下菊池氏(系図)と伝承

 中下菊池氏第2代、菊池九郎三郎睦成は、建治元年(1275)に鎌倉より奥州に来住して気仙郡前野(住田)に住し、阿曽沼氏に臣従し、4代二郎重隆の時に遠野青笹に来住、以来15代球磨太郎長元の代、約百数十年間、臼館(青笹町)に住していたとされ、青笹菊池一族惣領とされる。

 一族の菊池兵庫介成景やその末裔、菊池成武と総帥権をめぐる戦いがあり、15代長元以降に臼館を放棄して鳥越屋堡に居を移したという・・・。

 

 この系図に記されていることの信憑性はわからないが、地域で語られる伝承にも少なからず一致する内容もあり、そのひとつ遠野物語拾遺イクサバ伝承や同じ青笹の花館と臼館の戦い等・・・菊池一族同士の争いを伝えている。

 ただし、花館は中館の東方、直線距離で約1.5キロに残されている大型城館跡である。

 鳥越屋堡とは花館のことなのか?それとも地名や位置から中館が残されている山野の事なのか・・・伝承と史跡の狭間を未だに彷徨っている雰囲気です。

 7月に遠野菊池の会総会で講演をいただいた郷土史家のH合先生の講演内容も中下菊池氏についてでしたが、中下菊池氏のご末裔はその後、附馬牛へ移って健在であったと述べられていたことを思い出す・・・。

 

 

 画像のように光明を指すことはあるのか?

 

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未確認生物生息せず・・・笑

2009-12-07 15:42:35 | その他

 降雪となり少し積もりはじめております・・・12/7 午後

我家から・・・

 

 

 

 さて、去る12月5日、八戸から知人をお迎えして・・・・

 

天気がイマイチながら色々と遠野市内を移動・・・。

 

仙人峠手前

 

 

 

犬神家のスケ清さんが沢山・・・

 

 少年時代、車で釜石に行くことは、ほとんどなく、この場所の存在は社会人になるまで知りませんでした・・・汗

 その後、何度か画像のような光景を見るたびに、此処にはネッシーのような未確認生物とか大蛇とかが居るに違いないと本気で思ってました・・・汗

 最近は水量が少ないので、そんなことも思う事はなくなりましたが、かつての岩手軽便鉄道の橋脚等の遺構が残されている貴重な場所なんですよね。

 

 

 

 実は道路から何度か写真撮影しておりますが、今回、初めて下に降りてみたんですね・・・汗

 それにしても天気が悪いせいもあるけど、荒涼とした寂しい景色です。

 もっと深く広い池なら、いい歳したオヤジながらも、何か得体の知れない生物が居ると思うに違いない・・・

 軽便鉄道の遺構がなければ絶対降り立つことはないと思いますがね・・・。

 

 

 ということで・・・・夜、再会を祝して乾杯

 

 

近況報告と共に人生の事、ブログの事、そしてカメラの事・・・

久しぶりに楽しく語り合うことができました。

 

藤九郎さんの高千穂E3

 

 カメラ話題では、色々とご教授いただき、カメラ知識等若干頭に入ったと思います・・・おそらく・・・。

 観音党が9割を占める遠野ぶれんど(遠野プロガー)、青森プロガーは日本光学愛好者が多いとか・・・いずれ高千穂党は希少組といったところですが、メーカーや機種にとらわれず、とにかく素晴らしい写真を撮ること、撮れることが必要不可欠、これに尽きると思います。・・・でも少し寂しい・・・

 

 

 藤九郎さんのフィルムカメラ・・・・

 この分野は、ほとんどわかりませんが、銀塩というんですか?

 フイルムカメラ通でもある藤九郎さん、かなりの数のカメラを保有され、今回も八戸でフィルムカメラ愛好者仲間と写真展を開催ということで、翌朝には八戸へ戻られました。(12月5日、6日)

 

 〆のラーメン(手打ちラーメン)

 

湯気がたまりませんね・・・笑

 

藤九郎さん、お疲れ様でした。

 

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街中散策えとせとら

2009-12-05 16:28:11 | 遠野

 天気がイマイチ、そんな中、八戸の知人である藤九郎さんが一年振りに遠野を訪問、カメラと館跡関連では我師匠といっても過言ではない御仁、今回は街中の撮影と少しの館跡探訪ということで、ご案内いたしました。

江戸時代の武家屋敷風の佇まいを残す通り・・・(穀町)


 

 

 

大工町、新町に移動

 

昭和の風情を残す商店(酒屋さん)

 

金物店さん

 

寺町(大工町~六日町)

 

大慈寺

 

八戸縁ということで大慈寺と対泉院をご案内

大慈寺は八戸家(遠野南部家)

対泉院は八戸家家老、新田氏

両家の菩提所である。

 

南部双鶴紋が歴史の重さとその格式を物語っている。

 

 

そして久し振りの館跡探訪ということで、リハビリということで平城をご案内

 

中舘跡(青笹町)

 

 午後から本格的に雨が降ってきたということで、探訪や撮影は早めに切り上げ、夜の懇親会に備える・・・。

 

 昼食

やはり遠野へお越しになられたということで、おもてなしはジンギスカンです。

 

今回はバイパスのま○まん○丸にて・・・。

 

 一年振りの遠野訪問、またお会いするのも一年振り、当方の八戸入りは今年は無かったので、ほんと久し振りといったところでした。

  

 

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橋野菊池一族

2009-12-03 18:24:28 | 菊池氏

 まずは、タイトルの内容に関しましては、その記述はほとんど根拠が薄く、参考図書、資料を見ての内容ではなく、ほとんど小生の推測によるものであることを予めお含みおき願います。

 

 さて、天気予報ではお昼頃から雨との予報、今にも泣き出しそうな空模様ながら、どうしても探訪したい館跡があり、午前中勝負ということで釜石市橋野を目指して自宅を出発しました。

 今回は最短距離の笛吹峠越え・・・・

 やはり立丸峠同様、真冬の峠越えは危険、積雪前にということですが・・・・

 そういえば小生がかなり若い頃、職場の先輩が雪道の笛吹峠から谷底に車ごと転落したことをいつも通る度に思い出す・・・・。

 常人なら絶対助からない程の高さ、しかしその先輩は身体中骨折しながらも急斜面を這い上がって来て、軌跡の生還を果たしたタフガイであったこと、そして今もなお、谷底に車がそのまま残っていること・・・必ず思いだしてしまう・・・汗

 

 ということで、今回の目的地は橋野の「橋野館跡」・・・・

 その昔、大槌氏の家臣、橋野氏が居たという館跡ですが・・・・まずは麓の林宗寺の駐車場で長靴を履いてヘルメット装着、お寺さんの画像を撮って、いよいよ裏山へ入ろうとすると、大粒の雨が降ってきた・・・・汗

 

 林宗寺・・・釜石市橋野町中村

 これでは探訪にならない、即決断して館跡探訪は中止とする。

 隣接山野に義経北行伝説の地、中村判官堂があって、二度程訪れたことがあった。

 その際に隣のお寺さん側山野に館跡らしい地形を確認しており、その後、調べると橋野館跡と判明して、いつかは探訪と思っておりました。

 雪が積らなければ今月中に・・・ダメなら来春ですかね。

 

鶏石山林宗寺(曹洞宗)

 以前から知っておりましたが、遠野上郷の曹源寺の末寺である。

 慶長2年(1597)曹源寺の旦室俊朔和尚による開基と伝えられる。

 当初は現在の地より鵜住居側へ少し行った早栃というところに創建と伝えられる。

 現在の地へは著名である牧庵鞭牛和尚により寛延7年(1794)に移されたとある。

 

 ここで、ピンと来たのは、上郷曹源寺は大檀那を板沢館主の板沢氏であること、そういえば釜石には板沢姓の方々が案外多いという印象があって、阿曽沼氏が没落した後、板沢氏の一族や家臣達は釜石の橋野に来たのではないのか?或いは遠野南部家臣にも板沢氏が居たので明治になって釜石へ移ったのか?・・・なんて考えたりしまして、その後、大槌町の図書館に行って何故か釜石市関連の郷土史やら民俗の書籍を調べる・・・と著名な人物では「板沢武雄博士」についての記述を発見・・・国史学者、東京帝国大教授と凄い先生ですが、旧制遠野中学、今の遠野高校卒・・・でも生まれは釜石の中妻、観音寺ということで橋野とは関係ない雰囲気、電話帳でも板沢姓のお宅が橋野にあるかといえば皆無であったので、これはボツ・・・。

 ならば板沢氏の本姓は菊池なので、菊池姓関連ということで、境内に僅かではあるが墓地もあって、少しだけ失礼して墓石調べ・・・大汗

 なんと菊池姓のお墓もある・・・・そして・・・・。

 

旧制遠野中学(現遠野高校)の教諭をされた方の碑のようです。

 

 橋野地区には菊池姓の方々が結構いそうな雰囲気・・・・。

 そうしますと、上郷から曹源寺縁の林宗寺があるということで、橋野へ移り住んだ上郷関係の菊池一族が居たのか?・・・なんて妄想が湧いたり・・・・でも何やら菊池姓に関しては遠野と無関係ではない雰囲気も感じますので、いずれ機会があったら調べてみたいなあ・・・と思ったりして・・・・。

 

 

 マストの湯(大槌町)

 

 雨が降ったから湯っこを堪能したというわけではなく、館跡の探訪の後は湯っこで汗を流してサッパリ・・・という予定でもおりました。

 少し時間が早まっただけですが、考えてみれば年に5回は来てますね・・・。

 マストの湯は天然温泉ではありませんが、小奇麗で設備もまあまあで好きな施設でもあります。

 沿岸方面に来た際は外せません・・・笑

 

 そして帰りは釜石経由で・・・・

 少し遅い昼食・・・・最近は馬鹿のひとつ覚えで大概同じお店・・・?

 

 

ビビンバとハーフ冷麺セット

 

 盛岡冷麺とくれば盛岡や国道4号線沿いがメッカですが、釜石でもそれなりに美味い冷麺が食べれるということで、時折、食べております。

 隣の蕎麦と回転寿司のお店も良く行きますが、最近はこちらの方が多いですね。

 

 冷麺通としましては、最高というわけではないので、普通盛りの冷麺ではなくハーフにしてセットをいただいております。

 でもまずまずといったところ・・・・本日も満足でした・・・・。

 

 

 少年時代、遠野の在郷に生まれ育ち、花巻ならマルカンや花巻デパートに志戸平温泉、釜石なら丸光デパートと憧れの地でもありました。

 釜石には叔母も住んでおりますし、遠戚もいましたので、来る度に街だなぁ~と思ったものでした。

 社会人に成り立ての頃も友人達と用もないのにドライブがてら来ては共栄でボーリングしたり・・・・。

 当時、釜石には珍しいマツダの車(コスモ)に乗ってましたので、結構注目されいい気分になったことや、ツッパリ達に追いかけられたりと苦い思い出も蘇ります。

 今はひとり史跡めぐりやら湯っこ、年寄り染みた趣味でしか来ることはない、ましてや親父ひとり寂しく昼食をいただく・・・むなしいなあと思いながら、若かった頃を思い出しながら帰って来ました・・・・汗

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小八戸氏(八戸内記家)

2009-12-02 19:32:47 | 歴史・民俗

 城館跡探訪シーズン中ということで、天気が良ければ山野に出かけておりますが、本日は附馬牛町方面の未踏の館跡を候補にいれるも、どうも乗り気ではない。

 それでも一応、その方面に車を走らせましたが、途中で心変わり・・・汗

 今回は平地の屋敷跡ということで、附馬牛小学校にかつてあったといわれる小八戸氏の武家屋敷跡を訪ねることにしました。

 ただし、小学校敷地となって当時を偲ぶ遺構等は皆無です。

 

 薬師岳

 

小学校グランドに屋敷はあっという

 

 

 

宇迦神社

 小八戸氏とどのような関連があるかは、調べてませんので不明です。

 ただ、当時を偲ばせる雰囲気ということで画像取材しました。

 後は机上であれこれ・・・と記述ということになります・・・汗

 

小八戸氏

 八戸弥六郎直義(遠野南部氏)の二男八戸頼母義也を祖と伝える。

 義也は兄八戸弥六郎義長が父の遺言により実施した遠野検地打出高三千余石のうち二千石で分家、高知家格となった。

 当初は、附馬牛村、東禅寺村・・・以上遠野市、平館村(八幡平市)が知行地であった。

 高知(たかち)家格とは・・・ 盛岡南部家(南部藩)家臣で100石以上の家録の武士で、いわば上級家臣の家柄。

 八戸氏(大八戸・遠野南部氏)は、1万2千7百石ということで、盛岡南部家中では、ずば抜けた大身であり、他に南部家臣では1万石を越える家臣はいない。

 小八戸氏は遠野南部氏の分家であるが、遠野南部氏の家臣ではなく、盛岡南部家の家臣、すなわち南部藩士である。

 遠野南部家の重臣、新田家や中舘家、沢里家、福田家・・・等は遠野南部家の家臣であり陪臣となります。(家臣の家来)

 

 

 小八戸氏歴代は、盛岡藩の加判役(家老)を勤め、藩政の中心にいた人物が多く、中でも八戸上総(八戸篤義)は、南部家を救った忠義人と語られる逸材と称賛されている・・・どうやら作り話といった類のようですが、それでも逸話の題材となり得る逸材だった雰囲気がします。過去ログに八戸上総について記しております。こちら

 2代竹之助は僅か2歳で家督となるも翌年3歳で早世、3代八戸義謀は本家八戸義長室の弟で北宣継の二男と伝えられる。

 北氏により八戸氏分家が乗っ取られたと当時の遠野武士達は憤慨と伝えられますが、2千石の内、1千石は本家預かりとなって小八戸氏は家録1千石となる。

 後に八戸義涛の時に金方で2百石加増(文政4年)さらに文政10年に3百石加増されて1千5百石となった。

 知行地は附馬牛村、東禅寺村、紫波佐比内村、川目村・安庭村(盛岡市)の地方1千5百石となっている。

 

 

明治初年、小八戸氏武家屋敷の配置とされる。

 

 分家当時は家老に中館氏(覚右衛門)をはじめ、中津山氏、小笠原氏、野沢氏、及川氏、類家氏、坂本氏、松橋氏、大黒氏、佐郷屋氏、四戸氏、松崎氏、大橋氏、水越氏の諸氏が家臣団であったと伝えられる。

 ちなみに盛岡屋敷は本家八戸氏と同じ内丸にあったようです。

 武家屋敷には末崎氏、中舘氏、野沢氏、小笠原氏、長岡氏、十日市氏の諸氏であったことがわかりますが、附馬牛町で作成した小八戸氏の簡略な資料があったのですが、何処へファイルしたか探し出せなくて・・・大汗・・・確か家臣団の屋敷配置図も掲載してあったような?・・・こんな時、図書館の郷土資料室が便利なんですが、閉館中なので致し方なしです。

 いずれ小八戸氏に関しては南部藩諸家参考系図に詳しく掲載されておりますので、機会がありましたらさらに詳しく掲載したいと思います。

 

 片岸方面

 

上柳

 

 

おまけ

 

ネネ

 

何みてんの・・・?

 

美味そうな鳥っこだニャー・・・笑

 

雀が屋根に止ってました。

コメント (2)
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