鉄撮り、野暮用、野暮用ついでに石鳥谷(花巻)そして東和(花巻)と巡って参りました。
遠野は風は強いものの朝から晴れておりましたが、花巻は曇り空で、途中から雨が・・・・桜は遠野同様まだ開花しておりませんでした。(間もなく開花でしょう・・・)
さて、遠野つながりの歴史が深いというわけではありませんが、野暮用ついでに石鳥谷まで行きましたので、見やすいだろうという手頃な城館跡を探訪いたしました。
新堀城(にいぼりじょう)
花巻市石鳥谷町新堀
曹洞宗寺院、新仙寺裏手の山野
目印の新仙寺の前の道を少し過ぎて行くと、かつての石鳥谷町で設置の説明板が目に飛び込んでくる。
どうやら途中まで車で行けそうな雰囲気だったので、細い砂利道の林道を200mほど進むと、主郭(本丸)下の草地に辿り着いた。
軽自動車或いは普通車でも小型車が望ましいですが、Uターンするに難儀しますよ。
主郭から東部分をみる
本丸(主郭)
中央奥に巨石がみえますが、「跡石」といって、かつての舘神(稲荷社)を祀っていたといわれる。
空堀
空堀は西側(新仙寺側)を除く方向に土塁、4~5段の帯郭的平場と共に残されている。
二の郭(二の丸)
主郭より5m程低い北側に比較的広い平場が形成されている。
北側、西側は空堀によって区切られている。
標高199m・比高89m
300m×250m 山城
資料には比較的小規模とあるも、遠野の標準的な城館跡と規模的には、ほぼ同じと感じられた。
しかし、残される個々の遺構は残存度も高く、大き目である。
城主は、稗貫一族の新堀氏と語られている。
稗貫領主であった稗貫広忠(花巻鳥谷崎城主)が奥州仕置き(天正18)で没落とすると新堀氏も共に没落ともいわれるが、新掘氏(新堀作兵衛義広)は後に南部氏に仕えたとある。
新堀城は、稗貫郡、斯波(紫波)郡の境目に位置し、両郡を見渡せる絶好のロケーションであったと考察されますが、まさに軍事交通の要衝、要害といった位置付けであったものと推測されます。
ただし、新掘氏に関しては、戦国時代は紫波高水寺城の斯波氏の影響下に置かれていた雰囲気が感じられ、奥南落穂集・稗貫家之次第には志和一味 仕信直公
とある。
天正20年、新堀城は葛西氏旧臣で江刺岩谷堂城主であった江刺兵庫重恒が南部信直に仕え、2千石の城主として入った。
後に子で二代目、彦四郎重隆(江刺兵庫重隆)、三代目江刺長作隆直と続き、長作隆直に時に和賀郡十二ヶ所村の土沢城(花巻市東和町)に1千5百石で移り、新堀城は廃城されたという。
南部藩士、江刺氏は加判役(家老)を務めたり、藩の重職を担う歴代もいたが、やんごとなき事情で家録没収の憂き目となるも、100石で家名再興が成ったといわれている。
ということで、遠野市内の城館跡も素晴らしく、また知られざる城館跡といった雰囲気抜群ながらも、遠野以外の城館跡も、さらにすばらく見応えのある城館跡が多い。
遠野の城館跡をメインとしながらも、他との違い等も見極めることも大切であると痛感しているところであり、今後、遠野外の城館跡探訪も増えるものと思います。
花巻方面に出発する前に、昨日撮れなかった釜石線臨時列車を狙う・・・。
こがね
本日の昼食は・・・・
また喰ってら・・・と言われそうですが・・・
花巻方面ということで、やはり大門でしょう・・・・。
冷麺ランチ・・・(盛岡冷麺普通盛り・ミニビビンパ・アイスかコーヒーかもうひとつ?忘れた・・・汗) お手頃840円也
3月から歓送迎会とか飲会が続き、さらに長男、二女の進学に遠出、車検に車の購入・・・何かと出費が嵩んで苦しかった・・・・。
しかも、2月の事故関係は、とりあえず自己負担した内容もあって、なかなかこちらも還ってくる兆しがみえない・・・早く事務処理してくれ~・・・・。
経済的に苦しい時は、何処にシワ寄せが来るかといえば・・・親父のお小遣いであーる・・・涙
禁煙効果が少しあるので、その分で史跡めぐりでの昼食(ラーメン等)は賄うことはできましたが、それでも財布には野口先生一人だけが多かった・・・・汗
ようやく、ここにきて一息つくことができた・・・・
でっ・・・山野俳諧での汗をサッパリと流すのは・・・・
今年、正月明けにリニューアルということてしたが、その後、行っておりませんでした。
何処が変わったかというと・・・・サウナの模様替え、露天風呂の縮小・・・冷水機の設置?
でも、4月中は特別料金、入浴料500円なそうです。