遠野の歴史に関連する遠野市外の城館跡含む史跡探訪も視野に入れて、ここ数年少しずつ訪ねておりますが、今回は奥州千葉一族、葛西家中最大の重臣であった大原氏の居城、一ノ関市大東町(旧東磐井郡)大原の山吹城跡を探訪いたしました。
大原 山吹城跡の山野
主郭(本丸)方面
正面からの攻城ではなく、何故か搦手側から・・・しかも本丸、二の丸それぞれに車で行きつける道が付いている。
本来は徒歩でと考えていたが、此処で止ろうと何度も思うも結局は二の丸まで車で行ってしまった・・・汗
案外城跡としての整備が整っているといった雰囲気で大原の町側の山野は全て木々が伐採され、木片のチップが敷き詰められた遊歩道が整備されている。
本丸跡
樹齢450年と云われる大銀杏
二の丸
町側の斜面
葛西家中最大といわしめる重臣の大原氏に相応しい構えであり、ひとつひとつの段状の平場(郭)の大きさに感嘆する。
空堀跡(北東側)
東西500m・南北300m 比高70m
遠野と大原の関わりといえば「大原新右衛門こと大原弾正勝行」となりますが、過去ログはこちらから・・・、さらに続きはこちら
大東町史にも大原一族とされる大原新右衛門の事が若干記されているが、遠野で伝えられる内容以上のことは記されていない。
また、これも大原新右衛門つながりであるが遠野における曹洞宗触頭とされる常堅寺との関わり・・・・しかも葛西氏最大の重臣と関連ある内容が残されている現実から当時の遠野は葛西領であった?・・・少なくても土淵辺りは葛西氏の領域であった?と考察もできそうですが、しかしもう少し資料的な何かがほしいところ、さらに周囲の状況含め葛西氏というより千葉一族との関わり等もよく調べる必要があると思われるが、いつもながら逃腰ながらも、今後の課題ということで・・・・汗
阿曽沼氏と葛西氏との関わり、千葉一族との関係は?こちらも徐々にと・・・。
それと八戸直義(遠野南部氏)が寛永4年に遠野に入部した前後に大原新右衛門の足跡が消えているが、その後は・・・・?
笛吹童子氏指摘で松崎観音関連にて記されている大原勝三郎は?横澤氏は・・・?
今回、横澤氏に関しては、当時、遠野で八戸直義に仕えた横澤久蔵と盛岡南部家に仕えた遠野出の横澤家が存在したことを見つけた。
横澤氏は多田氏系となっているが、かつては葛西氏家臣で室根辺りに勢力を持っていたという内容も見聞きするも、おそらく奥州仕置後に他の葛西旧臣達同様、遠野へ移って来た一族がいたものだろう・・・・いずれこちらも徐々に・・・・。
ちょっと前の東磐井郡に行くということは、ほとんど無かった。
あったすれば東山町の猊鼻渓に一度、菅公夫人(菅原道真夫人)の墓所を訪ねたことくらいで大東町に関してはピンと来なかった。
しかし、よく思い起してみると、小生が20代の若い頃、よく地元テレビのCMやら新聞広告で気になるお店があったことを思い出す・・・・・。
小生も含め同級生や同年代の友人達の憧れ・・・・いつか行ってみようと話していたこともあったし、実際に行って買って来たという知人もいたような・・・。
今回、大東町へ行ったことにより、かなり遅くなりましたが、その存在を実際に確かめることができました。
ピッ○イ○大○
カッコ良くセンスあるタイヤやアルミホイールが安く売られている、CMなんかをみていると遠くてもいつか行って見てみたい、できれば買いたい・・・そんな事を友人達と話をしていたことを思い出す・・・。
その後、カー用品販売の大型店舗が北上や盛岡、そして花巻に出来たこと、地元でも安価で買えるということもあって、いつしかこちらのお店の事は気にしなくなったけど、まだまだ地元で頑張っている雰囲気、懐かしく思いました。
おまけ
一年以上?・・・ご無沙汰していたラーメン
南部ラーメン
小生が思う味噌ラーメンといえば、この南部ラーメン・・・。
濃厚でもなく薄いでもなく・・・小生の味覚には丁度良い味噌ラーメン、たまに食べたくなるのですが、今回は1年以上ご無沙汰となってしまった。
さらに・・・おまけ
ネネ
傷口からの菌で化膿、左前足が腫れて歩行もままならなかったが、ある日、膿が破裂すると一気に快復に向かい、もとの元気な姿に戻りました。
元気だと寝姿も安心といいますか、可愛く感じてしまう・・・汗