68年前の国民学校二年生であった私が昨日は小学校二年生の孫の「芝
居」を見に行った来たのですが、あらためて68年前のこの年の8月に戦争が
終わっていたのだと思いました。
当時は国民学校と呼ばれていたとのこと、記憶になかに ♪ コクミンガッコウ
イチネンセイ ♪ と歌ったことが残っています。ですから私の2年生は夏休み前
までは戦争中の児童として、二学期からは戦後の児童になっていたのです。
そこで、当時の教科書を知りたいくなりネットで見たみました。
http://www.geocities.jp/sybrma/105yomikata1.html に
1年生の「ヨミカタ」の教科書が見られます。
≪ヒノマルノ ハタ バンザイ バンザイ
ヘイタイサン ススメ ススメ チテ チテ タ
トタ テテ タテ タ ≫
などはいかにも戦争中という言葉です、そして、私の記憶のなかにもある言
葉です。
二年生の前半の教科書を見ることができました。
http://www.library.pref.nara.jp/event/booklist/daikanyama2008/hitosyo07.html
これらが、二学期では「不都合」な所を墨で消して使ったのでした。
作詞家の阿久悠さんは同年生まれで 『日記力』 という本に、
≪僕は、昭和十二年生まれです。八歳で終戦を迎えました。八歳という年齢の
記憶力がいかなるものか定かではありませんが、昭和二十年八月十五日の
終戦とともに起こった、天と地がひっくり返るほどの変化は、子ども心にも衝撃
的でした。
学校では、教科書が墨塗りにされ、数か月前まで鬼畜米英と呼んでいたアメ
リカ兵に 「ギブミー」 と連呼して群がる子どもたちにあふれていた。≫
阿久悠さんはそういう子どもを仲間ながらに、変わり身の早さ恐るべき融通性
に驚きと怒りを感じていたそうです。私にはそういう記憶はまったくなく、さすが将
来の作詞家になる感性を備えていたのだなーと感心します。
68年間の変化を自分の孫のうえに置くとき、いかなる変化の種が今のこの
社会にあるのか、そして「鬼畜米英」から「ギブミー」への変化を子どもが身に
着けたのは、大人世代を見習ったのでしょう。
阿久悠さんはあの時代、自分の矜持を保ちながら生きて来れたのは、父親
の駐在所の警察官としての誇りと痩我慢を見ていたからだと述べています。
親の背中ばかりでなく爺婆の背中さえ見て成長する現代、孫の目に映る我が
背中はどうなのか、時々鏡で背に目を向けねばなりません。