葉山の四季

葉山の四季をお伝えしたいと思います。

「てんがらもん」248回 それきた みたろう

2016-12-22 21:28:22 | 「てんがらもんラジオ」

「てんがらもんラジオ」248回視聴しました。

   ゲストの「よしきた やったろう」さんの長生きの方法を語る明るさを耳と目にしていると、こちらも同化されてきてタイトルが「それきた みたろう」になってしまいました。その調子でつぶやき続けようとしたのですが、入力が自由に進みません。

   アプリのアップデートを、の「指示」が入ってきましたのでそのように対応したのですが、今までの入力方法では不調なのです。アップって良くなるのでは? とアイパッドに向かってぼやいていてもに始まらないので、今夜は予告編ということで閉じます。

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この町の冬の夕陽のなかで……。

2016-12-21 23:21:02 | 葉山そして人

葉山のぞみ会」恒例のクリスマス会でした、今年のことの紹介の前に、去年のブログからです。


今年は18名参加、男性が3人になりました。

みんなで写真をと声がかかり、座りはじめて

揃いました。

声がかかったのが2人帰った後でした、残念最高齢者93才の方と会の世話役の人が抜けていました。撮ったあとは、

この年代に相応しい美しい葉山です。

来年のこの集まりはかなり違った形で映されるでしょう、そんな予感のする話合いもありました。

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フェイスブック漬け。

2016-12-20 22:59:35 | どこまで続くかこのブログ

   昨夜というより今朝は、という方が近い時刻午前三時ごろ寝ました。遅い朝飯のあと午後も部屋にこもっていたのでkaeru夫人が少しは外へ出させようと、逗子の診療所に引っ張り出されました。

   昨日も今日もフェイスブックに引き込まれ、新しい友達づくりやら友達からの情報を見ていての時間でした。引き込まれるわけは情報の多彩さと刺激の強さです。毎日毎日の激動する日本社会、合わせて世界から届く写真も動画も文字も刺激に満ちています。その間に花やネコやイヌの姿が届きます。

例えば、

これは動画の一コマ、母性愛?にあふれたこの姿、宮沢賢治的に言えば、私はこういう犬になりたい、です。ちゃんとミニパッドの上の縁を押さえれいるのです。私のフェイスブックにアップしてあります。

新しい友達にこの人が、

FM放送のパーソナリティです。友達リクエスト承認の挨拶に「fmぎんが」と「てんがらもんラジオ」を紹介しましたら先ほど、

「平日の10時だと番組中なので、なかなか聞けませんが、先ほど検索してみました。ユニークな局ですね」との返信がありました。

「てんがらもんラジオ」でもフェイスブックでももうひとつの繋がりだとも思います。                                                              

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日のフェイスブックから……。

2016-12-19 21:32:28 | せいじの政治カフェ

フェイスブックに友達から色々な情報が寄せられます。

この一枚と関連するコメントは知ってもらいたいと思いここに載せます。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南スーダンのワーフという所。

2016-12-18 14:47:19 | せいじの政治カフェ

昨夜鎌倉でお会いした草野さんからのメールを紹介します。

文字情報の前に南スーダンとワーフを、地図の右側の青い◯は私のいる日本、左の🎈は南スーダンのワーフという所です。

そこを拡大すると、

ここがどういう場所でなにが起きているかのレポートです。

----------------
From: yoshio_ha2007@yahoo.co.jp
Date: Sun, 18 Dec 2016 00:49:41 +0900
To: 早川 芳夫 <yoshio_ha2007@yahoo.co.jp>
Subject: 南スーダンの真実

仲間の皆様 
自衛隊が新たな任務を付与されて、南スーダンに派遣されました。
南スーダンの現状を、安倍政権は本当に知らないのか、知っているが明らかにしようとしていないのかは分かりませんが、
国民が瞞されていることだけは明かです。
70年以上にわたって守り抜いてきた、「誰も殺さない」平和憲法がないがしろにされる危機です。
その現状を伝えるメールを転送させていただきます。
早川芳夫

****以下転送**** 

極度に悪化する南スーダンの状況を伝える三浦英之(朝日新聞アフリカ特派員)さんの12月14日のツイートが流れていることを知りました。
 転送します。

https://twitter.com/miura_hideyuki 
  三浦英之(朝日新聞アフリカ特派員) ‏@miura_hideyuki  12月14日

①南スーダン西部から先日戻った。
現地の状況は凄惨だ。人々は政府軍兵士により虐殺され、家族の前でレイプされ、家を燃やされている。国連が表現した「民族浄化」といった言葉が決して大げさじゃなく響く。
同国西部の状況を伝える。

②自衛隊のいる首都ジュバから国連機で1時間半。西部ワウ。
砂嵐が吹き荒れる街を政府軍兵士を満載したトラックや国連装甲車が行き交う。同行した国連職員は「ジュバとは状況が違う。非常に危険なので国連施設外では兵士を刺激しないよう絶対にカメラを出さないでくれ」。

③私がワウに飛んだのは、7月の戦闘で反政府勢力が駆逐されたジュバでは、南スーダンで今起きていることが見えないから。
国内を視察した国連調査団は1日、「集団レイプや村の焼きうちといった民族浄化が進行している」と警告した。その現実をこの目で確かめる必要があった

④ワウでは6月、最大民族ディンカによる少数民族への虐殺が起きた。死者数十~数百人と言われ、7万人が住む場所を追われた。避難民保護区では今も、戦闘を逃れてきた約4万人が砂まみれのテントで避難生活を強いられている。

⑤「夫を多数派民族ディンカに殺された。私もディンカを殺したい」。少数派民族の女性(29)は泣き叫んだ。夫はディンカの政府軍兵士に足を撃たれ、拘束。軍施設に監禁されて餓死させられた。

⑥少数派民族の女性(20)もディンカの政府軍兵士に自宅を襲われ兄を銃殺された。ここでは憎悪が渦巻いている。ホテル従業員は「いつ虐殺が起きても不思議ではない状況。私はディンカだが、人が次々と殺されていくのを見たくはない」

  ⑦南スーダンは今、深刻な食糧危機にさらされている。保健施設の前では子どもの栄養状態を心配する母親が列を作っていた。上腕にバンドを巻き栄養状態を測定。ラップの芯ほどの太さしかない子どもが次々と「重度の急性栄養不良」と判定され、治療施設へと運ばれていく。

⑧母親(27)は「1歳の娘がぐったりとしたので連れてきた。もう3日間も何も食べていない」。看護師は「現在、253人が重度、1023人が中度の急性栄養不良。どんどん増えてる。少しでも回復させないと取り返しのつかない状況になる」

⑨南スーダンでは今、人口の3割の360万人が深刻な食糧不足に。戦闘拡大で収穫時期に農作業ができなかったことが原因。来年初頭には460万人に膨れあがる。ユニセフによると、推定36万人の5歳未満児が「重度の急性栄養不良」に。人々は戦闘におびえ、食べることさえできないでいる。

⑩子どもたちの受難は食糧だけじゃない。ジュバではユニセフ現地事務所代表にインタビュー。「ここでは内戦状態に陥った13年末以降、推定約1万6千人の子どもが武装勢力に徴用された」「16年だけでも推定800人以上が徴用された」。戦闘員にさせられたり、森で荷物運びをさせられたりしている。

⑪今回の取材で私が伝えたかったこと。それは南スーダンの状況が極度に悪化しているという事実。そしてもう一つ、私たちには武力を使って行う「支援」以外にも、実は南スーダンを支える手段が十分に残されているということだ。食糧機関への送金でも、児童機関への貢献でもいい。道は無数に開かれている。

⑫でも日本からのニュースを見る限り、国会で議論されるのは「駆け付け警護」のことばかり。政府は駆け付け警護さえ付与すれば、南スーダンの平和に寄与できるかのように錯覚させている。でもそれは噓。正直に記せば、この状況で駆け付け警護が付与されても自衛隊にできることはほとんどない。

⑬次の証言動画を見て欲しい。ジュバの惨劇。AP通信は伝える。「政府軍兵士は外国人女性に銃を向け、俺とセックスするか、ここにいるすべての男にお前をレイプさせてから頭を撃ち抜く。女性は15人にレイプされた」
  https://youtu.be/tYoIRwm8iX8  @YouTubeさんから

⑭ジュバで7月に大規模戦闘が起きたときに、国連施設近くのホテルを襲ったのは80人以上の政府軍兵士。ジュバでもワウでも民間人を襲っているのは政府軍兵士なのだ。憲法で国の交戦権が禁じられている自衛隊では手も足も出せない。

⑮現政権がやりたいことは、日本から遠く離れたアフリカの国家を救うことではなく、自衛隊の海外における武器使用基準を拡大させたい、その一点ではないのか。それはまさしく、私たちが長年守り抜いてきた憲法9条が厳格に禁じていること。

⑯現場を取材する者としてあえて強く書く。現政権は南スーダンの現状を利用して、それを事実上達成したい、つまり前例を作り上げてしまいたいだけではないのか。もしそうであるならば、私はあまりに貧しいこの国にいて、我を失う。南スーダンをそのきっかけ作りに使わせてはならない。

⑰一つ、現場で感じたことを書く。国連職員は今、南スーダン政府や政府軍に非常に気を遣っている。本当のことが言いにくい状況。国連機関がこの地で活動を行うためには、南スーダン政府の同意が必要。大声で事実を伝えれば、組織上の問題になりかねない。ここにはそんな難しさがある。

⑱もう一つ、これは国連職員の言葉。今ジェノサイドが起きたとしても、多分PKOは防げない。ルワンダのように撤退はしないかもしれないが、ジェノサイドは防ぐことができない。彼は正直だったと思う。PKOは抑止力にはなっても、一度起きてしまったら、それ自体を食い止めることは難しい。

⑲自衛隊派遣の根拠となっているPKO5原則は完全に崩壊している。駆け付け警護は誰が見たって憲法違反だ。もしそれを本当にやりたいのであれば、国民に正式に問うた上で、正式にPKO5原則や憲法を変更した上で実施するのが筋ではないのか。

⑳それを南スーダンの救済という「偽り」の理由を楯に取り、都合の良い「解釈」で己の目的のために強引に押し通そうとすれば、どこかで無理が生じて必ず「事故」が起こる。その時、私たちは自衛隊員の尊い命と同時に、戦後ずっと守り抜いていた「大切なもの」を失う。

㉑私たちは今、どこにいるのだろう。南スーダンも、そして私の祖国日本も。ワウでは町にヘイトスピーチがあふれていた。国連は「ジェノサイドが起こってしまう」と警告している。私は歴史の目撃者になんてなりたくはない。(終)

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いまが見頃です、富士山

2016-12-17 21:41:40 | 葉山そして人

フェイスブックに葉山町町長・山梨たかひとさんが富士山の写真を載せました。

すると、こんなコメントが

一番目の品のなさを続きのコメントと写真がすくってくれてます。


これは町会議員の横山さんがシャアしたもの、

この時期の葉山からの富士山の見事なこと!

次は静岡からです、

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オスプレイ墜落ーーブログで見る。

2016-12-16 22:51:59 | せいじの政治カフェ

報道機関ではありませんが個人のブログがオスプレイ墜落をどう発信しているか、短い時間でしたが検索してみました。各々URLを貼っておきましたのでみて下さい。URLの下の画面は初めの部分です。

http://chuiyuntaku.blog.fc2.com/blog-entry-554.html

 

 

http://ameblo.jp/saibaba-1020/entry-12228471426.html

 

http://pagetaka.hatenablog.com/entry/2016/12/16/100122

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続 神奈川と「資本論」

2016-12-15 21:39:23 | kaeruの『資本論』

昨日の続きです、不破さんの「この注を見て、私がまず感じたのは、」の続きです。

《 マルクスは、1865年に地代論に関連して日本問題を研究したあとも、日本での動きに引き続き注意をはらっていたのだな、ということです。この「通商報告書」(昨日の引用文のこと)は、そのすぐあとの「輸送費」のところで、イギリスやニューヨークから上海までの船荷運賃の問題でも参照されていますから、マルクスにとって、東アジアの経済事情を知る貴重な情報源の一つだったのでしょう。「神奈川」、つまり今日の横浜が、『資本論』の草稿に登場していた、というのも、興味がひかれる事実でした。

   その「神奈川」の開港は、1859年(安政六年)六月のことでした。いったい、幕末の「神奈川」に、在庫論の観点からマルクスの関心をひくようなどんな事態が起きていたのか?  神奈川開港後の貿易事情については、例のオールコック『大君の都』で、こんな叙述にぶっかりました。

「開港後最初の1ヵ年間に通商の面で実際に達成されたことにかんしていうと、日本は中国製品と競争して、有利に本国市場〔イギリス市場のことーー不破〕へもたらすことができるような品質と価格の茶と絹を供給しうるということがはっきり確認された。過去12ヶ月間に輸出された約一万五千箱の茶と三千梱を上回る絹とは、本国市場における販売価格とその利益からして、それらが十分かかる競争の仲間入りができるということを証明した。……〔次年度には〕三千梱は一万八千梱に増大した……」(『大君の都』岩波文庫・中、121ページ)。

  生糸輸出の急増はさらに続きます。幕府が輸出制限の措置をとったため、1861年(文久元年)には少し落ち込みますが、イギリスなどの抗議でこの処置が撤回されると、これまで以上の勢いで増加しました。『横浜市史』によると、神奈川港からの生糸出荷額は、1860年の259万ドルから1865年の1461万ドルへと、五年間に5.6倍にも急増はしました(山崎隆三「幕末維新期の経済変動」、『岩波講座 日本史 13』による)。日本の生糸生産がこれだけ急増する輸出量をまかないうるということは、買いつけにあたったイギリス商人には意外な出来事でした。綿製品などの売り込みがこの輸出増に追いつけないで、開港いらいの数年間は、「神奈川港」では、大幅な輸出超過がつづきました。これが逆転するのは生糸輸出が減退する1867年(慶応三年)以後のことです。そのために、資金調達に苦労するなどの「誤算」も、イギリス商人の側に起きたのでしょう。

「通商報告書」によると、イギリス側は、生糸の供給量のこの急増を、「巨大な在庫」があったため、と思いこんだようです。オールコックも、生糸の在庫ではないが、日本では、国内需要がかぎられていたから、大量の繭が加工されないまま放置されていた、つまり、生糸の原料の在庫が巨大だったからだとの解説をくわえています。「外国貿易用のこの主要産物〔茶ーー不破〕は、追加栽培しなくても従来輸出された量を無限に増加しうると信ずべきあらゆる理由が存している。日本人みずからが、国内消費以外に需要がないから、すべての葉がつみとられたことはなく、また絹の方もすべての繭が糸車に巻かれることはない、といっている」(『大君の都』中、121ページ)。

   しかし、実際の事情は、この説明とはまったく違っていました。ある計算によると、開港後の三年間の日本の生糸輸出は年平均121万5000斤でしたが、これにたいし生産額は開港前の平年産額で112万5000斤にすぎず、国内生産量のほとんど全部かそれ以上を輸出していたとされます。まさに、全国で生産される生糸の出荷が神奈川に集中していたわけで、そのために、京都の西陣など全国各地の機業地は生糸の不足と糸価の急騰で大打撃をうけた、というのが実情でした。幕末日本の貿易事情はこんなことだったようですが、ともかくマルクスは、『資本論』のなかで、日本の状況を追い続けていたのです。》

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「てんがらもんラジオ」視聴できませんでした。

2016-12-15 15:42:00 | どこまで続くかこのブログ

   午前中から病院へ、検査入院であっても退院後の状況判断が必要なのでしょう。kaeru夫人に引率されて横須賀中央駅へ、途中気付いたのが駅名の表示板の色が駅によって変わっていたことでした。表示板など一斉に代わるものかとも思うのですが、そういうものでもないようです。

   我が心臓についてつぶやく前に、そんなことで今日第247回の「てんがらもんラジオ」は視聴できませんでした。ここ二三回視聴を逃しています。病院の都合を優先させざるをえず、残念でした。

   午前中に採血と心電図とレントゲン撮影を済ませ、それらにもとづいて午後にお医者さんからの判断を聞きました。OKだとのこと、あと二年後にチェックしましょう、とのことです。前回は「今は大丈夫ですが、半年か一年後は分かりません」と言った同じ口で「二年後」と言うのですから81歳までは保証された、と考えます。この間に何があったかといえばブログ仲間の旅でした。そこで我が身が浴びた鹿児島・薩摩のエネルギーが心臓をはじめ身心に効用があったに違いありません。

  とは言うものの、毎朝の薬は続けることだそうですから余り調子づくなという声が聴こえなくもありません、ハイ聴こえます、その通りです。

   いずれにしても毎日薬と付き合うという新段階を我が身も迎えた訳で、快調に80の坂を過ぎれば80歳台をスムーズに抜けることの出来る身心をつくるかです。それにはやはり一番は楽しめることに精をだすことです。それを考えることが楽しいことですから、今夜から考えようと思います。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神奈川と「資本論」

2016-12-14 22:14:28 | kaeruの『資本論』

   前回の資本論講読会は報告担当でしたので、それなりに準備をしました。といっても不破さんの本をコピーして渡しただけでした、それはそれなりの理由があったとしても。

  ところがその後まったく頁も開かず、人の説明を聴いただけの今日の講読会でした。「第2部第2編第16章  可変資本の回転」というところですが、説明を聴き論議をするとかなり大事なことが書かれているな、と気持を入れ替えて帰ってきたのです。

   ならば自分でも読まねばと読み出したのですが、頭の中が資本論向きになりません。まず数値がかなり出てくるのですがそれが縦書きで書かれているのです。                        

 

縦書き数値を横書きに変えて考えればいいのですが、頭が追いつかないというより眠気が差してきて23度居眠りをしたあと、これではならじと顔を洗いなおして、とにかく読むに挑戦しました。

   すると行にも行間にも気持が入り込みはじめました、これは理解できるということではなく読み進めることができたという意味なのですが、この章を読み終えました。その理解内容は別にノートするとして、参考に開いた不破さんの《「エンゲルスと『資本論』上》にマルクスが日本に注目していたことを記していました。

   講読会の話でも来年が資本論第1巻刊行150周年であり、次の年が明治維新150周年、このつながりは偶然ではなく欧州の資本主義国が全世界的に覇権を拡げる一環としての日本開国の影響下での明治維新。資本主義社会の研究に精魂を傾けていたマルクスが当時の日本に注目したのは事の当然と言えるでしょう。

  不破さんはエンゲルスが資本論第二部の編集を終わったあとを検討し、マルクスの草稿の半分以上が割愛されていたと指摘しています。そのなかに、第3節「流通費」の「注」のなかに突如として、わが日本が登場するのですと書かれ、

「日本では神奈川の開港1年目に絹の巨大な在庫があった。それは、長年にわたって主要な輸出品となったのであり、実際またイギリスではまったく誤算のもととなったのである(『中国、日本、シャムにおける領事の通商報告書』、1865〜66年、ロンドン、1867年、253ページ」。

  「この注を見て、私がまず感じたのは、」と不破さんは続けていますが、かなり長くなりますので明日に譲ります。    

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする