長春で敗戦を迎えました。そのことから書きます。
家族はこれからどうなるのか、心細い日が続きました。
長春では蒋介石の国府軍と毛沢東の八路軍(はちろぐん、パーロぐん)の
内戦が我が家の近くで展開されていました。
戦闘の最中は,皆、家に閉じこもっていました。
厳冬の冬に備えて住居は,煉瓦造りの公営住宅
(団地にそっくりの造り)です。
戦闘が終わって住居の外壁を見ますと,
流れ弾がささって、煉瓦がえぐれていました。
ある日,日本に帰れる日がやってきました。
荷物は一人リックサック一個だけです。
母親は何を入れるか考えていましたが,
第一に家族の記念写真をアルバムから外して
家族のリックに分散して入れました。
私が生まれる前の父母の写真です。
… … …
港に集結した大勢の引き揚げ者を戦時中にアメリカが
急ごしらえで作った輸送船、リバティ船と
古い日本の船でのピストン運航でした。
船の名前を記したプレートを見て驚きました。
なんと「信濃丸(しなのまる)」と書かれているではないですか。
日露戦争の最中、日本海海戦で、バルチック艦隊を発見して,
本日天気晴朗ナレドモ浪高シ
と旗艦「三笠」に打電した船です。
皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ
と、東郷平八郎がZ旗を掲げます。
と、国民学校(戦時中の小学校は国民学校と称していました)で
習っていました。
その歴史的な船に乗せられて引き揚げることになりました。
… … …
引き揚げる途中,船員さんと親しくなって,
機関室を見せてもらいました。
石炭で巨大な蒸気エンジンを動かしていました。
絶えず,ピストンや可動シャフトに油差しから油を差していました。
… … …
父親の兄の浜松市に落ち着くことになりました。
米海軍の艦砲射撃で浜松は、1面焼け野原になっていました。
元魚町のバラック住宅に到着しました。