初心者の老人です

75才になって初めてVISTAを始めました。

続・下加茂撮影所の火事

2009年10月21日 17時31分10秒 | Weblog




写真説明:古くからの屋敷を、土木機械を使って,更地にします。

その上に,新しい設計の屋敷が建ちつつあります。

散歩の途中の新しいスタイルの屋敷を眺めて見ました。




松竹下加茂撮影所の大火災は,フィルム倉庫からでした。

それまで、映画フィルムはセルロイドで作られていました。

セルロイドは一種の樹脂ですが,可燃性の危ないものでした。


キューピーの人形も、学校の文房具の筆箱,

固形石けんの石けん箱。セルロイドはかなりのところで使われていました。


フィルムは可燃性で危険だから,不燃性のフィルムにと言われていましたが,

松竹下加茂撮影所の火災でいよいよ不燃性のフィルムに

切り替えられることになりました。

              … … …

映画の上映で、映写機の光源は強烈なアーク灯で

フィルム・ゲートに焦点を結びます。

そのフィルム・ゲートを可燃性の上映フィルムが走ります。

上映中の映写機になんらかの故障でフィルムが止まりますと,

ゲート内で静止した上映フィルムは,強烈なアーク灯でとろけます。

とろけたフィルムに引火して火事になったこともありました。

              … … …

映画館の上映に携わる「映写技師」の資格試験は,

映写機の操作のほかに消防の知識も要求されていました。

              … … …

松竹下加茂撮影所に宿直だった人が,フィルム倉庫の火事で,

全身、大火傷の重傷を負いました。

幸い命に別状はありませんでした。

             … … …

倉庫にあった数々の名作の フィルム原板もすべて焼失しました。

              … … …

後年、焼失したと考えられていた初期の作品、

川端康成、原作,脚色「狂った一頁」、と「十字路」が他所に残されていて,

大阪で,伴奏音楽入りのニュープリントで見ることができました。

              … … …

現在は,銀塩フィルムもすべてのフィルムも不燃性です


下加茂撮影所の火事

2009年10月20日 17時41分11秒 | Weblog




写真説明:人口11万余人の地方都市なのに、

我が街は美容室が実に多いのです。

千代田駅前通りの片側に二軒,反対側に二軒,

踏切を渡ったところの道の両側に,二軒あります。

それに,あちこち廃業、開業しています。



道を歩いていて過剰な美容室のわりに、すれ違う女性はいまひとつ…。



散髪屋さんも実に多いです。小さな地域に四軒あります。

私はその一軒に通っています。

その店のマスターは度の過ぎた阪神ファンです。

前日のナイターの結果を見て,あまりひどい負けのときは、

1日行くのをずらします。

              … … …

私は中学を終えて,高校に電車通学していました。

左京区浄土寺西田町53番地に引っ越していました。

風呂は銭湯で神楽坂の「神楽湯」です。

周りは学生の下宿が多かったので、学生相手の

銭湯が、白川を渡ったところにもありました。

              … … …



この写真は,夕方の5時半頃,山の稜線が見えるくらいに第一露光して、

八時過ぎの大文字点火で第二露光しました。

ヤブ蚊に刺されながら苦労した思い出の写真です。

              … … …

近くに如意が岳があります。夏の大文字焼きです。

二階の物干し場から間近に見えました。

近くに銀閣寺があります。

高校には銀閣寺道駅から今出川線で通いました。

途中、出町柳を通ります。

出町柳は高野川と加茂川の合流点にあります。

合流した加茂川は名前を鴨川に名前が変わります。

              … … …

1950年7月、今から59年前です。私は高校2年です。

通学の朝,市電が加茂大橋を渡るとき,

下鴨神社の方向から真っ黒の煙が上がっていました。

下鴨宮崎町の松竹下加茂撮影所のフィルム倉庫から出火したのでした。

時々,円いフィルム缶が煙を吹き出しながら,空へ昇っていきます。

やがて「ドカン…」と音がして爆発します。

次々に円いフィルム缶が空へ煙を吐き出しながら昇っていって

ドカンと爆発していました。









モンテクリスト伯

2009年10月19日 16時18分29秒 | Weblog


下鴨泉川町に住むようになりました。

覚えていた昔の道を歩いてみます。

小さい頃、下鴨神社の境内で遊んだ秘密の場所もそのまま残っていました。

小さい頃は大きな秘密の場所だったのに,5年ぶりにいってみると、

なんと小さな場所でした。



参道を南に歩いて神社の外へ出ます。

右へ曲がって歩きますと,葵橋(あおいばし)です。その橋を渡ると

河原町今出川の市電の交差点に出ます。賑やかな街が始まります。

京阪電車の京都側終点で「出町柳」駅があるところです。



出町柳の古本屋に、少年少女世界文学全集のセットをばらして売られていました。

その中のアレクサンドル・デュマの「巌窟王」がありました。

その少年少女用の「巌窟王」を読むのですが,粗筋が書かれているだけで,

わくわくするスリルがありません。



下鴨神社の近く森本町に、下鴨小学校に一緒に通っていたT君がいました。

5年ぶりの再会です。

彼は古い大きな屋敷に住んでいて,

書斎になんと大人の文学全集が並んでいます。

そのなかに、「モンテクリスト伯、上下」がありました。

1頁上下二段組みの、上下二巻です。

              … … …

エドモン・ダンテスは めでたい婚約披露宴の最中に、逮捕されて,

孤島の牢に投獄される。

隣の牢にいたファリア神父の助けで嵐の晩に脱獄を企てる…。

              … … …

日が暮れて,夕ご飯が近づくまで、

暗くなって文字が読めなくなるまで、

気を散らすことなく本が読めました。

いまのように学校から帰ってもゲームも無く、テレビもありません。

何もすることがありません。本を読むだけが楽しみでした。



大人の「モンテクリスト伯」は,手に汗握るスゴイ展開のストーリーです。

少年少女の文学全集では味わえない重厚なストーリーでした。

つくづく、大人の本を読まないとダメと思いました。

              … … …

しかし、少年少女文学全集を読まなければ,

大人の本を読もうと考えませんでしたから、

文学の入り口になりました。





続・ベス単

2009年10月18日 16時54分42秒 | Weblog


写真説明:散歩の帰りは近くの団地を通り抜けます。

その団地の集会所に消防自動車が止まっていました。




広場で消火器を使った消防訓練が行われていました。

先日の期限切れの消火器爆発で注目されています。



署員の指導で団地の人々は燃えさかる火に怖々、

へっぴり腰で消火器を扱っていました。

              … … …

今日は,ベス単の話をします。

理屈っぽくなるのは、私の悪い癖ですがよろしくお願いします。





大正元年ですから今から97年前に、コダックから

三つ揃いの背広のチョッキのポケットに入るカメラ、

ベスト・ポケット・コダック(BPK)が発売されました。

当時,ロールフィルムを使うカメラは珍しかったらしいです。

レンズは,メニスカス・アクロマチックです。

上の図の右のように2枚のレンズが貼り合わせてあります。

レンズの明るさは前に付いているフードの口径でF11ぐらいです。

焦点距離は72mm。

シャッターはB,1/25,1/50…?

フィルムはベスト判です。

カメラの前蓋を引っ張ると蛇腹が伸びて、「カチッ」と止まります。

カメラに向かって,左側にシャッターのレバーがあります。

右側の円い窓はブリリアント・ファインダーです。

カメラの上から景色が覗けるようになっています。



上の図面左のカメラは大正9年、89年前に

ドイツのコンテッサ・ネッテル社から「ピコレット」

ベス単とそっくりなカメラが発売されています。

レンズはベス単と同じ単玉レンズ付きと、

名レンズ,テッサーF4.5、75㍉付きが発売されています。

上の図面右側、今度は、大正14年,日本版「ベス単」が

六櫻社(さくら→コニカ→コニカ・ミノルタ)から「パーレット」

の名称で発売されました。

戦後も製造が続いたのか,戦後しばらく,写真機屋さんのウィンドウで

ズラリと並んでいるのを見ています。

              … … …

「ベス単」は写真業界に影響を与えたカメラです。

              … … …

「ベス単」のレンズをF11ぐらいに制限しているレンズフードを外して,

レンズ開放F8にして 収差を増やしてソフトフォーカスの描写にする

「ベス単フード外し」と称して,独特の甘い描写を好む人もいたようです。

              … … …

「ベス単」からレンズをごっそり外して,

一眼レフのマウントに作り替えてソフトフォーカスを

楽しんでいる愛好家がいたようです。

一眼レフカメラのレンズマウントにした新品「ベス単」レンズもありました。

              … … …

私は,歴史的な「ベス単」を35㍉フィルム用に改造して使っていました



京都へ帰る

2009年10月17日 16時31分01秒 | Weblog


父親は何回か浜松と京都を行き来していました。

父親は仕事の年間契約が出来て、少し将来のめどがたちました。

京都へ帰ろうということになりました。



新しい住所は

京都市左京区下鴨泉川町6番地

です。

渡満する前の住所は

京都市左京区下鴨下河原町15番地

でした。




この二つの住所は,今は世界遺産になった

下鴨神社の広い神域、境内を挟んで両側になります。

夜,境内を流れる泉川の石橋を渡って、暗い糺の森(ただすのもり)を

横切って家族で銭湯へ行きました。

近くに,谷崎潤一郎の屋敷がありました。

              … … …

京都は,戦災に遭っていませんから,

私の生まれた下河原町も昔のまんまでした。

角の西垣郵便局、畳屋さん、写真館,喫茶店,小児科医院,

そのままです。

昔通りの生活が営まれています。私はタイムスリップを感じました。

私は長春から、敗戦で焼け野原の浜松に帰ってきました。

戦災のあっていない京都に帰ってきて,私の5年間は、

何だったのかとつくづく思いました。



私のカメラは,35㍉改造のベス単です。

この35㍉フィルムにこだわった理由は、

映画撮影用のフジのスーパー・パンクロ・フィルムの

端尺が手に入るからでした。

              … … …

映画はタングステン電球で照明するセット撮影が主ですから,

色温度の低いタングステン電球にあわせて、赤の感度が高いフィルムでした。

女の人の唇の色が白黒映像では白っぽく写ります。

それがスーパー・パンクロ・フィルムです。

              … … …

市販の白黒フィルムは赤の感度を抑えた「オルソ・パンクロ」で

肉眼に近い感色性のフィルムでした。




改造・ベス単

2009年10月16日 15時13分55秒 | Weblog


中学一年生になった私は、通学に慣れてきました。

焼け野原になった浜松。

街の大通りの焼け残ったビルを改築したり,新築の店舗を建てる。

街の復興(ふつこう)が始まっています。

市内で一番、賑やかな田町は、

通りの両側にお祭りの夜店のように屋台がズラリと並んでいました。

やがてバラックとはいえ、商売の店が建ち始めました。



田町の真ん中に建った市場の中に,

子供や中学生を相手の駄菓子屋のようなオモチャ屋のような店が出来ました。

小さいときに、父親に買ってもらったオモチャカメラがありました。

カメラと,黒い紙に入ったフィルム,赤いガラスチューブに入ったMQ現像薬、

青いガラスチューブの定着薬を買いました。

それをどう使ったのか記憶がありません…。



父親は,京都で仕事が復活したので,単身赴任で京都へ出かけました。

浜松へ帰ってくるときの土産は中古のベス単でした。

このカメラのフィルムサイズは,ベスト判です。

              … … …

この中古のベス単は35㍉用に改造されていました。

ベスト判のフィルムと巻き上げ側の空スプールの代わりに、

35㍉フィルムのパトローネが両側に入ります。

裏紙つきベスト判フィルムの入るところに、35㍉フィルムの入った

パトローネ(ベスト判フィルムの太さに合わせたパトローネ)を入れます。

巻き上げ側には空のパトローネを入れてフィルムを巻き上げていきます。

勿論,自動巻き上げストップなどではありません。

35㍉フィルムのパーフォレーションに爪が当たるような構造が

フィルムゲートに付いています。

フィルムを装填してカメラ巻き上げノブを少し廻すと,

「パチッ」

と音が聞こえます。その音を八つ数えるまでノブを巻き上げます。

すると、画面一コマ送ったことになります。

シャッターを切って

「パチッ,パチッ,パチッ,パチッ,…」

フィルムを巻き上げながら音を八つ聞いて

シャッターを切る。

この手順をしっかり守らないと,二重露出や、素抜けなどができて

フィルムはえらいことになります。

              … … …

撮影後のフィルム現像、気に入ったネガのプリント仕上げもどうしていたのか、

簡単な密着プリンターがあったような気もするのですが、すっかり忘れています。




              … … …

ブロニー判(6×6)二眼レフカメラで35㍉フィルムを使う道具に

ローライフレックスにはローライキン,

国産のリコーフレックスにはリコーキンがありました。







神戸布引ハーブ園

2009年10月15日 21時43分06秒 | Weblog


昨夜の雷鳴と雨から一夜明けると、雲ひとつない晴天になりました。

今日は,私の所属している写真研究会OB会の秋の撮影会です。

カメラハイクといっています。



学生時代の写真研究会、メンバーが卒業して、

写真の灯火を消さないで頑張っていた面々が

OB会を結成しました。

毎年,春と秋の二回カメラハイクが行われます。

               … … …


写真展は年1回で初春に行われます。これも盛況です。

               … … …



今回のカメラハイクは神戸布引ハーブ園と決まりました。

新神戸ロープウェイで、神戸の布引の滝を眼下に見ながら,

ロープウェイはハーブ園に向かいます。





阪神電車は,梅田→三宮の本線の他に、

尼崎から西九条まであります。

西九条から難波までが未開通でした。

それがやっと開通しました。

阪神なんば線と名付けられました。



これで、阪神三宮駅と近鉄奈良駅がつながりました。

今年,開通したこの阪神なんば線に乗ることができました。

阪神なんば線は、途中,ドーム前という駅があります。

大阪ドーム前です。

阪神三宮に着きます。次に、神戸の地下鉄で,新神戸へ行きます。

              … … …

OB会のメンバー、京都,和歌山,高槻,宇治市,寝屋川,小野市,…25人、

集まりました。

新神戸ローブウェイで,終点、布引ハーブ園駅に行きます。

頂上のハーブ園から写真を撮りながらおりてきます。

ロープウェイの途中の駅,風の丘駅から乗って,新神戸駅におりてきました。







仁義礼智信(じんぎれいちしん)

2009年10月14日 18時18分18秒 | Weblog


写真説明:友人の写真クラブが写真展を開くというので,

会場の南海電鉄高野線・北野田へゆきました。

久しぶりの駅前はすっかり再開発されてビックリしました。

コンパクトデジタルの画角では足りないので,

簡単な0.5倍のワイド・アタッチメントで、

画角をかせぎました。取り付けたワイド・アタッチメントで

画面の四隅が流れてしまいました。



中学校に通うことになりました。

坂になった道を鴨江に向かいます。

峠から市内の方に向きますと,

遠くの山々の間から富士山が小さく見えます。

街には高層ビルなど無くて平屋のバラックが並んで見えます。

秋は,富士山、頂上の雪が広くなります。

冬は,雪の積もった白い三角の富士山です。

春は峰の雪が消えて,黒っぽい富士山に戻ります。

峠を越えると丘の上が学校です。

             … … …

京都から東海道線で浜松を通るとき丘の上の懐かしい学校が見えます。

新幹線でも,車窓から白い学校の姿が見えていました。



名古屋の母方の叔父には、四人の子供がいます。

長男、進(すすむ)、次男,勇(いさむ)、三男、勝(まさる)、

四男、四郎(しろう)です。

いずれも戦争中に生まれたので,勇ましい名前になっていました。

そして敗戦になりました。

叔父は「進んで,勇んで、勝手にしろう」と悪い冗談を言っていました。



              … … …

長春の住まいのお向かいは,中村さん一家でした。

ご両親と、三人の姉妹、一人の男の子の、六人家族でした。

そこのお子さんの名前が,長女、礼子(れいこ)さん、次女、智子(ともこ)さん、

三女、信子(のぶこ)さん、男の子、長男、仁義(じんぎ)ちゃんです。

お子さんの名前をつなげると

仁義礼智信(じんぎれいちしん)となります。

「仁義礼智信」とは儒教で人間が守らなければいけない5つのルールといいます。

「仁」 思いやりの心 憐れむ心がやがて「仁」になる

「義」 世のためになる人としての道 不善を恥じ憎む心がやがて「義」になる

「礼」 礼儀正しいことはもちろんで謙虚、感謝の心 へりくだり

人に譲る心がやがて「礼」になる

「智」 正邪を正しく判断すること 善いこと悪いことを論じる心が

やがて「智」になる

「信」 嘘をつかないこと 信念・信条

を加えて五常の徳なのだそうです。

上の姉ちゃん「礼子さん」の誕生から名前を付けていくのですが,

最後の「仁義」ちゃんが生まれるまで、

ご両親は名前をどう考えておられたのでしょう。

中村さんの智子ちゃんと私は同級生でした。

              … … …

長春での住所は…

新京特別市盛京大路房産住宅78號

(しんきょうとくべつし、せいきょうたいろ、

ぼうさんじゅうたく、ななじゅうはちごう)です。

住所の最後の號は号の本字です。














静岡の叔母

2009年10月13日 16時58分39秒 | Weblog


やっと、引き揚げてきて浜松に落ち着きました。

しかし、問題が浮かんできます。

私の学校をどうするかということです…。

小学校(国民学校)は卒業しましたが,正式の中学校がなかったのです。

年齢から見れば,中学1年在学になります。




敗戦後,長春では近所の元教師が集まって,

謄写版(ガリ版ずり)で教科書をつくって、

私らに配って,ボランティアで中学一年生の授業を始めてくれました。

              … … …

長春で国府軍と八路軍が内戦が始めると、流れ弾が危ないので教室は閉鎖します。

教室は,椅子も机もありません。

各自,折りたたみの椅子と図工用の画板を持って集まりました。

              … … …

長春を引き揚げの合図で出発してから,

浜松に到着するまで、勉強は一切していません。



母親と浜松市役所に出かけますと,係は頭を悩まします。

私と同じ境遇の子供が大勢,引き揚げてきているというのです。

一般に,小学生ならは一学年したのクラスに編入するのですが,

私の場合は,中学1年の年齢ですから,

小学校6年というわけにもいかないというのです。




浜松の県庁所在地は静岡です。

静岡に父方の親戚が1いました。

父の兄は亡くなっていましたが,叔母は元気です。


過保護の今では考えられませんが…,

母親は叔母宛の手紙を持って,ひとりで静岡へ行けと言います。

国鉄で行きました。

叔母に会うと喜んでくれて,豪華な昼食をごちそうになりました。

母からの手紙を読んで,

静岡県庁へ一緒に行ってくれました。

              … … …

県庁の結論では,中学一年に編入してください。

となりました。

1年近いブランクを後から追っかけるのです。

              … … …

中学の教科書をもらいました。

初めて見る教科書は立派なものでした。

              … … …

一人で静岡行きが,成功すると、母親は、

今度は名古屋の代官町で歯科医をしている母親の弟のところへ

行ってこいといいました…。











信濃丸(しなのまる)

2009年10月12日 18時37分44秒 | Weblog


長春で敗戦を迎えました。そのことから書きます。

家族はこれからどうなるのか、心細い日が続きました。



長春では蒋介石の国府軍と毛沢東の八路軍(はちろぐん、パーロぐん)の

内戦が我が家の近くで展開されていました。

戦闘の最中は,皆、家に閉じこもっていました。

厳冬の冬に備えて住居は,煉瓦造りの公営住宅

(団地にそっくりの造り)です。

戦闘が終わって住居の外壁を見ますと,

流れ弾がささって、煉瓦がえぐれていました。



ある日,日本に帰れる日がやってきました。

荷物は一人リックサック一個だけです。

母親は何を入れるか考えていましたが,

第一に家族の記念写真をアルバムから外して

家族のリックに分散して入れました。



        私が生まれる前の父母の写真です。

              … … …

港に集結した大勢の引き揚げ者を戦時中にアメリカが

急ごしらえで作った輸送船、リバティ船と

古い日本の船でのピストン運航でした。



船の名前を記したプレートを見て驚きました。

なんと「信濃丸(しなのまる)」と書かれているではないですか。

日露戦争の最中、日本海海戦で、バルチック艦隊を発見して,

本日天気晴朗ナレドモ浪高シ

と旗艦「三笠」に打電した船です。

皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ

と、東郷平八郎がZ旗を掲げます。

と、国民学校(戦時中の小学校は国民学校と称していました)で

習っていました。

その歴史的な船に乗せられて引き揚げることになりました。

               … … …

引き揚げる途中,船員さんと親しくなって,

機関室を見せてもらいました。

石炭で巨大な蒸気エンジンを動かしていました。

絶えず,ピストンや可動シャフトに油差しから油を差していました。

             … … …

父親の兄の浜松市に落ち着くことになりました。

米海軍の艦砲射撃で浜松は、1面焼け野原になっていました。

元魚町のバラック住宅に到着しました。