‘出会いの旅’NHKのアナウンサー山根基世さんの本ですが、旅に出て、そこで会う人々のことを本に書いていると思いましたが違ってました。読み終わって、山根さんが私と同年輩の人と分りました。ヒット曲が生まれない昨今紅白歌合戦にはナツメロの果たしようがない、大晦日のテレビから離れて行くと書いていました。今から四半世紀も前の昭和58年に既にこんな話には驚きました。私は紅白が嫌いで殆ど見てませんでしたが、今年は少し見ようと思ったいます。
でもちょっとシンドイかも...
古くなりましたが越路吹雪とちあきなおみが大好きでした。特に‘やぎりの渡し’は本来彼女の歌で、彼女が歌うと本当に素晴らしかったです。喝釆は母親が好きでした。どれも思い出が一杯です。子供の頃、意味も分らず歌っていた春日八郎の‘お富さん’三橋美智也の‘達者でナ’そんな思い出の歌も無くなって来ました。
山根さんが死刑囚の手記を見る機会の話ですが、読むとただ毎日飯が美味かったとかおかずが何であったとか、そんな無意味な事しか書いていなかったのでした。手記を読んだ時はつまらないと腹が立ったそうで、その後、ようやく分ってきたと書いていました。その男にとっては今日の一日の生活が大切だったのと分って来たと書いていました。
何かできないかと思っていた自分に、今ある自分に一つのヒントと言うが光を与えてくれました。日々の生活を大事にすると事は、特別に何かをやり終えるばかりで無いと言う事かも知れないと思ったのでした。人それぞれに思う所は違うでしょうが、日々精一杯生き無ければと思いました。簡単ですが、言うが易しやるは難しい事です。
そんな彼女が‘中学生の頃、誰もが抱く夢はあながちただの夢として諦めるべきでは無いのかも知れない。’山根さんは中学校の時にNHKのアナウンサーになる夢を実現したのです。
私は兄が何時言ったか覚えていませんが、アメリカの地平線を見たいと言ったのを夢見ていました。確か中学生時代、その頃は夢の又夢であったと思いました。とりあえず海外に出ようと思ったのが大学生になってからの事でした。友達と2人で行く予定であらゆるバイトに精出しました。今出川の烏丸上がった所に学生援助会(だと思う)があって日雇いから長期バイト迄世話をしていたのでした。ただ、配達と万博に長く務めたのは、偶然としか言いようがありませんでした。
配達のバイトは、交通事故が縁でした。オ-トバイに乗っていた所、前の車が左にウインカーも無く寄って来て接触事故を起こしたのでした。阪神デパートの配送車で、集配所迄行くとそこでバイトをしないかと言われたのでした。1日働いて2,500円(当時800-1400円が相場)以上になりました。阪神は京都でマイナーで配達する家はほぼ決まっていたので、2年目からは当時既にクラッシックカ-となっているミゼットで配達しました。タイヤの交換は難しくて針金で止めてありました。途中にそのミゼットがほぼ完全な形で陳列状態であったのが今でも忘れられません。。私はこれを引き受けて京都に詳しくなったと言えます。
やっぱりついていると思います。未だ、ツキは残っているはずですので次の夢を早く見つけたいと思います。
でもちょっとシンドイかも...
古くなりましたが越路吹雪とちあきなおみが大好きでした。特に‘やぎりの渡し’は本来彼女の歌で、彼女が歌うと本当に素晴らしかったです。喝釆は母親が好きでした。どれも思い出が一杯です。子供の頃、意味も分らず歌っていた春日八郎の‘お富さん’三橋美智也の‘達者でナ’そんな思い出の歌も無くなって来ました。
山根さんが死刑囚の手記を見る機会の話ですが、読むとただ毎日飯が美味かったとかおかずが何であったとか、そんな無意味な事しか書いていなかったのでした。手記を読んだ時はつまらないと腹が立ったそうで、その後、ようやく分ってきたと書いていました。その男にとっては今日の一日の生活が大切だったのと分って来たと書いていました。
何かできないかと思っていた自分に、今ある自分に一つのヒントと言うが光を与えてくれました。日々の生活を大事にすると事は、特別に何かをやり終えるばかりで無いと言う事かも知れないと思ったのでした。人それぞれに思う所は違うでしょうが、日々精一杯生き無ければと思いました。簡単ですが、言うが易しやるは難しい事です。
そんな彼女が‘中学生の頃、誰もが抱く夢はあながちただの夢として諦めるべきでは無いのかも知れない。’山根さんは中学校の時にNHKのアナウンサーになる夢を実現したのです。
私は兄が何時言ったか覚えていませんが、アメリカの地平線を見たいと言ったのを夢見ていました。確か中学生時代、その頃は夢の又夢であったと思いました。とりあえず海外に出ようと思ったのが大学生になってからの事でした。友達と2人で行く予定であらゆるバイトに精出しました。今出川の烏丸上がった所に学生援助会(だと思う)があって日雇いから長期バイト迄世話をしていたのでした。ただ、配達と万博に長く務めたのは、偶然としか言いようがありませんでした。
配達のバイトは、交通事故が縁でした。オ-トバイに乗っていた所、前の車が左にウインカーも無く寄って来て接触事故を起こしたのでした。阪神デパートの配送車で、集配所迄行くとそこでバイトをしないかと言われたのでした。1日働いて2,500円(当時800-1400円が相場)以上になりました。阪神は京都でマイナーで配達する家はほぼ決まっていたので、2年目からは当時既にクラッシックカ-となっているミゼットで配達しました。タイヤの交換は難しくて針金で止めてありました。途中にそのミゼットがほぼ完全な形で陳列状態であったのが今でも忘れられません。。私はこれを引き受けて京都に詳しくなったと言えます。
やっぱりついていると思います。未だ、ツキは残っているはずですので次の夢を早く見つけたいと思います。
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