旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

493 末弟(毎週土曜日に更改しています)

2016-11-12 04:59:17 | ブログ
 30年以上前に、今ではどのような訓練をしたか受けたか忘れましたが、事故現場に行って活動することを習いました。殆ど忘れていますが、ただ一つ覚えているのが、その時に被災者に対して目線合わせる事でした。

 以前に言ったことですが、淡路大震災の時に、陛下が神戸にお見舞いに行かれた時も体育館で座っている人に、その方迄腰を落として目線を合わせられた事に感動しました。私は、習ったように、現在、お年寄り相手にベットまで膝を折って一人ずつ体温・血圧を計るようにしています。私のような一般人にとっても大変な事です。昨今、しんどいんのでやめていますが付け焼き刃でできることではありません。
 ところが先の震災の時も同じように陛下がされているのを拝見して、同じ80才代の人を介護施設で見ている身で、良くできるなと感心させられます。普通ではできない事です。もう定年を十分に過ぎています。天皇定年制あるべきだと思います。

 そればかりで無く三笠宮崇仁さまが亡くなられて、色々な経歴が紹介されています。大本営参謀に務められて、又、後方で気楽にやられていたのだと思っていました。そして上手く生き延びたな、戦犯にもならず等、不謹慎な考えを抱いていました。

 1943年から一年間、「支那派遣軍総司令」の参謀として南京に駐在され部内の将校に対する研究科の資料として書かれたことがあったのです。一般幕僚が大胆な発言をするのが難しいので、皇族である自分があえて発言されたのです。支那派遣軍は日中戦争の本質の認識や、解決への努力が足りないと指摘。満州事変、支那事変の主な原因と責任は日本現地軍にあると言われていたのです。
 軍の「略奪、強姦、良民の殺傷、放火等」中国への無理解やこれらの残虐行為に幻滅し、軍の参謀の立場にありながら反省を求める内部文書を纏められたのでした。つまり戦後なってから、戦争の罪悪性について言われたのでは無く、皇族でも当時の前線で言えない事を記録として重要な戦後をつなぐ役割を果たされたのです。

 そして戦後、現憲法の戦争法案条項を高く評価、2月11日の建国の日を戦前の「紀元節」を歴史的根拠がないと批判されたそうです。キリスト教と共産主義という二大潮流がどう成立したかを知ろうとして西洋史を学び、古代オリエント史に行きついたそうです。私ならその入り口で諦めるのに、飾り物だと思った東京芸術大学の客員教授も真面目な講義だと思います。
  
「御心」が勝手に語られ、まつりあげられた皇室が戦争の原動力になったと今信じます。亡くなるまで知らなかった..末弟と言う言葉が死語になる世の中、100歳精一杯生き抜かれたと思います。合掌

 
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