物事の本質はどこかにすでにそれ自体としてあって、私たちが生きている現実はその部分的な表象でしかない、その不完全な反映でしかない、さらに悪くすると、私たちをその本質から遠ざけるだけの歪んだ或いは偽りの像しか与えないと思い込んでいると、現実は生きづらい。
ましてや、その現実によって強いられる瑣細なことやつまらないことに時間を取られると、どうしてもイライラしてしまう。なんでこんなこと自分がやんなくちゃならないんだ、と腹も立つ。そんなことが度重なると鬱にもなるだろう。最悪の場合、過労自殺ということになる。
そのような不幸な結果に至るのは、どこかで思考が論理的に誤っているからだと疑ってみる必要はないであろうか。
まったく逆に、物事の本質は、あらかじめ与えられているものではなく、現実の中でその物事に私たちが参加することではじめて充填されていくものだと考えるとどうであろうか。
しかし、それは私たちの考え方しだいで現実はどうとでもなるという主観主義とは違う。実存は本質に先立つと主張する意識の哲学とも違う。どちらもお目出度すぎる。
現実は私たちの自由にはならない。歴史は書き換えることができない。私たちにできることは、与えられた場所と時において歴史的現実の運動に参加することだけだろう。この参加によって、生きられる現実は必然化され、概念が概念として論理的に生成する。歴史的現実の中での概念の生成の論理の探究が哲学にほかならない。
二十世紀のフランス哲学の中で今読まれるべきなのは、どこまでも勇敢なレジスタンスの闘士としてゲシュタポに銃殺されるその瞬間まで論理を生き抜くことで、まさに身をもって倫理を示したジャン・カヴァイエス(1903-1944)である理由がここにある。