内的自己対話-川の畔のささめごと

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社会とは何か ― エミール・デュルケーム『社会学的方法の基準』新訳を読みながら考える

2019-07-04 18:20:50 | 読游摘録

 昨日に続いて、私自身が最近手にした古典の新訳についての感想。出版月からすればこちらのほうが昨日のウェーバーの新訳より一月前の昨年六月に講談社学術文庫の一冊として刊行されている。この新訳も、専門家として原典を知悉している菊池和宏による極めて優れた訳業である。
 明快で懇切丁寧でありかつ問題提起的な解説の中で、訳者は、「いったい社会はあるのか、ないのか。あるとすれば、どのような意味で存在し、またわれわれ各人はそれとどのように関わっているのだろうか」という問いを、本書の翻訳の問題として提示している。
 デュルケームが言う « individuel » は、実のところ必ずしも「個人」を指しているわけではない。訳者は便宜上「個人」という訳を原則として採用しているが、こう注記している。

この語は「個別性」あるいはあえて「個性」とも訳すべき individualité を有することを意味する語として用いられており、ただちに「個人」を指しているわけではない。したがって、本文中で「個人意識」と訳した conscience individuelle、「個人的生」と訳した vie individuelle は、それぞれ「個的意識」、「個的生」とも訳しうる。

 言い換えれば、「個性」(あるいか個別性)と「個人性」と重ね合わせ、両者を区別しないまま語っていることそのこと自体にデュルケームの社会観が如実に表れている。

端的に言って、本書における individuel とは、自然的存在である人体の社会的属性としての個(人)性を指しており、今日われわれがこの語から想起するような近代的個人を指しているわけではない。Individuel は主体的行為の起点ではなく、ましてや〈私〉などというものではない。それは区分(division)という視角から捉えられた全体である。それはあくまでも「諸個」である。つまり、ここに個人というものの本源的社会性が現れているのだ。

 デュルケームが思い描いている社会とは、個人と社会とが不即不離の関係にあるような存在様態、全体として分割不可能な一つの生命である人類=人間性(ヒューマニティ)の存在様態だと訳者は言う。

このことを敷衍すれば、個人的生と社会的生は、個人と社会という異なる二つの視角から、同じ一つの不可分の「生」というものを照らし出して初めて現れる区別にすぎない、とも言えよう。つまり、人がともに生きているという現実の全体を客観的な事実として捉えようとしたデュルケームにとって、両者は生という現実の二つの側面であり、表裏一体のものなのである。

 先行世代の社会有機体的社会観を色濃く残した一種折衷的なデュルケームの社会概念は、むろん不安定なものである。この不安定さを一九世紀の前実証主義的な思考様式から二〇世紀の実証主義的なそれへの移行期における過渡的な混乱とみなすこともできる。
 しかし、現代社会に生きる私たちは、より確固とした社会概念を持っていると言えるだろうか。むしろ、ますます不安定になった社会観しか持てなくなってはいないだろうか。社会とは何かという問いを徹底的に考えようとするとき必ず立ち返るべき古典の一つが優れた新訳で読めるようになったことは、それを読んで社会についてその根本から考え直してみよという課題が私たちに与えられたことを意味しているのではないだろうか。