内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

前期集中講義「現代哲学特殊演習②」

2019-07-01 23:59:59 | 講義の余白から

 今年で九年目になる東洋大学大学院哲学科での前期集中講義「現代哲学特殊演習②」が今月27日から始まる。3月のリール大学での発表と先日のイナルコでの発表とがそのまま集中講義の準備になっているような内容である。ありがたいことに、この科目の内容は、担当者である私が自分の問題関心に応じてまったく自由に決めてよいので、このようにプログラムすることができる。フランス語で話した内容をこんどは日本語で話すわけである。演習であるから、学生たちが積極的に議論に参加できるようにする工夫が必要だが、その点は、これまでの八年間でかなり方法的に練れてきている。
 シラバスの「テーマ・サブタイトル」、「講義の目的・内容」は以下の通り。

【テーマ・サブタイトル】
生命・哲学・宗教 ― 西田幾多郎の自己形成的生命とミッシェル・アンリの自己触発的生命,その親近性と乖離点 ―

【講義の目的・内容】
 生命は,哲学と宗教の根本問題としてどのように提起されうるのか.本演習は,ミッシェル・アンリの生命の現象学と西田幾多郎の生命の哲学との比較検討を通じて,この問題を考察することをその目的とする.
 生命は,いかに哲学的探究の対象となり,その探究の最終段階として,なぜ宗教の問題として問われることになるのか.アンリと西田の親近性と決定的な乖離点を把握した上で,現代世界における哲学の役割と宗教の意味についての考察を通じて,この問への答えを探究する.
 西田は,アンリが截然と区別した自己の自己への純粋な現れと世界の現れとを,自覚と行為的直観との区別として,やはり厳密に区別している.行為的直観が,無限の形を自らのうちで自らに与える自己形成的世界を直接に把握することであるのに対して,厳密な意味での自覚は,自己自身を自ら直接に把握することであり,そこでは自己が自己自身に「現れることのそれ自身への本源的現れ 」として現れる.つまり,自覚の問題圏にとどまるかぎり,西田とアンリは極めて近い立場に立っている.
 しかし,行為的直観の立場に立ち,そこから行為的直観と自覚との区別と関係を捉え直すとき,西田とアンリとは,真っ向から対立せざるをえない.アンリにおいては,自己への純粋な現れと世界の現れとは,相互に根本的に異なった二つの次元を構成する.それに対して,西田においては,自己形成的な歴史的生命の世界において行為的直観を通じて自覚が自らを直接に経験する場所こそ私たちの歴史的身体である.
 両者の対立は,両者がそれぞれ自己身体に与えた存在論的身分の違いに由来する.アンリにおいては,自己身体は,純粋な現れの現象性としてその身体性を失うか,外在性としてそこからまったく排除されてしまうかのどちらかであるのに対して,西田においては,自己身体は,歴史的生命の世界において,歴史的に限定された〈場所〉として,決定的に重要な位置を占めている.
 アンリにおいては,内的に直接的に自己自身に経験される生命は,それだけで自足しており,世界におけるその身体による創造行為は本質的には生命に関与しない.それに対して,西田における歴史的身体とは,生命の創造性を直接経験し,歴史的生命の世界の創造的要素として働く身体ある.この身体は,「形が形自身を限定する」創造的世界としての生命を表現する一つの形にほかならない.