古田徹也の『言葉の魂の哲学』(講談社選書メチエ、2018年)を読み終えたところだ。問題設定から結論に至るまで、著者自身が親切に各所に道標を立てながら書かれている。その何箇所かを引用すれば、自ずと本書の要約になる。
言葉に魂が入ったように表情を宿し始めること。ありふれた馴染みの言葉がふと胸を打つこと。言葉の独特の響きや色合い、雰囲気といったものを感じること。あるいは、それらのものが急に失われ、魂が抜けて死んだように感じること。―そうした体験をどのように捉えればよいのか。また、そうした体験は我々の言語的実践にとって、ひいては我々の生活や社会全体にとって、いったいどのような重要性があるのか。本書はこの問題を探究する。
第一章では、言葉の魂を主題化した作品の代表例として、中島敦の「文字禍」と、フーゴ・フォン・ホーフマンスタールの「チャンドス卿の手紙」という二つの小説を中心的に取り上げ、両作品でそれぞれの仕方で主題化されている「ゲシュタルト崩壊」という現象を考察しながら、本書で扱う問題の輪郭が明確にされていく。
第二章と第三章では、ウィトゲンシュタインとカール・クラウスの言語論がそれぞれ取り上げられる。彼らは、言葉がふと際立って有機的なまとまりとして感じられる現象に強い関心を寄せている。また、言語を現実の代理・媒体としてではなく、むしろ現実の一部として捉える見方を提示する点でも彼らは共通している。そうした彼らの議論を追うことで、本書で扱う問題に対する回答の道が探られていく。
本書は、これらの考察過程を通じて、言語使用をめぐる一個の重要な倫理の存在を照らし出そうとする。それは、クラウスの言葉を借りれば、「言葉を選び取る」という、「最も重要でありながら、最も軽んじられている責任」である。ウィトゲンシュタインとクラウスによる言葉の豊穣な可能性を探る言語批判とは、「現実の生活の流れのなかで用いられる個々の言葉に注意を払い、吟味し、それらを相互的な連関の下で多面的に理解する実践である。そして、それが一個の極めて倫理的な実践にほかならないこと」を彼らはその実践を通じて示そうとした。
本書の締めくくりである第三章の第二節から、特に印象に残った箇所を摘録しておく。
粗雑な政治の言葉が行き交い、常套句が氾濫し、言葉が本当にヴェールと化していく社会を見つめながら、彼(=クラウス)は、人々が自分の話す言葉に耳を傾け、自分の言葉について思いを凝らし始めることに、戦争から遠ざかる一縷の望みを確かにつないでいた。
繰り返し流れてくる常套句、その音声上のリズムや抑揚にただ身を任せ、浸っているときに忘れ去られているのは、まさしくかたち成すものとしての言葉の側面であり、言葉を選び取るときに生まれる〈これではまだしっくりこない〉〈これでは……過ぎる〉といった「迷い Zweifel」である、そうクラウスは主張している。
そして、彼はこの「迷い」を、我々に対する「道徳的な贈り物(moralische Gabe)と呼んでいる。[中略]この迷いの感覚がとりわけ道徳的な贈り物であるのは、それが常套句の催眠術にかからないためのわずかな拠り所であるからだ。出来合いの常套句で手っ取り早くやりすごし、夢見心地でうっとりしているときに、言葉に意識を向けることはできない。迷うためには、醒めていなければならない。[中略]つまり、ここで求められているのは、醒め続けることであり、しっくりくる言葉を見出すまでは妥協しないよう務める責任、どこまでも自分を欺くまいとする倫理である。
自分でもよく分かっていない言葉を振り回して、自分や他人を煙に巻いてはならない。出来合いの言葉、中身のない常套句で迷いを手っ取り早くやりすごして、思考を停止してはならない。言葉が生き生きと立ち上がってくるそのときに着目し続けた二人の自然言語の使い手、「世紀末ウィーン」の申し子にして異端児たちが、それぞれの言語批判の活動を通じて絞り出したのは、詰まるところ、そうした単純な倫理である。