ベルクソンが『物質と記憶』第一章で定義している「イマージュ」という語の用法に従えば、宇宙もイマージュであり、その中に在るすべてのものもまたイマージュであり、私たちの身体もイマージュである。その身体の中で機能している脳も神経組織もすべてイマージュである。
しかし、私の身体は、知覚によって外から認識されるだけでなく、情感(affections)によって内からも認識される点で際立っている。この私の身体が宇宙のイマージュの総体の中に何か新しいものを生じさせる。
Tout se passe comme si, dans cet ensemble d'images que j'appelle l'univers, rien ne se pouvait produire de réellement nouveau que par l'intermédiaire de certaines images particulières, dont le type m'est fourni par mon corps (p. 12).
私が「宇宙」と呼ぶところのイマージュの総体においては、ある特殊なイマージュ、その典型が私には自分の身体によって与えられるイマージュを介してでなければ、本当に新しいことは何も生じえない、という具合にすべては進んでいる。(杉山訳)
では、私の身体というイマージュは、宇宙というイマージュの総体の中にそれまでなかった何かを産出しているのだろうか。私の身体において頭蓋骨に守られ、それ自体は直接には肉眼では見えないし、四肢のようにその動きを外から見ながら、内からもその限界づけられた広がりを感じることはできない脳とは、どのような働きを果たすイマージュなのだろうか。脳は、それだけを身体の他の諸器官から切り離すこともできないし、身体を取り巻く世界とは無関係に、あたかもそれだけで機能する機械のようなものでもありえない。では、脳を包んだ身体は、イマージュの総体の中でどのように機能しているのか。この問いに対するベルクソンのラディカルな解決を杉山直樹氏は訳者解説で次のようにまとめている。
もともとイマージュの総体としての宇宙は、それ自体で、すべて見える(聞こえる、触れる……)ものである。事物の彩り豊かな現前ないし表象それ自体は、説明しなくてもよいのだ。われわれの意識的知覚のほうが、この光に満ちた可視的世界を、むしろ制限し、その一部分だけを切り出したものなのだ。身体が行っているのは、この選別だと言うのである。意識的表象を新たに産出しているわけではない。最初に用意されている客観的イマージュの総体から引き算をしているだけなのだ。身体の変化は、この選別を変化させる。身体と知覚が相関するのは、身体が知覚を生むことからの帰結ではない。この相関は、最初から用意された可能的な意識的知覚の全体を、身体が実際の知覚へと縮減していることから理解されるべきだ、というわけである。
無限に豊かな宇宙というイマージュの総体の中で、脳をその裡に備えた身体は、その総体からその都度自分に必要なものを引き出しているだけあり、そこにもともとはなかった何ものかを産出しているわけではない。言い換えれば、宇宙は、私たちの身体の選別機能を介して、己自身のうちに新しいイマージュを知覚可能な形象として引き出し続けている。