内的自己対話-川の畔のささめごと

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神学の哲学的濫用 ― ミッシェル・アンリ『受肉』におけるグノーシス批判について

2019-07-17 19:46:19 | 哲学

 グノーシス研究にとって、1945年にエジプトのナグ・ハマディという町でまったく偶然に発見された「ナグ・ハマディ写本」は、画期的な重要性を持っている。なぜなら、それまでのグノーシス研究は、ごく一部の例外を除いて、正統多数派教会の著作家たちによる反異端文書に依拠していたからである。つまり、正統サイドからの異端反駁の文書から異端サイドの主張を汲み取らなければならなかったということである。
 もちろん、研究者たちは、これらの反異端文書は「大本営発表」(筒井賢治『グノーシス 古代キリスト教の〈異端思想〉』)にすぎないことは承知の上で、それらの文書から異端サイドの「生の声」を聴き取ろうと努力を続けてきた。しかし、それにはもちろん限界があった。そんな状況の中、キリスト教グノーシス側で書かれ、読まれたオリジナルの文書が大量に発見された。それが「ナグ・ハマディ写本」である(この写本についてご興味を持たれた方は、前掲の筒井書と大貫隆『グノーシスの神話』(講談社学術文庫)を参照されたし)。
 ナグ・ハマディ写本発見以前のグノーシス研究が依拠していた最古かつ最大の文献は、ガリアのルグドゥム(現在のフランスのリヨン)の司教であったエレナイオスが二世紀後半に著した『偽りのグノーシスの暴露と反駁』(通称『異端反駁』)である。なぜ私がこの著作に関心を持ったかというと、その仏訳 Irénée de Lyon, Contre les hérésies. Dénonciation et réfutation de la gnose au nom menteur, Les Éditions du Cerf, 3e édition, 1991 をミッシェル・アンリが Incarnation の中でかなり頻繁に引用しているからである。
 なぜアンリはエレナイオスに強い関心を持ったのか。一言で言えば、乱暴な言い方になるが、自身の生命の現象学においてイエス・キリストの受肉の問題を扱うのに都合のよい言説がエレナイオスによって展開されているからである。
 エレナイオスは『異端反駁』の第三巻以降で積極的に自分の神学を披瀝している。「その核心は、さまざまなグノーシス主義教派が旧約聖書の神を無知蒙昧な造物神に貶める一方、その造物神の支配から人間を救い出す救済神をそれとは別に立てたのに対して、創造神と救済神が同一の神であるべきことを、壮大な「歴史の神学」を構想して論駁することにある。」(大貫隆『グノーシスの神話』)
 この神学においては、当然のことであるが、神の独り子の受肉も必然的な過程として統合されている。この受肉の必然性をアンリは自身の生命の現象学において「現象学的に」根拠づけようとしたのである。まあ、アンリをご存知の方には申し上げるまでもないが、すべては、「どこを切っても金太郎」的ないつもの「アンリ節」の言説の中に回収されてしまう。正直に言えば、読み直していて、辟易した。これはもう現象学でも、哲学でもない。神学の哲学的濫用は似非神学でしかない。
 別にグノーシスに肩入れしようというのではない。グノーシスの歴史的研究の無視というお門違いな非難を投げつけようというのでもない。ただ、グノーシスが提起している問題をヴェイユのように現代社会においてそれとして真剣に考察することもなく、正統派サイドの古代の教父の著作に依拠して異端派グノーシスの主張を「今さら」反駁したところで、そんなことにいったいなんの意味があるのか。