内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

マルクス・アウレリウス、覆される哲人皇帝像

2019-07-23 18:54:02 | 哲学

 マルクス・アウレリウスという名前を聞けば、古代ローマの五賢帝時代の最後の皇帝で、哲人皇帝と称され、戦陣で執筆された『自省録』は、後期ストア哲学の代表作とされる云々といった辞書的説明がすぐに思い浮かぶ方も多いだろう。日本でも、神谷美恵子訳の岩波文庫版『自省録』は、初版刊行から六十年を超える今も売れ続けているロングセラーである。欧米諸国でも、同様によく読まれており、私の手元にある仏訳だけでも五種類ある。
 ところが、最近の研究によって、ストア哲学を実践する哲人皇帝というイメージが大きく揺らぎつつある。『自省録』がマルクス・アウレリウスの著作ではないという仮説まで出ている。つい最近まで、フランス語圏、あるいはそれを超えて欧米語圏で、マルクス・アウレリウスのイメージの形成に与って力があったのはピエール・アドの研究である。その自己の内面を凝視する孤独な哲人皇帝というイメージを根底から覆す研究が2016年に出版された。Pierre Vesperini の Droiture et mélancolie. Sur les écrits de Marc Aurèle, Verdier がそれである。
 まだ読み終えてはいないのだが、本書が途轍もないインパクトをもっていることは間違いないと思う。ピエール・アドの作り上げたマルクス・アウレリウス像がいかに多くの文献を無視することによって作り上げられたものか、徹底した文献の博捜に裏づけられた論証によって歩一歩明らかにされていく。同時代文献を根拠とする批判を通じて、アドが内的〈個〉としての自己という近代的概念をマルクス・アウレリウスのテキストに読み込むというアナクロニズムを犯していることを批判するその論の運びは、圧倒的な説得力を持っている。
 批判の対象になっているのはアドだけではない。アドの古代研究に影響を受けて「自己の配慮」をその晩年の哲学の中心に置いたミッシェル・フーコーに対する批判もまた容赦ない。
 近代的な自己概念を古代哲学に読み込むというアドのアナクロニズムに対する批判は、別の文脈で、 Vincent Descombes の Le complément de sujet. Enquête sur le fait d’agir de soi-même, Gallimard, 2004 ですでに示されてはいた(p. 265-267)。しかし、ここではその批判が哲学史家としての地道な文献探査の作業を通じて緻密にかつ冷静に実行されている。
 著者は、本書を出版した時点で三十代前半であったと思われる。恐るべき俊才である。