内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

自己責任論によって洗脳され、「繋がり」を失った現代日本の若者たちの自虐私観

2019-07-11 15:38:52 | 雑感

 「自虐史観」という言葉は今でもよく見かけるが、「自虐私観」という言葉は見かけたことがない。日本では現政権を支持する若者たちが多いという新聞記事を昨日読んで、うかつにも今さら愕然とした私の頭にひょいと浮かんだ言葉である。坂口安吾の名評論「日本文化私観」では、「私観」とは私固有の物の見方という意味だが、私の頭に浮かんだ「自虐私観」の「私観」とは、自分自身についての見方という意味である。「自虐私観」とは、一言で言えば、自虐的自己認識のことである。
 積極的支持ではないにしても、他よりはまし、今より不安定になるのはゴメンだ、問題はあるにせよ、今の政府は政策を決定する力がある、などが若者たちの現政権支持の主な理由であるという。そういう若者たちは、けっして恵まれた環境で暮らしている、いわゆる「勝ち組」ではない。むしろ、不安定な労働条件で働くことを強いられている非正規被雇用者もその中には少なくない。しかし、そんな自分の現状は、現政権のせいではなく、社会を甘く見た自分の「自己責任」だと彼らは考え、自分を責める、あるいは現状を受け入れる、あるいはよりよい未来を諦めているのだという。
 確かに、彼らの窮状をほんとうに理解し、そのために有効な政策を打てるようなまともな政党など日本には存在しない。ならば、みんなが幸せになれる「より良い社会」などという幻想を金輪際捨て切って、「安定的な」現政権にすり寄って生きたほうがマシだ、彼らがそう考えたとしても、彼らを責めることはできないだろう。
 生きることに疲れているとき、あるいは、未来になんの希望も持てないとき、人は考えることそのことを厭うようになる。考えたってしょうがない。考えるだけ時間の無駄、それどころか、その分人より遅れてしまう。考えていたらノルマをこなせない。雇い止めされたら大変だ。過酷な労働条件で働く者たちは、その条件の改善を求めて、自分たちを組織し、交渉あるいは闘争の戦略を練るために考えるには、あまりにもすでに疲れている。
 自分独りのために考えること、それは考えることでさえない。考えることは、本来、未来を志向し、他者との繋がりを必要とする。この二つの条件のいずれかが欠ければ、空想しかできない。空想だけでは人は生きていけない。
 そこで行き着いたのが以下のような自虐私観である。
 イッソノコト、考ヘルノヲ止メ、自己責任ノ結果トシテノ現状ヲ素直ニ受ケ入レ、他者ヲ責メズ、社会ヲ恨マズ、イツモ静カニ微笑ンデ、我ガ身ヲ老ヒルニマカセ、誰ニモ看取ラレズ独リデ死ンデイク、サウイフモノニワタシハナリタイ。