内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「私という生成」― ベルクソン『物質と記憶』探検(3)

2019-07-09 18:23:57 | 哲学

 それ自体は見事な訳者解説をこっちで勝手に摘録しても、それを読む人にはなんのためにもならないどころか、訳者の意図を損ない、ひいては『物質と記憶』そのものの理解の妨げにもなりかねないではないか。そんな誰のためにもならないことをしている暇があるならば、せっかくフランス語が読めるのだから、この訳書を脇に置きながら、自分で『物質と記憶』の原文を読んで考えればそれでいいではないか。もう少しましなことが書けないものか。『物質と記憶』そのものに関心のある方には、この最新にして最も優れた訳と訳者解説をどうぞご自身でお読みになってくださいと言えば、それで足りることではないか。
 こんなことを自問しながらここ数日の記事を書いている。私の頭では、解説に書いてあることを一通り辿るだけでも一苦労であるから、結局、これはもっぱら自分のために書いているに過ぎない。
 以下、特に断りのないかぎり、カギ括弧内の文は、すべて訳者解説からの引用である。
 『物質と記憶』における主観と客観の区別は、精神と物質の区別と対応している。「物質と精神とは、それぞれに別個に存在しているわけではない。両者は同じ場所に重なって存在し、生成しつつある。」両者の違いは、生成のスケールあるいはリズムの違いである。それぞれに異なったリズムで生成する精神と物質は、「各自、自らに固有の実在性をもっている」が、互いに作用を及ぼし合ってもいる。
 例えば、「手を挙げる」という動作は、そのような動作としては私の精神の運動の一部であるが、他方では、それと同時に、身体内でのミクロレベルの膨大な運動変化でもある。両者は、そのいずれかに還元可能なのではない。「私という生成は、物質が含む微細な非決定性に対して、統計上の決定論に沈ませることなく、それらをすべて集めて一定の向きに傾けることができるというわけである。」
 この言い方にちょっと引っかかってしまい、先に進めなくなってしまった。以下に述べることは、ベルクソン理解として妥当化どうかという問題を離れた自問自答である。
 何に引っかかったかというと、この言い方だと、私の生成には、非決定的な状態にある物質に一定の方向を与える能力があるかのように読めてしまうからだ。それ自体は非決定的なものたちをひとまとめにして一定の方向に向かわせることができるいわば指揮官のようなものが〈私〉なのだろうか。逆なのではないだろうか。ある一群の非決定的なものあるいは中立的なものがある一定の方向に動き出すとき、その一定の運動性とそれが成立する環境との間に差異が発生することで、いわば原〈私〉が生成しはじめるのではないだろうか。
 「物質も精神も重なりながら生成しつつある」とするのならば、原初的な物質と精神との差異(あるいは差異化)を考えるためには、すでに形が出来上がったものとしての身体を前提として考えるのではなく、上の段落で述べたように考えなくてはならないように私には思われるのだが。私たちの身体を最初から前提してしまうと、「手を挙げる」という動作は私の意志に拠るか拠らないかという偽問題の方にも引きずられかねないとも懸念される。
 探検は始まったばかりなのに、早くも遭難しかけている。