一昨日の記事で全文引用したパスカルの『パンセ』の断章には、パスカルがその断章を書く際に念頭に置いていたであろうと諸注釈書が指摘するモンテーニュの『エセー』の箇所がある。それは第一巻三章の冒頭である。
Ceux qui accusent les hommes d’aller toujours béant après les choses futures, et nous apprennent à nous saisir des biens présents, et nous rassoir en ceux-là, comme n’ayant aucune prise sur ce qui est à venir, voire assez moins que nous n’avons sur ce qui est passé, touchent la plus commune des humaines erreurs, s’ils osent appeler erreur chose à quoi nature même nous achemine, pour le service de la continuation de son ouvrage, nous imprimant, comme assez d’autres, cette imagination fausse, plus jalouse de notre action que de notre science. Nous ne sommes jamais chez nous, nous sommes toujours au-delà. La crainte, le désir, l’espérance nous élancent vers l’advenir, et nous dérobent le sentiment et la considération de ce qui est, pour nous amuser à ce qui sera, voire quand nous ne serons plus.
人間は、いつだって先のことばかり追い求めているではないかと批判して、未来のことは思いどおりにならないのだし、過ぎ去ったことよりも、つかみどころがないのだから、現在の幸福をしつかりつかんで、そこに腰をすえなくてはいけないと教える人々がいるけれど、彼らは、人間のあやまちのうちでもっともありふれたものに触れているのだ。まあそれは、自然そのものが、その仕事を続けていくのに役立つようにと、知識よりも行動のほうに執着するという、あのまちがった考え方をわれわれに刻みこんで、そうした道を進ませていかせるようなことを、あえてあやまりと呼ぶというならばの話である。われわれは自分のところになど絶対におさまってはいないで、いつでもその先に出ていくのだ。恐怖、欲望、希望といったものが、われわれを未来へと投げ出して、現在のことについての感覚や考察を奪いさり、将来、自分がもはやいない時分にはどうなっているのかとばかり考えさせて、時間をむだについやさせるのだ。(白水社版 宮下志朗訳 2005年)
『パンセ』には、『エセー』を念頭に置いて書かれた箇所が多々あるが、ここもその一つであることは確かだ。しかし、両者を比べて読むと、考え方が微妙に違っている、というか、かなり違う。パスカルを読んでいると、何かこちらが責められているように感じることがあるけれど、モンテーニュは、こちらの駄目なところも「まあそれもしかたがないね、人間ってそういうものだよ」と許してくれそうな気がする。上に引いた箇所を読んでも、自然が自然自身のために人間にそう仕向けていることを人間の「あやまりerreur」というはちょっと酷かもしれないね、と受け止めてくれそうな気がする。
西田幾多郎は「『モンテーニュ随想録』推薦の辞」(関根秀雄訳の初版が昭和十年に刊行されたときに寄せた推薦の辞)にこう書いている。
モンテーンは人を高めるものではない。パスカルはモンテーンの語は淫らだとすらいう。しかし彼は豊富な大きな人間性を有った人であった、いわゆる甘いも酸いも分った人であった。彼の前には私は何事も打ち明けて話すことのでき、それぞれに同情と教訓とを得ることのできた人であったように思う。
1970年刊行の関根秀雄訳が青空文庫で読めるから、そこからも同箇所を引用しておく。
人間が常に未来のものごとを追い求めるのを咎め、我々に「現世の幸福をしっかり捉えよ。そしてその中に安住せよ。我々には未来のことがらをとらえることはできないのだ。それは過ぎ去ったことがつかまえられない以上であるぞ」と教える人々は、いかにも人間の誤りの最も普通なものを衝いているが、きっとそういう人たちは、自然がその仕事を続けてゆくために我々に行わせることまでも、あえて誤りと呼びたいのであろう。自然は我々が知ることよりも活動することの方をいっそう熱望して、わざと我々の心の中に、他のいろいろな思想とともに、こういう誤った思想までも賦与してくれたのに。我々は決して我々の許にいない。常にそれを越えている。心配・欲望・期待は、我々を未来に向って追いやり、我々から現にあるところのものに対する感覚と考察とを奪って、やがてそれがなるであろうところのものに、いや我々がいなくなる後のことにまで、かかずらわせる。