内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「春におくれてひとり咲くらむ」― 人と花との相互浸透

2021-04-26 23:59:59 | 詩歌逍遥

 なんということもなく、手元の古語辞典をふと開いて読むことがある。たまたま開かれた頁に並んでいる語を順に読んでみることもあれば、現代日本語の中のごくごく普通の言葉をあえて引いてみたりする。その意味・用法が今日のそれらとは異なっている場合、それこそ高校の古文の授業のときからそのことはよく話題にされ、試験問題にも繰返しなってきたから、今更驚くような発見は少ないが、それでも、辞書を片手にそれらの語の意味の歴史的変遷を辿ってみるのは、あたかもガイドブックを手にしながら史跡を探訪し、遠い昔に思いを馳せるときのような楽しみがある。
 他方、万葉の時代から今日まで同じ或いはほぼ同じ意味で使われてきている言葉には、それはそれで深い感慨を覚えることがある。例えば、「ひとめ【人目】」。これは古代から今日までほぼ同じ意味で使われている。「人目を気にする」とか「人目がある」という意味での用法は万葉集にある。「ひとり【一人・独り】」もそう。「わが思ふ君はただ一人のみ」(万葉集・巻第十一・二三八二)はそのまま直に理解できる。「独り見つつや春日暮らさむ」(万葉集・巻第五・八一八)という副詞的用法もすんなりわかる。
 ただ、同じ副詞的用法でも、人以外について使う場合はどうであろうか。例えば、「あはれてふことをあまたにやらじとや春におくれてひとり咲くらむ」(古今和歌集・巻第三・夏歌・一三六。「すばらしいというほめことばを数多くのほかの花々にやるまいと思って、(この桜は)春が過ぎた後に一つだけ咲いているのだろうか」〔角川『全訳古語辞典』の訳〕)という歌の意を解するのに困難を覚えることはないが、同じような「ひとり」の使い方を今日でもするであろうか。
 『新明解国語辞典』(第八版 二〇二〇年)は、副詞としての用法を「他と切り離して、その人(もの)自身だけに限定してとらえる様子」と説明し、「ひとり日本だけの問題ではない」という例文を挙げているから、ものについても「ひとり」を使うことは今日でも通用すると見てよい。しかし、私自身はどうかというと、あえて擬人法を用いる場合を除いて、ものについては「ひとり」を使うことはない。
 上掲の古今集の歌に関して言えば、(桜の)花という生きものの有り様を人の心理になぞらえて捉えているようでもあり、あるいは、そもそも花を見る人の心とひとり花咲く桜の形姿とが相互に浸透し合っているようにも読める。