修士一年の後期の演習「近現代思想史」で三木清の『人生論ノート』を読んでいることは、すでに何度かこのブログでも話題にした。
七日の演習では「習慣について」を読んだ。演習に先立って、九名の履修学生たちには全文の仏訳を提出させる。それらを私が段落毎に切り分けて順に並べ、同じ段落の訳を連続して比較できるように編集する。それをパワーポイントでスライド化して授業で使う。こうしておくことで、学生たちは相互に自分以外の訳と自分の訳とを比較できる。語彙・構文の選択等でどれが妥当でどれがそうでないか一目瞭然になる。授業中に自分で訳の間違いに気づいたときにはすぐにその場で訂正できるようにパワーポイントを共有ドキュメントにしてある。
一般読者向けのエッセイとしては内容的には難解なところもあるが、構文的には三木の文章はとてもフランス語にしやすい。だから、構文レベルで学生たちが間違えることはほとんどない。おかげで、すぐに内容理解に入っていける。しかも、仏訳作業の過程で学生たちがすでに十分に内容を理解できていると判断できる箇所は飛ばすので、一回二時間の演習で一つのエッセイを読み終えることは無理ではない。
ところが、今回はそうはいかなかった。新潮文庫版でわずか八頁のエッセイの三頁しか読めなかった。それはもっぱら私の側に原因があった。習慣論は、博論以前からの私の研究テーマの一つで、今でも強い関心を持ち続けている。だから、三木のエッセイの通り一遍の読解で済ますわけにはいかなかったのである。三木のエッセイの注釈という名目で、アリストテレス、トマス・アクィナス、メーン・ド・ビラン、ラヴェッソンなどの習慣論(ラヴェッソンの習慣論については、2013年6月4日とその翌日の記事を参照されたし)を紹介したり、三木が言及している「模倣」がギリシア語の「ミメーシス」やラテン語の「イミタチオ」とはどう違うのかという問題に入り込んだりしたものだから、これではいくら時間があっても足りない。
加之、「習慣は技術である」という三木のテーゼはどういうことを意味しているのか、三木の技術論を参照しつつ学生たちと議論したのだから、本文の読解が前に進むわけがない。しかし、問題の探求は、いわば螺旋状に深化、拡張されていく。「習慣」「模倣」「技術」など、日常言語としても普通に使用されるこれらの語の背景にどれだけの哲学史的奥行きがあるのか、それを探りながら読んでいけば、自ずと相互に連関する参照項目は増殖し、参考文献は増大の一途である。
これもまた、昨日の記事で言及した「網状参照増殖」的読書法の一適用例である。不亦説乎。