まったく思いもかけないときに、不意を突くように、自分が過去にしでかしたある失態あるいは失言が鮮明に蘇ってきて、それに一時苛まれ、いたたまれない気持ちになるということが私にはかなりの頻度で起こります。
これもフラッシュバックと呼んでいいのかどうかわかりませんが、その失態や失言の多くは実に取るに足らないことで、しかも何十年も前のことで、その時その場に居合わせた人たちはおそらくもうまったくそれらのことを欠片も覚えてもいないだろうとわかっているのに、恥ずかしいやら情けないやら今またあらためて苦しまされる一方、なんで過去のそんな些細なことが今蘇ってくるのだろうと、自分で自分が恨めしくなります。
少し冷静になって、どういう精神状態のときにこの現象が発生しやすいか、あるいはどういう状態のときには発生しなかったか考えてみると、現在の心に隙あるいは空虚感あるいは虚脱感があるときに発生しやすく、幸福感に満たされているか、そこまでいかなくても現在に充実感を感じているときには、まったく、あるいはほとんど発生していないことがわかります。つまり、現在に隙ができるときを過去は常につけ狙っていて、隙ありと見るや、思い出したくもないことを瞬時に再生させて、現在の私を苦しめ続けるのです。
最近このフラッシュバック現象が特に頻繁に起こるのは、それだけ現在の私が空虚だからなのでしょう。それを否定することが私にはできません。それに過去にそれだけ失言と失態の数々を繰り返してきたから、現在の私を弄る「ネタ」には困らないということもあるのでしょう。それらのことを自ら積極的覚えておこうとしたことはただの一度もありませんから、それら諸々の「望まれない」記憶は、私の意志の制御を遥かに超えた貯蔵庫のようなところに常時保存され、たとえどんなに過去のことでも「生きた」状態で管理されており、いつでも現在に瞬時に送り込むことができるようになっているようです。
見たくもない連日の夢といい、頻繁に繰り返されるこれらのフラッシュバック現象といい、自分でそうありたい「私」、まあ認めてやってもいいかと自分で許せる「私」は、実は私というもののごく一部でしかなく、「私」の言うことなどそもそも聞いてはくれない計り知れない何かもっと広大で深い海のようなものの上にこの「私」は頼りなく心細く漂っているだけで、やがてその海の藻屑と消えてしまうのでしょう。
そう思うと、少しだけですが、救われたような気になります。