内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「明日を考えなければ、人間はみじめさのあまり今日にも死んでしまうであろう」― アンチ・パスカリアンとしてのヴォルテール

2021-04-21 14:34:07 | 哲学

 ヴォルテールは『哲学書間』第25信「パスカル氏の『パンセ』について」第22節で、拙ブログの4月18日の記事で全文引用した断章の第二段落だけを引用した上で(邦訳でいえば、その最後の二文をカットしている)、そこに示されたパスカルの考えを次のようにこきおろしている。

 造物主がわれわれにあたえてくれた本能は、われわれをたえず未来へと向かわせる。われわれはそのことに不平を言うのではなく。それに感謝しなければならない。人間のもっとも貴重な宝は、この希望だ。希望はわれわれの悲しみをやわらげ、現在のつかのまの喜びのうちに、未来のたしかな喜びを描いてみせる。
 もしも人間が不幸にも、現在のことにのみ心がとらわれているならば、種もまかず、家も建てず、木も植えず、何の備えもしないだろう。この現在のいつわりの享楽のなかで、すべてが欠乏するだろう。パスカル氏ほどの知性が、そんな凡庸な誤った考えに陥ることがありえただろうか。
 自然がきちんと定めている。人間は誰もが、おいしく食事をし、子どもをつくり、心地よい音楽を聴き、自分の考える力や感じる力を十分に使って、現在を楽しめるよう、自然が定めてくれた。また、人間は誰もが、現在の状態を脱しながら、あるいは現在の状態のままであっても、明日のことを考えるであろう。明日を考えなければ、人間はみじめさのあまり今日にも死んでしまうであろう。(光文社古典新訳文庫版 斎藤悦則訳 2017年)

 Il faut, bien loin de se plaindre, remercier l’auteur de la nature de ce qu’il nous donne cet instinct qui nous emporte sans cesse vers l’avenir. Le trésor le plus précieux de l’homme est cette espérance qui nous adoucit nos chagrins, et qui nous peint des plaisirs futurs dans la possession des plaisirs présents. 
 Si les hommes étaient assez malheureux pour ne s’occuper que du présent, on ne sèmerait point, on ne bâtirait point, on ne planterait point, on ne pourvoirait à rien : on manquerait de tout au milieu de cette fausse jouissance. Un esprit comme M. Pascal pouvait-il donner dans un lieu commun aussi faux que celui-là ?
 La nature a établi que chaque homme jouirait du présent en se nourrissant, en faisant des enfants, en écoutant des sons agréables, en occupant sa faculté de penser et de sentir, et qu’en sortant de ces états, souvent au milieu de ces états même, il penserait au lendemain, sans quoi il périrait de misère.


 まことに健康な考え方であると思う。明快かつ健全すぎでつまらないくらいだ。しかし、パスカル批判としてはどうであろう。現在をより良く、楽しく生きるために明日のことを考えることまでパスカルは否定しているであろうか。明日を考えることが現在を良く生きることを妨げ、現在を不幸にしているかぎりにおいて、未来を目的とした生き方を批判しているのだとすれば、ヴォルテールのパスカル批判は妥当だとは言えない。それに、現在か未来かという選択がほんとうの問題なのではないだろう。現在をより良くより豊かに生きるための未来と過去との関係こそが問題なのではないだろうか。
 これって、ちょっと欲張りな考え方かな?