内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

角川ソフィア文庫の近刊から(六)― ロバート・キャンベル編著『日本古典と感染症』

2021-04-09 00:00:00 | 読游摘録

 本書は今回角川ソフィア文庫近刊として紹介した六冊の中でただ一冊の本当の新刊である。しかも、日本文学の長い歴史を感染症から捉え直すことを目的とした本書の企画・出版のきっかけとなったのは、昨年四月にキャンベル氏が YouTube で公開した動画だったという経緯が「あとがき」に以下のように記されている。

 日本文学の長い歴史を感染症から捉え直すきっかけは、二〇二〇年四月下旬、緊急事態宣言の下で国文学研究資料館(国文研)が在宅勤務に切り替わり、閲覧室も展示室も閉鎖した中、がらんとした総合研究棟の地下にある書庫へ潜って日本語と英語の二本の動画を作り、国文研のYouTubeチャンネルから配信したことでした。日本語版「日本古典と感染症」を配信したその日の内に視聴してくださったKADOKAWA編集者の麻田江里子さんから、同日の夜に企画書が届き吃驚しました。動画で語ろうとしたことを、優れた研究者と共に日本文学の長いスパンから考え、表現するというありがたいご依頼でした。

 それからわずか一年足らずで、日本文学研究の各分野の第一線で活躍されている十四人の研究者の方々がそれぞれ寄せられた論考とキャンベル氏自身による巻頭文「感染症で繋げる日本文学の歴史」とからなるきわめて斬新で内容豊かな本書が出版された。それぞれの分野と時代に関する研究の蓄積と執筆者たちの深い学殖が可能にした注目すべき成果だと思う。
巻頭文の中でキャンベル氏は以下のように本書の意図を明快に示している。

 二〇二〇年から世界を震撼させ、日本の社会にも大きな混乱と哀しみをもたらした新型コロナウイルス感染症を俟つまでもなく、有史以来、発生と変異を繰り返し人類とともに進化してきた病原が文学の歴史を振り返るのに有効な視点を与えてくれるに違いありません。「感染症」は、時代やジャンル、作家、主題などを超えたかたちで日本列島の文学にどのような契機を与えたのか。作品の中で、立ち現れる無数の人々の言葉と心の上に、感染症はどのような影を落としていったのか。ある時代、ある表現の間に、ほのかな光をも照らしているのかもしれない。その兆しは、どこを見れば目で確かめることができるのか。
 この一冊は、『万葉集』から夏目漱石が書き残した作品までをなるべく等距離に置き、流行り病という影の下に生成した言葉の記録に刻まれた社会行動と人の心を具体的に検証することで、過去の大切な証言が「今」を生きるわたくしたちの耳にも目にも届くことをめざして書かれたものです。かつて生きていた人々の経験と感性に寄り添い、読者それぞれの立場から見える眺望の中に位置づけ、カにしていけることをわたくしたち執筆者一同が願っているところです。

 興味深い箇所をさらに二箇所巻頭文から引用したい。

「三密回避」は元々、日本人の暮らしの中にありました。「密閉していないこと」自体が、日本建築の基本です。土間と座敷を分け、座敷では土足を禁じ、便所を母屋から離して設ける。食事に一人用のお膳を使ったり、箸を分けたりする習慣も、「密接」を避ける知恵といえます。気候が多湿で菌が繁殖しやすく、時に命を脅かすことを考えれば、人との距離や物の扱い方に神経質にならざるを得ない。これは日本の中に深く根差した感覚です。

 私たち現代人が向き合う新型コロナウイルス感染症の流行は、その最中にあってはいつ収まるかはわかりません。現代の疫学はウイルスの撲滅を目指しますが、全てを抑え込むことは困難であり、必然的に「ウィズ」を生きなければならない。江戸時代以前の日本にはそのヒントがたくさんあるし、それはいまも一部において生きています。目には見えないが共有すべき文化資源は、日本社会の歴史に多々あって、見直されてよいように思います。

 そして巻頭文は次の一文によって締め括られている。

生をむしばむ影に一条の光を見出す読者が一人でも多くページをめくって下されば幸いです。

 現在私たちが世界中いたるところで置かれている終わりの見えない危機的な状況の中で見事な手際で実現されたこの出色の一書は、日本の古代から近代までの古典のそれぞれの〈今〉の困難と私たちの〈今〉の困難とを文学作品を通じて繋ぐことで、私たちが今生きつつある世界をより深い眼差しで見直すことへと私たちを誘い、現在をよりよく生きるための希望と智慧を与えてくれる。