明治初期の人たちにとって individual という概念の理解が容易ではなかったことは柳父章『翻訳語成立事情』の第二章に詳しく述べられている。今日私たちは「個人」という言葉を、ほとんどなんの疑問もなく individual の訳語として、あるいは社会を構成する最小かつ基礎的な単位を示す自明な概念として流通しているかのごとくに取り扱って怪しむところがない。
しかし、「個人」という言葉が日本語に定着するまでには曲折があり、それは「社会」という言葉の定着にも時間を要したことと即応している。欧米において個人と社会は相互規定的な関係にあったのだから、両者はそのようなものとして訳されなければならなかった。ところが、当時、〈社会〉が「なかった」日本には〈個人〉も「いなかった」のだから、Society の訳に難儀した当時の啓蒙思想家たちが Individual の訳にも困難を覚えたのは当然のことだった。
柳父章によれば、「個人」の出どころは、幕末にすでに出回っていた各種の英華字典にあった。それらの中に「一個人」とか「独一個人」などの訳語が見られる。しかし、そこから今日の「個人」がまっすぐに出てきたわけではないことは『翻訳語成立事情』を読むとよくわかる。
一昨日と昨日の記事で言及した五冊の漢和辞典で「個」を引き比べみて、やはり興味深いことがわかった。より正確に言うと、「個」という漢字に対する扱いがどの辞書もそっけないことにちょっと驚いた。「個」と他の漢字一つで構成される二字漢語の例も乏しい。
『漢字源』には、驚いたことに、一つも二字漢語が挙げられていない。意味の説明として、「①固形を数えることば。」「②一つずつ別になった物。」とあり、この②の説明の後に「個人」と添えられているだけである。それに対して解字はかなり詳しい。しかし、要するに、「個」はもと「箇」と書き、その基本義は、物を数えるときの助数詞であり、そこに旁の「固」が示す「かたい」の意が加わるということで、「個」という漢字がそれ以外にさして重要な意味を持っていないことがわかるだけである。
『新字源』では、意味を三つに分けている。第一の意味は助数詞。第二は、「全体に対して、ひとつ、ひとりの意。」とあり、その下に「個人」と添えられているのは『漢字源』と同様である。第三の意味は、「強意を表す助字」で、「真個」が例としてあげられている。これは「まこであること」「事実であること」を強調するための用法であり、「個」自体に自立した意味があるわけではない。二字熟語として五つ挙げてあり、その一つが「個体(體)」である。その意味として、「①ひとつひとつ独立して存在するもの。②個人。」とある。「個人」を二字漢語として挙げていない点では『漢字源』と同じである。
『漢辞海』の「個」の扱いもまことにそっけない。語義として、形容詞的用法を「ひとつの。ひとりの。」とし、その下に「個人」を例としてあげているが、二字漢語としては立てられていない。つまり、「個」は、英語の individual や仏語の individu のような実体概念(と見るかどうかの哲学的議論にはここでは立ち入らない)ではなく、あるものの状態を示しているに過ぎない。二字漢語の例として立てられているのは、「個性」「個体(體)」「個別」の三語のみである。そして、そのいずれにも略記号「国」「 現中」が付されており、前者は「日本語特有の意味。あるいは和製の漢語」、後者は「日本から中国への移出語」のことである。つまり、「個」を冠した二字漢語で、中規模の漢和辞典に収録するに値するほど重要な意味を本来もつ語は中国語にはないということである。
『新漢語林』には四つの二字漢語の一つとして「個人」が挙げられている。その他の三語は「個性」「個体(體)」「個別」であり、これら三語には略記号として「国」が付されている。やはり「日本語特有の意味及び和製漢語」ということである。しかし「個人」には付されていない。意味は「ひとり。社会、または公衆に対して一人をいう。」とされている。ということは、この意味で、少なくとも現代中国では、通用するということであろうか。
最後に『新明解現代漢和辞典』を見てみよう。意味の説明は僅か三行で他の辞書と大同小異であるが、二字漢語の例示は八語ともっとも多い。順に「個個」「個室」「個人」「個性」「個体」「個展」「個物」「個別」である。ただし、最初の「個個」以外にはすべて略記号「日」が付されている。「日本で作られた熟語や日本特有の意味をもつ熟語」ということである。それら各語の説明も五冊の中で断然詳しい。これは、『新明解』が日本における意味・用法の広がりに重きを置くという編集方針から来ている。
その『新明解』の「個人」の説明を見てみよう。「①国家や社会を構成しているひとりひとりの人。②地位や身分などの立場を離れた、ひとりの人間。例 ―の意見は差し控える。」近代国家あるいは近代市民社会における「個人」の規定に忠実な説明になっている。
これらの引き比べを通じてわかることは、「個」という漢字は、漢字文化圏において、もともとそれほど重要な価値を表現してはおらず、「個人」という言葉が今日日本語としてかくも一般化していることは、存在としての〈個〉が欧米社会のように確立していることを直ちに意味するものではないこと、「個性」「個体」「個物」などの和製漢語が、主に自然科学・人文科学における術語として、日本から現代中国に移出されているという事実は、現代中国において「個人」が individual として認められていることを少しも意味しないということである。