内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「存在するただ一つの時」― パスカル『パンセ』より

2021-04-18 23:59:59 | 哲学

 昨日の記事は、ここのところの気分を反映して、何とも情けない内容だった。少し気を取り直して、過去・現在・未来についての哲学者たちの言葉に耳を傾けてみることにした。
 時間についての哲学的考察は、古今東西それこそ枚挙にいとまがないが、今自分が向っている机と座っている椅子から動かずに手の届くところにあるパスカルの『パンセ』の一断章を少し長いが全文引くことから始めよう。断章番号はブランシュヴィック版で172、ラフュマ版47、セリエ版80である。

 われわれは決して、現在の時に安住していない。われわれは未来を、それがくるのがおそすぎるかのように、その流れを早めるかのように、前から待ちわびている。あるいはまた、過去を、それが早く行きすぎるので、とどめようとして、呼び返している。これは実に無分別なことであって、われわれは、自分のものでない前後の時のなかをさまよい、われわれのものであるただ一つの時について少しも考えないのである。これはまた実にむなしいことであって、われわれは何ものでもない前後の時のことを考え、存在するただ一つの時を考えないで逃がしているのである。というわけは、現在というものは、普通、われわれを傷つけるからである。それがわれわれを悲しませるので、われわれは、それをわれわれの目から隠すのである。そして、もしそれが楽しいものなら、われわれはそれが逃げるのを見て残念がる。われわれは、現在を未来によって支えようと努め、われわれが到達するかどうかについては何の保証もない時のために、われわれの力の及ばない物事を按配しようと思うのである。
 おのおの自分の考えを検討してみるがいい。そうすれば、自分の考えがすべて過去と未来とによって占められているのを見いだすであろう。われわれは、現在についてはほとんど考えない。そして、もし考えたとしても、それは未来を処理するための光をそこから得ようとするためだけである。現在は決してわれわれの目的ではない。過去と現在とは、われわれの手段であり、ただ未来だけがわれわれの目的である。このようにしてわれわれは、決して現在を生きているのではなく、将来生きることを希望しているのである。そして、われわれは幸福になる準備ばかりいつまでもしているので、現に幸福になることなどできなくなるのも、いたしかたがないわけである。

 確かに、「現在というものは、普通、われわれを傷つける」(« le présent d’ordinaire nous blesse. »)というところに私は同意せざるを得ない。さらに、行き過ぎたはずの過去も私を苛み続けるとつけ加えなくてはならない。他方、「ただ未来だけがわれわれの目的である」(« le seul avenir est notre fin. »)というところに対しては、では、その未来に何の希望も抱けない、したがって未来が目的にはなりえない場合はどうなるのかと反問したくなる。
 過去に戻ることも過去を引き留めることもできず、到達する保証のない未来に希望を託すこともできない以上、現在を、「われわれのものであるただ一つの時」(« le seul qui nous appartient »)を、「存在するただ一つの時」(« le seul qui subsiste »)を、それ自体は幸でも不幸でもないものとして、そのまま受け入れ、生きていくしかないのであろうか。