内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

私撰万葉秀歌(2) 世間空虚 ― いよよますます悲しかりけり

2014-01-11 02:28:00 | 詩歌逍遥

世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり

 萬葉集巻五冒頭の雑歌(七九三)であるこの大伴旅人の歌は、古来よく知られた万葉歌の一つである。
 原文は一字一音の万葉仮名で表記されているので、訓みにまぎれ無し。「いよよ」は「いよいよ」の古形で、万葉集の歌のみに見られる形。「けり」は「気づき」を表わす。岩波文庫の新版『万葉集』は、「世間は空(くう)であると真に分かった時、いよいよますます悲しい思いがするのでした」と訳し、角川文庫の伊藤博訳は「世の中とは空しいものだと思い知るにつけ、さらにいっそう深い悲しみがこみあげてきてしまうのです」となっている。両訳の違いは、前者が「牟奈之伎母乃(むなしきもの)」を仏教語「空」に置き換えているのに対し、後者が「空しいもの」とそのまま現代語に置き換えていることである。前者のほうが作歌の背景となっている旅人の仏教的知識をより明瞭に訳中に打ち出そうとしていると言うことができる。そのことは「真に分かった時」という受け方にも現われている。後者は、それに対して、これらの含意を脚注で、「上二句は「世間空」の翻案」、「知る」は「思想的に思い知る意」と説明している。
 いずれにしても、この歌の第ニ句における「空しき」とは、単に移ろいやすい感情や漠然とした気分のことではなく、「空しきものと知る」も、単に出来事によってそう思い知らされたということには尽きないであろう。この上三句は、この世の中の一切を「空」と観じるところまで心が到達したことを強意の副助詞「し」によって強調しており、その「時」こそ、悲しみがますます深まる、と下二句がそれを受けている。しかし、それだけではない。気づきの「けり」で結ばれていることからわかるように、「悲しみ」それ自らがより深いところからこみあげてきてしまうのをどうすることもできないことに気づかされているのだ。私はこれを「空」観を通じての「悲しみ」の純化と呼びたい。「空」と見切られた「世の中」に悲しみをまぎらわせてくれる慰めはもはやない。その時、「悲しみ」そのものの自己触発がそれとして気づかれる。西田幾多郎が「哲學の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」と言うとき、同じ事柄に触れていると私は考える。







世間之愚人 ― 浦島伝説より

2014-01-10 00:51:54 | 読游摘録

 佐竹昭広の『萬葉集再読』(平凡社、2003年)に、「「無常」について」と題された論文があり、そのはじめの方に、萬葉集巻九・一七四〇、「浦島』伝説を回顧した高橋虫麻呂の長歌が引かれている。その長歌の中に「世間之愚人」という表現が出てくる。「ヨノナカノオロカビト」と訓む。この歌の作者である虫麻呂が浦の島子(ウラノシマコ)を批判してこう呼んでいて、「この世の中で最も愚かな者」を意味する。この歌の表現や表記は漢籍の素養を反映しているとする先行研究に言及した上で、佐竹昭広は、この「世間之愚人」は、漢籍というより、漢訳仏典に負っている可能性が少なくないと言う。そして、この表現を仏教語として把握する観点から、この歌を神仙思想のコンテクストの上に、仏教思想のコンテクストを重ね合わせて読み直そうとする。

「不老不死」「常世」の国には時間というものが無い。「有為」の世界とは反対に、そこは永遠に「常住」。「常住」は「無常」の反対語。「有為無常」と言い、「世間無常」と言う。「世間愚人」の世界は呵責なき「無常」の世界であった。浦島子は、その意味で「世間愚人」であった。あくまで「俗愚の人」に過ぎなかった(69頁)

 漢語「無常」を和語に読み直せば「常無し」となる。形容詞「はかなし」は萬葉集に用例皆無、次の時代まで待たねばならないのに対して、この「常無し」は用例多数。例えば、大伴家持の「世間無常を悲しぶる歌」との題詞を持った歌(巻十九・四一六〇)は、「天地の 遠き初めよ 世間は 常無きものと 語り継ぎ」と始まる。
 世の中の常無きことは、萬葉以後無数の歌に詠まれる。歌に訓むことで世間無常をそれとして観じ、世間の俗愚を離れることもできようか。しかし、歌も詠まず、仏道にも入らぬこの我は、ただただ「俗愚の人」として世間に留まる。







生へのはじめの一歩 ― 幻想の「山里」か現実の「憂き世」か

2014-01-09 06:36:36 | 雑感

 今日(8日)、午前7時にアンリ四世校裏のプール Jean Taris に行く。40分ほど泳いで切り上げる。その後は午後4時過ぎまで講義の準備に集中。
 講義そのものはほぼ予定通りに進めることができた。大森荘蔵の最後の文章「自分に出会う ― 意識こそ人と世界を隔てる元凶」の全文を段落ごとに仏訳しながら、適宜コメントを加えて行った。その過程で大森哲学の問題点を突いたとてもいい質問が三つ、それぞれ別々の学生から出た。訳読に引続き、今年度取り上げた十人の哲学者・思想家について、それぞれの鍵概念を示して、重要な論点を一つに絞ってまとめようとした。ここは急ぎ過ぎた。あまりにも図式的だった。しかし先を急がねばならない。十人のうちの少なくとも三人について共通して提起されうる問いを七つ例として挙げる。最後に試験内容についての説明と試験勉強のためのアドヴァイス。ちょうど二時間。これで今年度の「同時代思想」の講義は終了。熱心な学生たちのおかげで、とりわけ彼らの要処を突いた質問によって助けられながら、最後まで緊張感を保って終えることができた。彼らに心からの感謝を捧げる。
 午前中、その講義の準備のために『家永三郎集』第一巻第一論文「日本思想史に於ける否定の論理の発達」の中の講義で取り上げた箇所をあちこち読み直していたとき、ふと手が滑って第二論文「日本思想史における宗教的自然観の展開」の第十二節の冒頭の頁に飛んでしまった。すると、その頁の次の一節が、向こうからこちらの目に飛び込んできたかのように、私の注意を引いた。

 山里は、既に詳述した通り人間から遮断せられた世界たることを第一の条件とし、それ故に人間の痛苦から脱却することが出来たのであつたが、そのことは亦裏から云ふならば懐しい一族友人から隔離せられた寂寥の世界をも意味するのである。憂きことしげき世の中に在ることもつらいが、孤独と寂寥との一層つらいことは、流罪が死罪に次ぐ重い刑罰とされてゐた事実からも容易に類推されよう。山里に入ることは自らこの刑罰を身に負ふことに外ならぬ。だから「山に入るとて」は、「神無月しぐればかりを身にそへて知らぬ山路に入るぞ悲しき」(後撰集冬増基法師)と云ふ感懐の漏れるのも無理は無かつた。入る時からして既に悲しい山里はさてどんな所であつたか。それは何よりも先づ語らふ人無き寂しさにみたされた天地であつた(117頁)。

 このまったく予期せぬ「邂逅」によって、、心の痛みとともに自分の現在の境遇について考えさせられた。中世の遁世僧や遁世歌人たちの歌に詠まれたような境涯に自分の現在の惨めとしかいいようのない哀れな散文的境遇を准えようなどと烏滸がましいことを考えたのではない。山里とは縁もゆかりもない都市の代表のようなパリの只中に暮らしているのに、自分の暮らしは、その否定的側面において、むしろ山里の暮らしに近いのではないかと気づかされたのである。私にとって、パリに住まうということは、多民族が入り乱れる国際都市で人々と交わって生きることでもなく、華やかな花の都の美を享受することでもなく、幻想の「山里」に独り、語らう人もなく、寂しく生きること以外の何ものでもないのではないか、と思ったのである。
 今から八年前、現在の大学のポストが決まり、夜はほとんど人気のない大学の宿泊施設に滞在しながらアパルトマン探しをしているとき、夜独りベッドに横たわり天井を見つめていると、自ら流罪の刑罰を負ったかのような気持ちになったことを思い出す。本当の山里暮らしの孤独と寂寥は、もちろん別様であろう。しかし、語らう人もないという意味では、人間から遮断された世界に生きているのと変わりなく、今の私の暮らしは「山里」の侘び住まいにほかならない。
 もし私がこれからも生きたいと思うのであれば、この「山里」暮らしをそれとして受け入れて続けていくか、憂きことしげき世に立ち戻るか、いずれにせよ、自覚的に選択しなくてはならない。今日その選択のための最初の一つの決断を人に伝えた。








世間難住 ― この憂き世に彷徨いつつ

2014-01-08 03:03:03 | 雑感

 この記事のタイトルは、萬葉集巻五・八〇四の山上憶良の「哀世間難住歌」から取った。白川静は『後期万葉論』(1995年)で、この題を「せけんなんじゅうをかなしぶるうた」と訓んでいるが、伊藤博は「せけんのとどみかたきことをかなしぶるうた」(『新版万葉集』2009年)、岩波文庫新版『万葉集』(2013年)では「せけんのとどまりがたきをかなしみしうた」と訓じている。いずれにせよ、この世の無常・移ろいやすきを嘆き悲しんだ歌ということである。序に導かれた長歌の冒頭四句のみ引く。「世の中の すべなきものは 年月は 流るるごとし」
 このアパルトマンに暮らすのも残り半年を切った。年末年始の不在中に届いていた郵便物の中に、このアパルトマンを売りたい大家さんからの正式な立退き請求があった。期限は六月末。すでに昨年中に大家さんの口から直接聞いていたこととはいえ、アパルトマン探しの困難を思うと本当に憂鬱になってしまう。様々な事情で、今すぐには新しい住居を探し始めることもできない。住んでいる場所に落ち着いていられないというのは、それだけで精神を不安定にする。
 気分を切り替えようと、今日(7日)午後プールに出かける。セーヌ川に浮かぶJoséphine Baker。年末日本で4回プールに行くことができたが、最後に行ったのが12月28日だったから、十日振り。こんなに間があいてしまったのは、昨年7月末から8月はじめにかけて以来のこと。午後になって気温も上がり、晴れ間も広がったせいだろうか、どちらかというと混んでいて、あまり快適には泳げず、一時間弱で上がる。それでも体を動かしたことで気分は少し前向きになる。
 今できることは、あちらこちらから否応なしにのしかかってくる精神的・物質的重圧に辛うじて耐えつつ、一日一日、目の前の仕事に集中することだけ。今日と明日はイナルコの講義「同時代思想」最終回の準備に集中しよう。







無事帰国 ― 冬の暗いパリに戻る

2014-01-07 18:46:00 | 雑感

 今朝6時過ぎにシャルル・ド・ゴール空港に到着。機内は満席だったが、日本時間で午前零時半発なので、ほとんどの乗客は最初の簡単な飲み物と軽食のサービスが終わると寝てしまう。私もそうだった。今回の滞在中、心身ともに思っていた以上に疲れていたということもあったのだろう、サービス後すぐに睡魔に襲われた。時々目は覚ましたものの、計6時間くらい寝た。空港からはいつものようにRERのB線に乗る。途中駅で事故があり、20分ほど電車の到着が遅れるとのアナウンスがホームに流れたが、実際は十分ほど待っただけで電車が来た。
 空港第二ターミナルは始発駅だから、まず間違いなく座れるのだが、旧型車両だと車内に特に荷物置き場がないので、混んでくると大きなスーツケースなど他の乗客の邪魔になる。空港からは当然旅行客が大きな荷物を持って乗ってくる路線なのに、そのための配慮が旧型車両には一切なく、しかもこれでよく先進国面ができるものだと言いたいほど車両内外ともに汚い。ビニール製の安物シートなどいたるところで裂けている。清潔そのものの日本の電車に慣れた日本人観光客など、「花の都」へと乗客を運ぶ電車がこの様かとショックを受けてしまってもおかしくないほどである。ただ、幸いなことに、ニ、三年前から段階的に導入されている新型車両は、とにかくまだ新しいから綺麗だし、シートもフェルト地、デザインも悪くない。それに荷物置き場がかなり広く確保されている車両もあり、快適性は格段に増した。だから、この新型車両に「当たる」とちょっと嬉しい。今日は残念ながら「はずれ」。
 夏の帰国時の記事でも触れたが、RERのB線は空港からパリ市内に入るまでの間に、パリ郊外で最も治安の悪い地区を通過する。今日私が乗ったのは、週日の通勤時間であり、しかも電車の遅れがあったから、途中駅からの乗客はおそらく普段以上に多かっただろう。日本の通勤ラッシュに比べればたいした混みようではなかったが、何かフランス社会の暗部を目の当たりにするような暗い顔が犇めいていた。電車はパリ北駅までは一部区間を除いて地上を走っているが、まだ日の出前だったこともあり、まるで出口のない暗いトンネルの中を進んでいるような印象にとらわれてしまった。多くの乗客は北駅とシャトレー・レ・アール駅で降りてしまうし、そこから乗ってくる乗客たちの顔はすでに違う。これは何の予備知識なしに乗降客を見ているだけでわかることである。
 シャトレー・レ・アール駅から四つ目のダンフェール・ロシュロー駅で下車。もう夜も明けている。いつものように、本が一杯詰まった重い小スーツケースと衣類その他の軽いものを詰めた大きなスーツケースを、駅に向かう通勤客とは反対の方角にゴロゴロと押しながら、長い坂を下る。途中二度ほどバランスを崩して転けそうになりながらも、無事自宅に帰り着いた。
 機内でよく寝られたせいか、疲れも感じない。直ちに二つのスーツケースの中身を全部出し、衣類等しまう場所の決まっているものは全部元の場所に戻し、一時間ほどで片付け終了。机の上に積み上げられた今回持ってきた本を目の前にしながら、この記事を書いている。今午前10時45分。昼までは少し休憩して、午後からは普段通りのパリ生活に戻る。







冬の日本滞在最終日に思う

2014-01-06 17:42:52 | 雑感

 今夜の羽田発の便でパリに戻る。正確には、7日午前一時半出発で、同日の午前6時20分シャルル・ド・ゴール空港着予定。予定通りならば、8時前後には自宅に着けるだろう。東京の実家でちょっとだけ正月気分を味わえたが、滞在中は常に大きな気がかりがあり、心が休まるということはなかった。フランスに戻れば、正月気分などそもそもなく、いきなり仕事モードである。帰国の翌日8日水曜日は、イナルコの講義「同時代思想」の最終回。前回読み残した大森荘蔵の最後の文章を読んでから、講義全体を振り返りつつまとめを述べる。その準備を東京にいる間に済ませておきたかったが、そのような落ち着いた時間を持つことはできなかったので、帰仏したその日と講義当日に準備する。8日は、午後5時半からのイナルコの講義だけで、本務校には行かなくていいから、時間的には十分な余裕がある。24日の試験の内容について説明して講義を終える。その翌日の9日木曜日は午前中本務校で試験監督。
 今年も、胸躍るような希望などありえず、暗澹とした絶望感に襲われがちなのは、去年と変わらない。しかし、一つだけ確かなことは、私にとって大きな決断を下さなくてはならない年になるということである。そのための準備の第一歩を、今晩機内で踏み出す。







古いテキストを新しく読む ― 井筒俊彦最後の著作について

2014-01-05 23:44:10 | 読游摘録

 井筒俊彦最後の著作は、その逝去の二月後1993年3月に刊行された。メイン・タイトルは『意識の形而上学』であるが、それは「東洋哲学覚書」と冠され、「『大乗起信論』の哲学」を副題とする。このタイトルに見られる三層構造が、井筒俊彦の全体的企図とその具体的出発点をよく示している。中公文庫版で本文わずか150頁足らずのこの見かけは慎ましい小著は、「東洋哲学の共時論的構造化」を共通テーマとして、唯識哲学、華厳哲学、天台哲学と続き、さらにイスラム哲学、プラトニズム、老荘思想、儒教、真言哲学と展開されていくはずの壮大な計画の最初の礎石なのである。
 今朝届いたばかりなので、まだ拾い読みしただけでの印象に過ぎないが、同書のちょうど十年前に刊行された『意識と本質』と比べて、その表現の平明・簡潔さにおいて際立っている。井筒俊彦が至ついたであろう澄明な境地を反映してのことであろうか。もちろんそれは内容が一読で理解できるような平易なものであるということを意味しない。そのまっとうな理解を望む者に充分な知識的準備と読解に際しての高い精神的集中力を要求するだろう。それはそれとして、世界的に最高度の水準に達した碩学がその最晩年にあたらに自らに課した目標は、次のように簡明で決然としていて、かつ謙虚であった。

 東洋哲学全体に通底する共時論的構造の把握 ― それが現代に生きる我々にとって、どんな意味をもつものであるか、ということについては、私は過去二十年に亙って、機会あるごとに繰り返してきたので、ここでは多くを語らない。要は、古いテキストを新しく読むということだ。「読む」、新しく読む、読みなおす。古いテキストを古いテキストとしてではなく……。
 貴重な文化的遺産として我々に伝えられてきた伝統的思想テキストを、いたずらに過去のものとして神棚の上にかざったままにしておかなないで、積極的にそれを現代的視座から、全く新しく読みなおすこと。切実な現代思想の要請に応じつつ、古典的テキストの示唆する哲学的思惟の可能性を、創造的、かつ未来志向的、に読み解き展開させていくこと。
 どの程度の成果が期待できるか、自分にはわからないが、とにかく私は、およそこのような態度で東洋哲学の伝統に臨みたいと考えている。『大乗起信論』をテーマとするこの小論は、その試みの、ささやかな一歩にすぎない(『意識の形而上学』13頁)。













父の墓参り ― 託された封筒の中身

2014-01-04 19:05:01 | 雑感

 今日、妹の運転で母と一緒に高尾にある父の墓参りに行ってきた。母と妹にとっては昨年春以来の墓参だが、私には前回の墓参がいつだったかすぐには思い出せないほど久しぶりのことだった。フランスで暮らすようになった十八年前からは、短期の一時帰国の際にはつい機会を逸してばかりいて、少なくともここ九年は墓参をしていない。それだけでも十分に親不孝な息子である。
 父は私が高校二年生の時に癌で亡くなった。四九歳の誕生日の前日のことだった。発病はその二年前に遡り、以降入退院を繰り返していたので、高校生になってからは父の元気な姿を見ることはなかった。父が健在であったなら、私の人生も随分違ったものになっていただろうと思う。特に仲の良い父子というわけではなかったけれど、父の趣味であった海釣りには、小中学校時代しばしば一緒に出かけた。
 父が仕事の上でもっとも活躍していたのは、ソ連と東欧諸国との貿易促進のために頻繁にそれらの国々に出張していた1950年代後半から60年代前半にかけてのことだった。母の思い出話によると、その頃は海外に出張する日本人はまだ少なく、出張のたびに親族・同僚が羽田空港まで見送りに行ったものだそうである。私はその頃まだ小さすぎて当時のことはほとんど何も覚えていないのだが、母の話によると、私はすっかり父と一緒に出発する気でいて、そうではないとわかると、父の片足にしがみついて離れようとせず、父や周りの大人たちを往生させたらしい。「子供の入り口は別なのだ」と母方の祖父がなだめすかして、やっとのことで引き離したそうである。
 亡くなる前年のクリスマス・イヴの夜、母と妹は教会の愛餐会に出かけ、自宅療養中だった父と私は家に残り、二人で夕食を食べた。そのときの会話がどんな内容だったかもうよく覚えていないのだが、父が一言、無念の表情を浮かべながら、「私の人生は失敗だったよ」とポツリと言ったのは忘れられない。高校一年の息子にはどう返答していいのかもわからなかった。
 翌年に入り、病気の進行によって苛立つことが多くなった父が、いつになくにこやかな表情で私の勉強部屋に入ってきて、「これ、いつでもいいから写真屋に持って行ってくれないか。ただ渡すだけでいいから」と私に大判の封筒を手渡しながら頼んだ。ちょうど勉強中だった私は、「うん、わかった」と一言返事しただけで、受け取った封筒を書棚の一番上に無造作に置いたまま、父の頼みをすっかり忘れてしまった。父もその後私に催促しなかった。
 その年の後半、結果としてそれが最後となる入院後は、通っていた高校から入院先の国立がん研究センターまで日比谷線で10分足らずと近かったということもあり、放課後頻繁に見舞いに行った。地下鉄のストライキの影響で高校が休みになった一週間ほどは毎日通った。すでに寝たままのことが多くなっていた父と特に会話があったわけではなく、何時間か父の枕辺で参考書を広げ試験勉強をしていた。夕方、「じゃ、もう帰るよ」と言って立ち上がると、私の手を強く握って「ありがとう」と何度も繰り返す父を個室に一人残すことに、まさに後ろ髪引かれる思いで病室を後にした。
 父の死の翌日、葬儀の時の写真をどうするかということが親族と葬儀の準備を手伝ってくれている人たちの間で話題になったとき、ハッとした。もしかして父が私に託した封筒の中身は遺影のための写真だったのではないかと気づいたのだ。その時はまだ病院の霊安室で母に付き添っていた私は自分で確かめに自宅に戻ることはできなかったので、人を頼んで見に行ってもらった。思った通りだった。封筒には、父自身が遺影として選んだ写真とそのトリミングの仕方を説明した紙片が入っていた。しかし、残念ながらその写真は遺影用として拡大しても使えるほどピントが合っていなかったので、結果としては母が選んだ別の写真が遺影と使われた。
 父が私に遺影用の写真を託した理由は明らかだった。私がすぐに父の頼みを実行すれば、それが何のための写真か私にもわかってしまう。それを承知の上で私に託したのだから、そのようにして父は自分がもうこの先長くはないことを息子に伝えたかったのだろう。封筒を受け取ってからしばらくして、母から父がもう長くないことを聞いたので、私は父が望んだのとは別の仕方で父の余命が短いことを知ったことになる。そのときすでに病気が深刻な状態であることは見ればわかったが、入院を嫌い、自宅療養を望み、できるかぎり家族と共に過ごしたがっていた父が後せいぜい数ヶ月しか生きられないと知ったときの衝撃は大きかった。もし、一人で封筒の中身を見ていたら、私はどのようにそれを受け止めえただろうか。
 今日、穏やかな冬晴れの空の下、父に長年の無沙汰を詫びた。いつまでたっても頼りにならないどころか、覚束ない日々に右往左往するばかりの息子に歯がゆい思いをしていることであろう。次回の墓参には、少しは父が喜んでくれそうな報告をしたい。













思考の論理、あるいはその生理と律動 ― テキスト読解の鍵

2014-01-03 23:45:36 | 哲学

 音楽を演奏するとき、リズムやテンポが不適切では、そもそも演奏として成り立たないのが普通であろう。それでも無理に演奏すれば、曲想を壊してしまう。もちろん、敢えて作曲者の指定と違うリズムやテンポを選ぶことによって、その曲に新たな息吹を吹き込むということもありえないことではない。しかし、今日の記事では、この可能性は脇に除けて、音楽演奏でのリズムとテンポについての原則がテキスト読解にも当てはまるかをどうか考えてみたい。
 もし、文学作品、殊に韻律が命である詩歌については、比較的よくこの原則があてはまるとすれば、それだけ詩歌が音楽に近いからだろう。では、散文、それも文学作品ではなく、論文のように、そこでの議論の内容が問題であるような文章にも、同じ原則を当てはめることができるだろうか。一見難しいように思える。そもそも書き手の側にそのような意識がなく、いわば空間的な図形のように構成された文章に対しては、それを読むのに適切なリズムやテンポなどを求めても、それはないものねだりなのかもしれない。しかし、たとえそのような文章であったとしても、読まれるときには時間的に展開されていくのだから、やはりそこには一定のリズムとテンポがなくてはならないのではないだろうか。
 こう言ったほうがいいのかもしれない。テキストには、それを読むにふさわしいリズムとテンポがあり、それにしたがって読むことがそのテキストを理解するための必要条件となる。言い換えれば、テキストは、それに適切なリズムとテンポで読まなければ、よく理解されえない。テキストを理解するということは、そのテキストの思考の律動性にしたがって考えることだと言っていいのかもしれない。


茶は花にして、花は言葉、そして言葉は命 ― 岡倉天心への回路を索めて

2014-01-02 23:50:39 | 読游摘録

 岡倉天心の名は、父方の祖父が美術評論家として天心について一書を著した思想家として、年少の頃から親族の会話の中で聞いて以来、心の何処かに響き続けていた。しかし、真剣にその著書を読む機会はこれまでなかった。『茶の本』の仏訳を大学の講義で取り上げようとしたことも数年前にあったが、その時は同書に見られるあまりにも図式的な(と私には思われた)東西二元論に辟易して、以後敬して遠ざけるという態度に終始してきた。
 いつかは一度きちんと読んでおきたいという気持ちはそれでも失われたわけではなく、天心をいわば代理父性として敬慕していた九鬼周造を読むようになってからは、その気持は強まり、明治期のいわゆるお雇い外国人学者たちの日本近代化に果たした役割という問題関心から、天心の師の一人であるフェノロサに興味を持つようになったことも、一層天心への関心を高めた。
 岩波現代文庫のための書き下ろしとして昨年12月に出版されたばかりの若松英輔『岡倉天心『茶の本』を読む』を購入したのも、井筒俊彦の哲学に対する精神的親和性に満たされつつその内奥に参入しようとした批評的試みとして印象づけられた『井筒俊彦 叡智の哲学』(慶應義塾大学出版会、2011年)の著者による天心論に、天心へ接近する回路の一つが見いだせるのではないかという期待からだった。昨日届いたばかりで、まだあちこち頁をめくったに過ぎず、同書について何か批評めいたことを述べる用意はできていない。ふと目に止まった一節を引いておく。

「茶」は姿を変えて、さまざまなところにその姿を現す。「茶」に変じてこの世に顕われた何ものかは、ときに「花」として語りかける(108頁)。