新年度講義開始二日目の今日は、最初にフランスに来た日から起算してちょうどまる十八年になる。昨年の同日の記事「滞仏丸17年」の中で、滞在の始まりの困難についてはすでに書いたから、ここにそれを繰り返すことはしない。一年前のその記事を読み返しながら、記事を書いていた当時は想像していなかったような転機がこの一年の間に自分の人生に訪れたことを改めて有り難く思う。今は、一年前の暗く不安定な心境から解放され、こうしてストラスブールに居を構え、これから定年まで腰を据えてここで研究と教育に従事していこうという覚悟が決まっており、そのための生活の形とリズムを少しずつ調えつつある。
私が最初に同じ日本学科で教えていた一九九八年から二〇〇〇年には、まだ学士課程しかない学生総数八〇名ほどの小さな学科で、最高学年である三年生は五、六名だった。その時担当した授業の一つが三年生の「古典文法入門」だった。この授業は、自分がかつて日本で万葉集を学んでいたころに得た知識を「再起動」させるきっかけとなった。学生たちと代表的な古典作品のさわりを原典で読みながら、なんとか彼らにそれぞれのテキストの美しさを伝えようと、毎回丸一日かけて授業の準備をしていたことを懐かしく思い出す。何年も経ってから、卒業生の一人と偶然パリであったとき、その授業のことを今でも忘れがたい授業として覚えていてくれたことが嬉しかった。
今日の講義は、同じ学部三年生の「中世日本文学史」。出席者二七名。まさに隔世の感がする。最初の五分間ほど、少しふざけた自己紹介を日本語とフランス語でして教室の空気をほぐしてから、授業の目的、毎週の宿題、試験の形式、成績判定の要素と基準等について説明する。ここまでで約二十分。二時間授業の残りの時間を使って、教科書として使用する日本文学史の高校生向け参考書の格調高い文体で書かれている「はじめに」を、昨日の修士二年の演習の時と同様、予習なしの初見で読み始めた。
まず学生に一文一文音読させる。七人の学生に読ませたが、その中には相当によくできるのもいた。しかし、たった一頁の文章とはいえ、最初の文を除いて、どれもかなり一文が長く、しかも構造的に複雑、その上そこに表明されている文学史を学ぶ意義と方法とそのために必要とされる作業の説明は、一読で理解するには若干高度過ぎる内容であった(おそらく日本の平均的高校生にとってもそうであろう)。しかし、一つ一つの文を構造的に分析しながら、繰り返し読み、筆者の思考の順序に従い、提示されている概念間の関係を確定しながら、その内容の理解に務めた。初回初対面にもかからわず、学生たちの反応は極めて良好で、いい質問、うまい訳の提案等がいくつか出て、上々の滑り出しであった。来週のテーマは、中世文学史の重要概念。
今日の修士二年の演習がストラスブール大での記念すべき最初の講義であった。出席は四名。これで全員である。残りの修士二年登録者六名は全員日本に留学中かこれから留学に出発するところである。日本学科では、修士の一年と二年との間に一年間の日本留学が義務づけられており、ごく一部の例外を除いて、この留学なしに二年生に実質的に進級することはできない。留学組は、だから事務登録上は二年生だが、二年生の演習に参加するのは来年以降である。
今日出席の四名は、さすがに一年の留学経験があるので、私が日本語で話した部分もほぼ完全に理解していたし、私の質問に的確かつほとんど淀みなく答えることができた。今日は、二時間の演習のうち、だいたい日本語三割、フランス語七割といったところだろうか。
日本語で彼らの修士論文の研究テーマを簡単に説明してもらった。彼らの説明を基に論文のタイトルに私なりにまとめると、「明治期における衛生政策 ― 特に遊郭の場合」、「一九六十年代の学生運動をテーマとした文学作品研究 ― 高橋和巳の作品を中心に」、「平安時代の宮廷における陰陽師の役割 ― 『御堂関白記』を手がかりとして」、「明治期の男女平等思想 ― 森有礼の近代婚姻論を中心に」となるだろうか。それぞれに面白そうなテーマである。
テキストを読ませてみて、彼らの漢字読解能力の高さに驚いた。基礎テキストである家永三郎の『日本思想史における宗教的自然観の展開』は、一九四三年に書かれたテキストであり、歴史的仮名遣いである上に今日はほとんど使われない漢字も中には含まれていたし、送り仮名も今日の常用とは違う。にもかかわらず、まったく予習なしの初見で、かなりすらすらと読むのである。ただ、文の構造理解となると別問題であった。一文一文が長く、構造的に複雑なので、一読で理解できるというわけにはいかなかった。今日のところは、だから、テキストを音読させただけで、訳と解説は私がつけていった。読んだのは最初の頁の導入の一段落のみ。
家永のテキスト読解を始める前に、研究の進め方、論文の書き方等について予備的考察としてあれこれと話した。その中の話題の一つとして、研究対象のテキストの読み方について話したとき、一つの示唆として、本居宣長の『うひ山ぶみ』の一節を原文で一緒に読んだ。
古学研究に必須の第一文献を列挙した後に、宣長は、それらをどう読むかという問題に答えて、およそ次のように言う。
すべてそれらの書物を読むのに、必ずしも順序を決めて読まなければならないということはなく、その時その時の便宜に応じて、順序にこだわらずにあれこれ読めばいい。
また、初心のうちは、最初のほうかすべて文意を理解しようなどとしてはいけない。まずざっとさらさらと見て、他の書に移り、あれこれと読んで、それからまた前に読んだ本に立ち返ればいい。こうして何遍も読んでいるうちに、最初はよくわからなかったことも徐々にわかるようになってゆくものである。
さて、そのようにして読んでいるうちに、その他の重要文献についても、学問の方法についても、次第に自分の考えがしっかりできてくるものである。したがって、それ以上のことはいちいち教えなくともよい。「心にまかせて力の及ばむかぎり」(ここは原文のまま)、古い文献から後の世のものまで広く通覧してもいいし、場合によっては、そこは簡単にして、広く及ばないという行き方もある。
このような読みの態度は、他の分野、他の時代にも基本的に適用可能であろうし、修士論文のためにそれこそあれこれと読まなくてはならない四人の学生たちにとって何らかの示唆になればというのがこのテキストを紹介した理由であった。
来週の演習では、家永のテキストに出てくる「迦微」(カミ)概念の理解を深めるために、やはり宣長の『古事記伝 神代一之巻』に見られる「迦微」についての説明箇所を読む。
巻三の柿本人麻呂の八首一連の羈旅歌の最後から二番目の歌にも、昨日の記事で話題にした動詞「見ゆ」が末尾に置かれている。
天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ(三・二五五)
伊藤博の現代口語訳は、「天離る鄙の長い道のりを、ひらすら都恋しさに上って来ると、明石の海峡から大和の山々が見える」となっているが、岩波文庫新版『万葉集(一)』にはこの歌に注して、「河内・大和の国境いの山並みを海上から見た喜びである」とある。つまり、ただ風景を詠んだだけの叙景歌ではなく、そこには喜びがこもっていると解釈しているわけである。これは上三句によって叙された状況からすれば、素直に受け入れられる解釈であろう。遥々長い道のりを歩いてきて、ようやく懐かしいよく慣れ親しんだ大和の山々が視界に立ち現れてきたのだから、誰であれ、同じような条件下に置かれれば、喜びを感じるだろう。しかし、これだけではこの歌が「見ゆ」によって結ばれていることの十分な説明にまだなっていない。
佐竹昭広の論文「「見ゆ」の世界」に依拠しながら、もう少し踏み込んで解釈してみよう。佐竹の同論文によれば、「見ゆ」は「見る」の受け身だから「見える」の意をあらわすが、だからといって、「この「見える」意を純粋に「見えて来る」作用とのみ解することは正しくない」(『萬葉集抜書』二九頁)。単に何かが見えて来るという見えるものの側の記述なのではなく、「見えるという状態である」と佐竹は言う(三五頁)。そこに佐竹は、「存在を見えるすがたにおいて描写的に把捉しようとする古代の心性」を見る(三七頁)。
しかし、仮に佐竹の言うとおりだとしても、それだけではまだ「見ゆ」の含意を十分に引き出しているとは言えないのではないかと私には思われる。この「見えるという状態」が成立しているのは、見ている者の見ている風景においてである。しかし、大和の山々が見えてきたときの喜びの感情を直接に示す言葉はこの歌にはない。「見ゆ」が意味しているのは単なる存在の視覚的把握ではなく、見えている風景がリルケのいう「世界内面空間」と成り、大和の山々の現われそのものが喜びであるような、大森荘蔵が言うところの「天地有情の世界」の立ち現れこそが万葉人の「見ゆ」にこめられた意味なのではないだろうか。
今日も朝からよく晴れた。日曜日の今日、プールは午前八時から。日中は昨日にも増して混むだろうと予想されるので、開門に合わせて行く。入り口についた時にちょうどシャッターが上がり始めた。開門を待っていた人たちは十人程度。私のように歩いてくる人は少数派で、車や自転車で来る人が多い。水の中には一番乗り。近くに大きな建物といえば、欧州議会があるくらいで、空がことのほか広く感じられる。背泳ぎで青空を見ながら泳ぐのが気持ちいい。
書斎の窓は、床から天井近くまで届く大きな二重窓の引き戸になっていて、机に座るとその窓越しに隣家との境に植えられた三・五メートルほどの高さのカイズカイブキの垣根が正面に見える。その垣根の左手の方にカイズカイブキに包まれるように植わっている高さ六,七メートルほどの冬青の枝がこちらに向かって敷地を越えて細長い枝を幾本か差し伸ばしていて、その先端はベランダから手を伸ばせば届きそうな距離である。垣根の背後、正面よりやや右側に冬青よりもさらに背の高い林檎の木が枝を四方に広げている。ざっと数えてもすでに数十個はあるだろう林檎の実があちこち赤く色づき始めているのが座ったままでもよく見える。これらの樹々の枝の重なり合った奥に空が見える。
「見れど飽かぬ」あるいはそれに近い表現は、万葉集に約五十例を数える。この表現は、伊藤博『新版 万葉集 一』(角川文庫)によれば、柿本人麻呂創始の表現である(56頁)。通常、「見ても見ても見飽きることがない」(伊藤訳)、「いくら見ても見飽きることがない」(岩波文庫新版『万葉集(一)』訳)などと現代口語に訳される。
万葉集中最初の例は、巻一の人麻呂の持統天皇吉野行幸に供奉した際に作ったとの詞書がある長歌とその返歌一首(一・三六、三七)である。長歌の方は、「この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激く 滝の宮処は 見れど飽かぬかも」と締め括られ、反歌は、
見れど飽かぬ吉野の川の常滑の絶ゆることなくまたかへり見む(一・三七)
万葉歌に見られる「見る」という行為に与えられたこの特権的な重要性は、古今集以後急速に失われていく。逆に後世の眼から見れば、わざわざ歌の末尾に「見ゆ」と付けたり、「見れど飽かぬ」と締め括ることで明示的に表現された視覚に与えられた特権性は、どこから来るのかということが問題になる。
今、「見ゆ」と「見れど飽かぬ」とを並置したが、それぞれ別々に実例に沿って検討すべき表現であるから、今日は後者のみついて覚書を残しておく。ただ前者について一言だけ付言しておくと、佐竹昭広『萬葉集抜書』(岩波現代文庫)所収の「「見ゆ」の世界」によれば、古代語「見ゆ」の背後には、「存在を視覚によって把捉した古代的思考」が強力に働いていたと認められる(36頁)。
「見れど飽かぬ」は、日本語による叙景歌の成立契機とその特異性を示す一つの指標的表現であると見なすことができる。この点、白川静の『初期万葉論』(中公文庫)第四章「叙景歌の成立」は極めて示唆的である。巻九の笠金村の「神からか見が欲しからむみ吉野の滝の河内は見れど飽かぬかも」(九・九一〇)から始まる三首を引いた上で、白川は次のように言う。
この讃歌の主調音は「見れど飽かぬ」自然の姿を歌うことにある。この自然は自然の美しさのゆえにではなく、「国からか見が欲し」という地霊の誘ないによるものであり、「見れど飽かぬ」というのがその交感の方法である。「山川を清みさやけみ」とは国から、神からを示すもので、この清なるものは叙景的な意味での自然に連なるものではない。「見れど飽かぬ」はそのような霊的なものに対する感応的な態度であり、それは魂振り的な用語である(140頁)。
白川はさらに、上に引いた人麻呂の第一作に言及しつつ、「見れど飽かぬ」は、「その状態が永遠に持続することをねがう呪語であり、その永遠性をたたえることによって、その歌は魂振り的に機能するのである」と言う(153頁)。
そこからさらに論点を一般化して、先に言及した佐竹昭広の「見ゆ」論と交叉する地点に至る。
古代においては、「見る」という行為がすでにただならぬ意味をもつものであり、それは対者との内的交渉をもつことを意味した。国見や山見が重大な政治的行為でありえたのはそのためである。国しぬびや魂振りには、だた「見る」「見ゆ」というのみで、その呪的な意味を示すことができた。『万葉』には末句を「見ゆ」と詠みきった歌が多いが、それらはおおむね魂振りの意味をもつ呪歌とみてよい(154頁)。
〈見る〉ことそのことが自然との生き生きとした内的交感であり得、その〈見る〉ことにおいて「聞かれる」神霊あるいは地霊からの呼びかけによって魂が揺さぶられるそのような内的経験に定型歌として表現を与え、その表現を儀礼的定式化していくことによって人間の側から神霊あるいは地霊に応答する古代人の感応性は、私たちがもはやいかにしても取り戻すことができない失われた魂の能力なのだろうか。
いや、根源的受容性が私たちの「身」から決定的に失われてしまわないかぎり、万葉歌を朗唱するとき、古代人の自然への感応性が、たとえ微かにでも、私たちの魂のうちに〈コトバ〉によって励起されるのを感じることができると私は確信している。
今日は久しぶりに朝から気持ちのよい青空が広がった。隣家に生い茂る木々の木の間越しに朝日が書斎に射し込み、光の斑模様を本の背表紙に揺らめかせる。小鳥の囀りの他は何も物音がしない静かな朝。ゆっくりと朝食を取った後、九時半頃プールに行った。土曜日なのにそんなに混んでいなくて、午前の光を浴びながら快適に泳ぐことができた。一時間泳いで上がろうとシャワー室に向かうと、これから入ってくる家族連れに何組も出会った。ちょうどいいタイミングだった。
午後からは来週からの講義の準備を始めるつもりでいたが、高校時代からの悪い癖(もう直らないであろう)で、試験準備など間近に迫った義務的な仕事があると、それには直接関係ない本が読みたくなるのである。今日は予定としては、火曜日の修士二年の演習の基礎テキストである家永三郎の『日本思想史における宗教的自然観の展開』を読み直すことになっていたのであるが、第一回目については話すことは大体もう頭に入っているし、序論的な部分では学生たちの反応を見ながら話題を展開するつもりでいるから、そんなに入念に準備しなくても大丈夫だろうという教師にあるまじき安易な考えも手伝い、今月に入ってから二回このブログの記事でも取り上げた « L’émergence » という論文を読み直しているうちに三時を過ぎてしまった。
「これはいかん」と本をパタンと閉じて、すくっと立ち上がったが、それは講義の準備に取り掛かるために本棚に並んでいる家永三郎集第一巻を取るためではなく、「こういう時は気分一新したほうがいい」と独り言ちて、かねてより気になっていた汚れを落とすべくベランダの掃除を始めたのである。これも私にはよくあるパターンである。
掃除をしている間は、何も「いかに汚れを落とすか」と真剣に考えているわけではなく、体は動かしながら、頭では講義のことをちゃんと考えているのである。むしろ机に向かってばかりいるよりもいいアイデアが浮かぶことも少なくない。論文を書いているときにも、同じような行動パターンが観察される。机というかパソコンに向かっているときより、掃除しているときの方が、頭が冴えることさえあるのである。ちなみに、食器洗いについても同様なことが言える。つまり、いずれの場合も一石二鳥なのである。家や食器は綺麗になるし、講義の準備あるいは論文も捗るからである。
かくして今日も掃除を終え、こうしてパソコンに向かって「充実した」今日一日を振り返っているのである。後は、好きな音楽を聞き、ワイングラスを傾けながら、夕食を取るだけである…が、やはり講義のことが心配になってきたので、明日日曜日は頑張ることにする。
九月一日の昼過ぎから家のボイラーが使えなくなった。突然のことで、いったいどうしたことかと慌てふためき、いろいろと試してみたが、どこの蛇口を開いても、数秒後にはボイラーの電源が自動的に切れてしまう。七月に入居してからずっと何の問題もなく使えていたのに、やれやれ故障かと暗い気持ちになる。翌日朝まで様子を見たが、同じことの繰り返しでお湯が出ない。仕方なしに不動産屋の担当者に連絡して、事情を説明する。取り扱い業者に自分で連絡しろと言われたので、すぐにしたが、見に来られるのは翌日朝だと言う。仕方がない。待つ。
翌朝、巨体の若い兄さんが来てくれて、ボイラーの蓋を外していろいろ点検してくれたが原因が分からない。同僚に電話して相談しながら、さらにあれこれいじっていたが、やはり埒が明かない。二十分ほどして、呆れたような顔をして「ガスが来てないよ」と言う。点火は電気だが、湯沸かし自体はガスであることは、ボイラーの正面の蓋についた小さな窓から確認できるから、私も承知していた。しかし、どうして突然ガスが来なくなったのだろう。巨体の兄さんは建物の廊下にある各戸のガス・メーターが収納されたボックスを開けて、「あなたのうちのメーターついてないよ。九月一日に外したとこの紙に書いてある」と私に指で示す。愕然とする。「これじゃあボイラーがちゃんと機能するかどうか点検のしようもないよ」と言い残して、巨体の兄さんは帰っていった。
七月の入居時にエネルギー・ストラスブールという会社と契約し電気が使えるようになると同時にボイラーも使えるようになったから、別にガスの契約をしなくても、ボイラーのガス使用契約もその中に含まれているのだろうかと、実は半信半疑だった。暖房もガスなのだが、寒くなってきたら契約すればいいかとほっておいたのである。台所にはガス管がそもそも来ておらず、料理にガスは使えない。最近は電磁プレートが多数派で、今でもガスを料理に使っているアパートは大幅に減少している。
不動産屋やエネルギー・ストラスブールに連絡を取り、事情を説明すると、ガスの契約をしなければボイラーが使えないに決っているだろうと呆れられる。もちろん彼らの言うとおりである。いかに私が間抜けでも、もし入居時に電気だけではボイラーが作動しないのを目の当たりにすれば、すぐに気づいてガスの契約をしただろう。わからないのは、いったいなぜ、ガスの契約なしに約二月間何の問題もなくボイラーが使えていたのかということである。不動産屋は、おそらく前居住者がガスの契約解除を忘れていたのだろうと言う。おそらくそんなところなのかもしれない。つまり、私は約二月間ガス料金を支払わずに使用していたわけであるが、これは故意ではなく、おそらくは前居住者の落ち度であるから、私が責められる筋合いはない。
というわけで、エネルギー・ストラスブールとガスの契約をその日のうちに交わし、開栓をお願いしたが、メーター設置と開栓作業のために係員が来るのは、なんと来週まで待たねばならず、木曜日の朝一番ということになった。つまり、まだ一週間お湯なしで生活しなくてはならないのである。当然、お風呂にも入れないし、シャワーを浴びることさえできない。
かくして、徒歩五分のところにある市営プールには、温水シャワーを使うためにも、普段にまさる高いモチベーションとともに通っているのである。
昨日の新学期最初の教員会議の席で、こんな話をフランス人の同僚たちにすると、「銭湯に通っていた頃の日本人の生活みだいだねぇ」と揶揄されてしまった。
来週からいよいよ新学年の授業が始まる。前期の担当科目は、学部二年生の古代史と上代文学史、三年生の中世文学史、修士一年の日本古典文学講読、修士二年日本思想、それに修士一・ニ年共通のセミナーである。いずれも二時間の授業。学部は前期を通じて毎週あり計十二週二十四時間、修士はすべて計六週十二時間。修士二年の日本思想が前期前半六週間、修士一年の講読が前期後半六週間、セミナーが隔週六回。前期はこれらの授業が火曜日から金曜日までの四日間に組まれており、火・水・金は一コマだけ、木だけ二コマ連続の四時間。せめて週三日にまとめて欲しかったとも思ったが、新しい職場に慣れるためにも前期はキャンパスに足繁く通うのも悪くない。それに、後期は学部二年の中古文学史の一コマだけだから、自分の研究に集中できる。メリハリがあって良いとも言えるし、今から後期の研究計画を立てておくこともできる。
学部の授業は担当教員間共通の教科書にそって坦々と進めていくのが基本だが、修士はテキストの選択も授業内容も自由に決められる。修士二年は、家永三郎『日本思想史における宗教的自然観の展開』(1943年、『家永三郎集』第一巻所収)を基礎テキストにして、和歌に現れた宗教的自然観を上代から中世初期まで辿りながら、日本人がどのように自然を宗教的対象として見るようになったかを辿り直す。修士一年は、ちょっと欲張りな内容なのだが、二つのテーマがある。短歌と俳句を基礎資料として、古典詩歌の中にいかに動的イメージが捉えられているかを見るのに前半三回、後半三回では、中古の女流歌人たちの日記である『蜻蛉日記』『紫式部日記』『和泉式部日記』『更級日記』において日記という表現スタイルによっていかに彼女たちの「自己」が形成されているかを見る。いずれの授業も実際に始めてみないとどこまで計画通りに行くかわからないが、毎回の授業の内容についてはこのブログの記事にしていくつもりでいる。
修士一・二年共通のセミナーは、特別な目的を持っていて、これについては別の機会にもっと詳しく説明するつもりだが、さしあたり簡単に紹介しておくと、法政大学の哲学科の演習と共通のテキストを一学期かけて予め読んでおき、その成果を来年二月のアルザス・欧州日本学研究所での共同ゼミにおいて二日間に渡って日本語で発表・討論するということをその目的としている。今年度のテキストは私が選ばせてもらった。高橋哲哉の『靖国問題』である。選択の詳しい理由説明は別の機会に譲るが、現実的な理由の一つは、信頼できる仏語訳があるということである。これは、日本語での議論では当然ハンディがあるフランス人学生たちが、テキスト全体の理解については日本人学生と較べて極端な落差を持たなくて済むようにするためである。
今日の記事も昨日の記事の末尾の追記で出典を示したAnne Fagot-Largeault の論文 « L’émergence » に依拠している。
昨日の記事の最後に引用した『習慣論』の一節を読めばわかるように、ラヴェッソンにとって、習慣とは、「生む」自然と「生まれた」自然とを相互に結びつける過程そのものなのである。習慣を研究するということは、したがって、自由が自然化し、自然が自由化(自発化)する過程を研究することにほかならない。一言で言えば、自然の中に受容された自由という問題である。
Toute la suite des êtres n’est donc que la progression continue des puissances successives d’un seul et même principe, qui s’enveloppent les uns les autres dans la hiérarchie des formes de la vie, qui se développent en sens inverse dans le progrès de l’habitude. La limite inférieure est la nécessité, le Destin, si l’on veut, mais dans la spontanéité de la Nature ; la limite supérieure, la Liberté de l’entendement. L’habitude descend de l’une à l’autre ; elle rapproche ces contraires, et, en les rapprochant, elle en dévoile l’essence intime et la nécessaire connexion (Ravaisson, De l’habitude, op. cit., p. 148-149).
故に存在の全系列は、同一の原理より成る相継ぐ諸力の連続的系列に外ならず、これら諸力が生命形式の階層においては、一は他の中に包み込まれて行き、習慣の進行に於ては、それとは逆の方向に繰り拡げられて行くのである。下の限界は必然性である、これを宿命といつてもよいが、自然の自発性の中なる宿命なのである。上の限界は悟性の自由である。習慣は一方から他方へ降って行く。それはこれら反対者を接近させ、さうすることによつて両者の内面的本質と必然的結合とを露はすのである(野田又夫訳62頁)。
この一節に見て取れるラヴェッソンの独創性は、習慣の獲得を、意志が操作を行うために努力を傾注する状態から、その操作を実行する力能が自発的に発動する状態への移行であると考えた点にある。この考えに従えば、習慣の獲得においては、自動化(機械性)と作用の容易化(自由化)との両方が、それぞれの場合で程度の違いはあれ、同時に実現されているということになる。
ラヴェッソンにおいては、習慣における「上昇」運動は、現実の多様性を一つの観念に統一する総合化の過程であり、それが科学を形成すると考えられる。ところが、現実においては、習慣の「下降」運動によって、精神は自然化され、物質は精神化される。そのことによって、「機械的な運命性」と「反省的な自由」との間に連続性が確立され、この両者の境界面において、知解能力を有った自動性と意志的努力から解放された傾向性が生まれるのである。
今日までの一連のラヴェッソンについての記事を締めくくるにあたって、『習慣論』の結論部分の一節を引く。
L’histoire de l’Habitude représente le retour de la Liberté à la Nature, ou plutôt l’invasion du domaine de la liberté par la spontanéité naturelle (Ravaisson, op. cit., p. 158).
習慣の歴史は、自由の自然への復帰、或はむしろ、自然的自発性の、自由の領域への侵入、を示してゐる(野田又夫訳74頁)。
機械性はそれ自体において自足的ではない。機械的説明は既得の習慣には適用され得るが、ある一つの新しい習慣の形成は機械的・自動的には発生しないし、習慣形成という「自然」現象に機械論的説明を適用することはできない。
ラヴェッソンの自然哲学の要を成すこのテーゼは、十九世紀後半のフランスの実証主義的スピリチュアリスムの系譜の中で継承されていくが、ほぼ時を同じくして大西洋の向こう側アメリカにもこのテーゼに非常に近い主張をしていた哲学者がいる。チャールズ・サンダーズ・パース(1839-1914)である(昨年12月30日から今年の1月1日にかけての記事と1月25日・26日の記事を参照されたし)。
1898年、パースはハーヴァード大学があるマサチューセッツ州ケンブリッジ市内で自身の哲学について八回に渡る連続講演を行うが、その第七講演がまさに「習慣」と題されているのである(この講演は、この連続講演の他の五つの講演とともに岩波文庫の伊藤邦武訳『連続性の哲学』に収録されている)。第八講演「連続性の論理」の中で、唯物論者と自分の哲学の違いに言及しながら、パースは次のように主張する。
これに対してわたしが主張するのは、存在するものはすべて、第一に感情であり、第二に努力であり、第三に習慣である、ということである。これらはすべて、われわれにとっては、その物質的な側面よりも精神的な側面の方が良く知られているものである。一方死んだ物質とは、習慣が完全に硬直化して、感情の自由な遊びや努力の非合理性が完全に死滅した末の、最終的な結果でしかない可能性がある(岩波文庫261-262頁)。
この一節を読んで、私たちは直ちにラヴェッソンの習慣論との親近性に思い至らないわけにはいかないであろう。
講演「習慣」の結論部では、自然の諸法則はどのように形成されるのかと問い、パースは次のように予測する。
すべてのもののうちでもっとも可塑性に富むのは人間の精神であり、その後に来るのは有機体の世界、原形質の世界である。そしてまさしく一般化する傾向は、人間精神の大原則であり、観念連合の法則、習慣獲得の法則となって現われている。また、すべての活発な原形質のうちにも習慣を獲得する法則が見られる。したがってわたしはこれらの考察から、宇宙の諸法則は、一切のものが一般化と習慣獲得へと向かう、普遍的な傾向性のもとで形成されてきた、という仮説に導かれたのである(同書221頁)。
私たちはこのパースの予測とラヴェッソンの習慣論の次のテーゼとを重ね合わせてみることができるだろう。
En descendant par degrés des plus claires régions de la conscience, l’habitude en porte avec elle la lumière dans les profondeurs et dans la sombre nuit de la nature. C’est une nature acquise, une seconde nature qui a sa raison dernière dans la nature primitive, mais qui seule l’explique à l’entendement. C’est enfin une nature naturée, œuvre et révélation successive de la nature naturante (Ravaisson, De l’habitude, op. cit., p. 139).
意識の最も明瞭な領域から次第に下降していくに際し、習慣は意識の光と携へて自然の奥底へ暗夜へと下つて行く。習慣は、獲得された自然、第二の自然であつて、これは第一の自然の中に究極の根拠を有し、しかも唯これのみが第一の自然を悟性に対して解き明かすのである。つまり習慣は「生まれた」自然である、「生む」自然の相継ぐ業績であり啓示である(ラヴェッソン前掲書『習慣論』野田又夫訳)。
追記 今日の記事は、Anne Fagot-Largeault の論文 « L’émergence »(dans Daniel Andler, Anne Fargot-Largeault, Bertrand Saint-Sernin, Philosophie des sciences II, Gallimard, collection « Folio essais », 2002, pp. 951-1048)に基いて書かれている。
今日がストラスブール大に赴任して初めての仕事始め。日本語の責任者として関わる学部の新入生向け全体オリエンテーションに前任者と共に出席する。この学部は、二つの外国語を並行して同じレベルで学ぶことを原則とする学部で、フランス各地の大学に同様な学部あるいは学科がある。それらの共通名称は、 « Langues étrangères appliquées »、略称 « LEA »である。日本の大学には同様の趣旨の学部がないので日本語には訳しにくいのだが、カリキュラムの中身を考えれば、「実践外国語学部」とでもなろうか。学部卒業後に仕事にすぐに役立つ言語学習とそれに伴う必要知識の習得というのがその主たる目的である。
前任校では、二〇〇六年の英語・日本語コースの開設準備からその責任者に任命され、八年間ずっとその役職にあったので、上記のようなLEAの基本的な方針はすでによくわかっている。前任校では、英語+スペイン語/ドイツ語/日本語/中国語の四つのコースがあるだけだったが、ストラスブール大では、英語あるいはドイツ語+十の言語のコースがある。英語・日本語コースは多くの日本語初級者を受け入れるので、日本語の授業は他の言語の倍の時間数の履修が必修とされている。
というわけで、またしてもLEA英語・日本語コースの責任者になってしまったわけである。同コースの学生数は三学年合わせて約百数十名、前任校より若干少ないくらいだろうか。しかし、私にとって両校での立場の決定的な違いは、前任校では、八年間の間に日本語関係の授業はすべて担当したことがある(日本経済についてのテキストも読みました)のに対して、ストラスブール大では、このセクションの授業はまったく担当しなくていいということである。どうしてそういうことになるかというと、日本語の授業は他の先生たちの担当で、私が講義を担当する日本古代史、日本文学史(上代・中古・中世)は、に日本学科日本語専修コース(Langues, littératures et civilisations étrangères=LLCE)の学生たちのみに開講されているからである(こちらは三学年で二百名ほど)。
LEAの運営には英語・日本語コースの責任者として関わるが、授業は一切担当しないというこのような特殊な立場は、日本現代文学が専門の前任者である現学科長にとっても同じだった。このような立場だと、実際の学科運営に関わる負担も前任校に比べれば格段に少ない(はずである)ので、それだけ自分の担当する講義と自分の研究に集中することができるわけで、それだけでも私には有難いことだと今のところは思っているが、果たしで蓋を開けてみるとどうなるか、それはこれからの「お楽しみ」である。