内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

中心と周縁(1)― その安定的構図が危機に曝されるとき

2015-11-02 05:58:42 | 哲学

   

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 先々週末、万聖節の休暇に入る前の心積もりとしては、昨日の11月1日から、今日の記事に掲げたテーマについて、これまで雑然と考えてきたことを整理するために、しばらく連続して書くつもりでいた。その開始が一日遅れた。表向きの理由は、一昨日の記事が長くなり過ぎ、二回に分けたからである。しかし、実は、スタートが一日遅れたというだけでなく、まだ書き出すきっかけさえしかっりとは掴めてはいないのである。現在の状態を喩えれば、頭の中で思考の断片がぼんやりとした星雲を形成しているのが天体望遠鏡によってかろうじて観察され得るだけで、そこにどうやって近づいていったらよいのかもまだよくわかっていない状態とでも言えばよいであろうか。なんと情けない状態であることか。
 しかし、そんなことは言っていられないのである。発表は今月21日なのである。この切羽詰った緊張感はいつもことである(ゾクゾクしますよ、ほんとうに)。これって、何か病気が原因なのかなあと、誰のせいにもしないご都合主義的病因論へと気持ちが容易に傾くが、すぐに、いや、単なる怠惰であろうと正直な心が是正する。いずれにせよ、こういう心的状態が続くのは、決して精神の健康によろしくはない。ままよ、後は体力に任せて、毎日七転八倒し、発表当日の七転び八起きを目指す。
 というわけで「中心と周縁」である。これは参加するシンポジウムのタイトルである。副題には、「搾取に抗う環境・自然」とある。かなり長い趣意書もあるのだが、それらは私が考えたものではなく、シンポジウム主催者によって起草されたものであるから、ここには言及しない。私自身として、このテーマをどう扱うかがここでの問題である。ただ、その際、副題の中の二つのキーワード「環境」と「自然」とは考慮に入れる。
 議論の素材はすでに準備してあるし、それについては、別のタイトルでこのブログでも数回に渡って取り上げてある。ただ先程も述べたように、遥か彼方の宇宙空間でまだ星雲のように渦巻いている思考の断片を、どうやって今の私の立ち位置に、あたかも巨大な恒星であるかのように、引力で引き寄せるか(そんなことできるわけないよなあ)、あるいは、その銀河星団のように遠いそれらの断片にいかに宇宙探査機のように近づいていくか(時間も予算もないでしょ、そんなに)、地球上の一隅で夢想しているに過ぎない(なんか危機感に欠けているんじゃないでしょうか)。
 今日は、8月末に読んだ本の中に見つけた、微かな手掛かりを引用するに留める。その手掛かりは、8月30日の記事で取り上げたビンスワンガー『夢と実存』新仏訳のダスチュール先生の序文(préface)の中にある次の一節である。

Pour le maniaque, par exemple, le monde rapetisse : pour lui, toutes choses sont plus proches, et en même temps l’espace perd sa profondeur. Il n’y a dans la manie ni centre ni périphérie ni foyer ni séjour. Toutes choses deviennent légères, et il n’y a aucune possibilité de pendre quoi que ce soit au sérieux. Pour la mélancolie, c’est l’inverse. Quant au schizophrène, il a perdu toute base d’expérience, et il s’élève dangereusement au-dessus du monde commun. (p. 16)

 心的障害が引き起こす空間経験の変容の例を挙げている箇所である。ここから言えることは、私たちの「正常な」心的空間は、なんらかの安定的な中心と周縁という構図を有っており、私たちは通常その構図の中で、それをそれとしてことさらに自覚することなく生きているということである。この構図がその自明性を失い、安定性が脅かされている様々な状態が「病的」とされるわけである。
 しかし、ここでは、いわゆる「正常」から「異常」を否定的に理解しようとする古典的な枠組みを根本的に批判し、病者によって生きられている空間をそれ自体からその全体を実存的に理解しようとするビンスワンガーの現存在分析を立ち入って論じることが目的ではない。
 ただ、単純に、この引用された一節を、中心と周縁という実存的な空間構成を根本的に考えていくための一つの手掛かりとしたい。

 


「自然な」日本語から「国際語」としての日本語へ ― 日本語を開くために(下)

2015-11-01 00:02:20 | 日本語について

   

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 では、日本語運用における文脈依存性を減少させるためには、具体的にどうすればよいか。
 一つは、主語、提題その他、通常省略されがちな要素を、代名詞や指示詞などによって、各文内に明示し、前文までのどの語を受けているのか、文法的に曖昧さなく提示することである。
 お気づきいただけたかどうか、私は、このブログの記事を書くとき、この原則をずっと自覚的に実践してきている。もちろん、うまくできているなどと不遜にも豪語する気は一切ないし、別の意味で私の文章は「難しすぎる」というお叱りもしばしば受ける。それはそれとして、甘んじて受ける。しかし、もし私の文章をお読みになって、何かやたらと指示詞が多く、ぎこちなく重たい文章だとお感じになられていた方がいらっしゃったとすれば、それはまさに日本人として当然の印象を持たれたわけで、ある意味で私の意図が通じたということでもある。
 拙ブログの読者の中には、私の現在の学生たちやかつての学生たちもいる(ときどき « J’aime »してくれて、ありがとう!)。私は彼らにとってできるだけわかりやすい日本語で書きたいと思っている。とはいえ、取り上げるテーマそのものの難しさもあるし、語彙の問題もあるから、私の文章が誰にとっても「わかりやすい」文章だとはまったく思っていない。ここでは、しかし、取り上げる事柄そのものの難しさという大きな問題は扱わない。それは自ずと別の問題である。
 トルソーとしてすでに「完成作品」である日本語の文章を敢えて全身像にするためにそれに頭手足を付け足すことは、その作品を破壊することかもしれない。しかし、各文の文脈依存性を減少させ、「見えない」要素を顕在化させ、各文を「自立した」文として自覚的に構成すること、これが日本語を「国際語化」するための、少なくとも一つの必要条件であろうと私は考える。
 言い換えれば、「見えない」要素を多く含んだ「自然な」日本語空間の中に、外国語としての日本語を使おうという人たちをただ一方的に招き入れるのではなく、彼らに向かって新たに日本語を「開く」努力を日本人自身が自覚的・方法的に実践すること。日本語とはこういうものだと一方的に上から目線で押し付けるのではなく、どうすれば日本語そのものをもっとわかりやすくすることができるのかと常に自問すること。そう心掛けるだけでも、日本語を母語としない人たちにとってもいくらかはわかりやすい日本語になるだろう。
 このような日本語そのものの「国際語化」は、日本語教育をもっと海外で普及させようという、いわゆる日本語教育の国際化とは別の問題である。後者が無意味だとか不必要だとかと言いたいのではない(実際、私自身、甚だ微力ながら、それに携わってもいるわけですしね)。
 英語をしっかり身につけ、誰とでも自由闊達に議論できるようになることが今日の日本社会でも望まれていることは論を待たないであろう。私自身、フランスで働いていながら、英語能力の必要性を常日頃ひしひしと実感している。しかし、これもまた、別途論じられるべき問題であろう。
 日本の「内発的な」国際化のために、それらと同じくらい大切だと私が考えるのは、昨日今日と述べてきたような、日本語そのものを「開く」という意味での国際化なのである。