古代文学史の講義の準備ために、上田正昭『新版 日本神話』(角川ソフィア文庫、2013年)、三浦佑之『風土記の世界』(岩波新書、2016年)、橋本雅之『風土記 日本人の感覚を読む』(角川選書、2016年)を読んでいて、いわゆる記紀神話の世界をその「外部」から見直す視点を教えられた。
より一般的には、「中心」を「地方」と「古層」という二重の外的観点から相対化する方法をそこから学んだと言うことができる。
今日の記事では、上田氏の『日本神話』を取り上げよう。
上田氏が指摘するように、神代に関して、『古事記』と『日本書紀』とでは異なった観点で書かれているのだから、「記紀」と一括して一つの調和的な神話世界を構成しているかのように捉えること自体に問題がある。両者の差異を明らかにするには、言うまでもなく、両者の内的読解がまず必須である。
しかし、両者それぞれを風土記の神話世界と比較することで、両者の神話世界間の差異をより明確に浮かび上がらせることができるだろう。宮廷神話と各地域の神話、書かれた神話と民衆のあいだに語りつがれた神話、それらの間にはいくつかの断層と新旧の重層があるが、これらの断層と重層とを明らかにするために「風土記」は不可欠な第一次文献なのである。
特に、『出雲国風土記』は、中央から派遣された官僚の手によって編纂されたものではなく、出雲の地域に土着した豪族出雲臣広嶋と出雲人神宅臣金太理を筆録責任者としているだけに、「中央」を「地方」と「古層」とから相対化するためにきわめて貴重な文献だと言うことができる。
やはり縁というものはあるのかもしれないと思わせる出来事が今日あった。
私の父方の祖父は、美術評論家で、壮年期に日仏芸術交流に尽力した人だった。ただ、金銭の扱いにはどこか浮世離れしたところがあったようだ。そのことをめぐるエピソードについては、事実上秘書のような役回りを務めていた今は亡き母から何度か聞いたことがある。
その話を聞きながら、「そこまで? すっげー」って呆れる一方、まずいなぁ、隔世遺伝しているかも、いや親父も金のことはだめだったから、隔世じゃなくて、これは端的に血筋ってやつか、と暗澹としつつも、他方では、あれっ、これって、ネガティブな自己正当化じゃん、と苦笑することが一再ならずあった。
今年はその祖父の没後五十年目になる。ここ十数年のことだろうか、何人か祖父のことを研究対象としている研究者の方もいらっしゃるようだ。何年か前からウィキペディアには祖父の項目があり、短いものだが、内容は正確だ。
ある年鑑には、次のように紹介されている。部分的に、そして一部略号化して引用する。
享年82才。明治18年1月15日世田谷区に生れ、府立一中、第一高等学校を経て明治43年7月東京大学文科大学哲学科を卒業。明治44年2月から大正3年2月まで読売新聞社勤務。同年より6年9月まで「趣味の友」社、児童教養研究部主宰。7年8月より13年8月にかけて三越勤務。同8月より黒田清輝の推挙で日仏芸術社をフランス人デルスニスと共同主宰した。日仏芸術社は昭和6年まで9回にわたってフランス美術展を日本各地と満洲国で開催して新旧のヨーロッパ美術の輸入をはかり、かたわら雑誌「日仏芸術」を発行して美術の啓蒙に貢献するところが大きかった。昭和4年5月から9月に同社主宰のパリ日本美術展には代表として渡欧した。一方大正14年4月から昭和24年3月まで文化学院、東京女子専門学校教授、24年4月から41年10月までT・K大学教授として美学・美術史学を担当した。主要著書、「奈良と平泉」(大正2年)「趣味叢書」(大正3年)「美学及び芸術学概論」(大正6年)「大日本美術史」(大正13年)「芸術概論」(昭和8年)「日本美術史概説」(昭和8年)「美学概論」(昭和9年)「日本美術史読本」(昭和9年)他。
祖父が晩年十七年間勤務した大学で現在教授を務められている方が、来年三月、学生を連れてストラスブールを訪れ、弊学科の学生たちと交流をもちたいのとの希望をもっていらっしゃるとのこと、その仲介役を私的な関係で引き受けられた方から、今日、聞いた。
話を聴きながら、まったく思いもよらないことだったので、ちょっと驚いた。私自身はその大学とは何の繋がりもない。祖父のことがなければ、ただ単に「どうぞいらしてください、歓迎しますよ」と型通りの挨拶をして済ませたところであろう。
仲介役を買って出られた方も、上掲のような祖父の略歴を私が話すと、一驚され、「これは何かの縁かもしれませんね」と喜んでいらっしゃった。
幼少の頃、祖父母とは同じ家に住んでいたが、祖父と何か実のある話をするには私があまりにも小さい頃に亡くなってしまったので、今となっては、ほとんど祖父の思い出は残っていない。
ただ、亡くなった日のことは、かすかに覚えている。家族で朝食を取っていると、祖父の看病をしていた祖母が離れから手を叩いて、私の父に容態の急変を伝え、すぐに来るように大きな声で呼んだ。すぐに医者も呼び、その医者が来るまで、隣家の従兄が人工呼吸を試みた。だが、蘇生することはなかった。
それから半世紀が経った。
祖父よ、あなたの不肖の孫は、ここ十数年、フランスの大学で働いております。在仏も丸二十一年になりました。でも、あなたのように時代に先駆けるような仕事は非力な私にはとてもできません。それでも、あなたとは別の仕方で、たとえささやかではあっても、日本とフランスを繋ぐ仕事をしたいと、無い知恵絞って足掻いております。この度、思いもよらぬ縁で、あなたが教鞭をとられていた大学とのお付き合いが始まるかもしれません。このご縁を大切にするつもりです。どうぞお見守りください。
本居宣長の『玉勝間』二の巻「桜の落葉」には、「師の説になづまざる事」「わがをしえ子にいましめおくやう」とそれぞれ題された二文が連続して収められている。そこには、宣長の学者としての誠心が決然と表現されている。
たとえ師の説であろうが、ただそれを墨守するのではなく、その中に誤りがあれば、あるいはそれよりよい説が現れれば、それによって師の説を改めることこそが学問の正道なのだ、とういうのが前者の主旨である。
あまたの手を經るまにまに、さきざきの考ヘのうへを、なほよく考へきはむるからに、つぎつぎにくはしくなりもてゆくわざなれば、師の説なりとて、かならずなづみ守るべきにもあらず、よきあしきをいはず、ひたぶるにふるきをまもるは、學問の道には、いふかひなきわざ也、又おのが師などのわろきことをいひあらはすは、いともかしこくはあれど、それもいはざれば、世の學者その説にまどひて、長くよきをしるごなし、師の説なりとして、わろきをしりながら、いはずつゝみかくして、よさまにつくろひをらんは、たゞ師をのみたふとみて、道をば思はざる也、宣長は、道を尊み古ヘを思ひて、ひたぶるに道の明らかならん事を思ひ、古ヘの意のあきらかならんことをむねと思ふが故に、わたくしに師をたふとむことわりのかけむことをば、えしもかへり見ざることあるを、猶わろしと、そしらむ人はそしりてよ、そはせんかたなし、われは人にそしられじ、よき人にならむとて、道をまげ、古ヘの意をまげて、さてあるわざはえせずなん、これすなはちわが師の心なれば、かへりては師をたふとむにもあるべくや、そはいかにもあれ、
この文章の中での「道」は、真実・真理・誠と置き換えてもよいだろう。このような学問的精神は、当然、己自身の学説に対しても適用されなくてはならない。それゆえ、子・弟子・後進に向かっては、よりよい考えが出てきたら、私の説に拘泥するな、私に遠慮するな、私の説を批判し、よりよい考えを広めるために前に進め、と宣長は鼓舞する。
吾にしたがひて物まなばむともがらも、わが後に、又よきかむかへのいできたらむには、かならずわが説にななづみそ、わがあしきゆゑをいひて、よき考へをひろめよ、すべておのが人ををしふるは、道を明らかにせむとなれば、かにもかくにも、道をあきらかにせむぞ、吾を用ふるには有ける、道を思はで、いたづらにわれをたふとまんは、わが心にあらざるぞかし、
共時的な学問共同体の中だけではなく、どこまでも開かれた通時的共同体の中で、未来に向かって真理を探求することが学問の目的なのであって、師を崇め奉り、あるいは権威を恐れ、その目的をおろそかにすることは、師を裏切ることにほかならない。
反逆のための反逆が目的なのではもちろんない。そんなことに何の意味があるか。しかし、真理探究のための「反逆」、これなしに学問は成り立たない。
今日の修士一二年合同演習では、七名の学生にレヴィ=ストロース『月の裏側』の最初の文章「世界における日本文化の位置」について各自の意見を口頭発表させた。
いわゆるできる学生とできない学生との間には、日本語での文章構成能力・議論の構成能力に相当のひらきがある。しかし、そのひらきは、伝えたいことを伝えうる、そして相手の関心を惹きつけ、そこから対話を成立させる、いわゆるコミュニケーション能力のそれとは一致しない。
かなり流暢に話せる学生もいるし、語彙が豊富な学生もいる。しかし、そのような「優秀な」学生がコミュニケーション能力も高いとはかぎらない。当然のことだが、コミュニケーションには相手がいる。その相手に応じて、より効果的な表現を選べる能力は、いわゆる語学能力とは別の能力だからである。
日本語としてはほぼ完璧だけれども、言いたいことを相手に上手に伝えることができない学生がいるかと思えば、間違いだらけの日本語を使いながら、ちゃんと言いたいことを伝えうる学生もいる。
この違いはどこからくるのか。その主な理由として、特に次の二つを挙げることができる。
まず、相手のレベルに合わせる能力。相手がどの程度の理解能力をもっているのかを的確に判断し、それに応じて表現の仕方・内容を考えることができる能力ということである。いくらご立派な意見を述べようが、聞き手が何も理解できなければ、コミュニケーションとしては無意味に等しいではないか。
つぎに、言葉以外の補助的手段による表現能力。言語表現力が十分ではないとき、ジェスチャーでもなんでもいいが、言葉は悪いが、とにかく使えるものは何でも使って、言いたいことを伝える能力ということである。
単に純粋に言語表現をキレイに整えることは、試験のためなら、あるいは自己満足のためなら、意味があるかもしれないが、コミュニケーションのためにはあまり意味がない。少なくとも、それは第一義的な目標ではありえない。
どうしてもこれだけは今眼の前にいる相手に伝えたい、そういう気持ちをもって、いわばなりふり構わず、使えるものはなんでも使う、そういう姿勢をもった学生(にかぎらないけれど)が、総合的には一番コミュニケーション能力が高い(あるいは、高くなっていく)。
もちろん、いつまでもそういう無手勝流でいいのだということではない。つねによりよい表現を目指すという向上心のない人間の話など、そもそも聴いていて面白いはずもないではないか。
私が学生たちに身につけてほしいのは、このような総合的表現能力なのだ。この意味で、日本語学習はその補助手段でしかない。
では、どこから始めるか。
まずは、とにかく声に出してごらん、ということから始まる。間違い・誤解・失敗を恐れずに、失笑・嘲笑・憫笑に怯むことなく、まずは相手に聞こえる大きな声で言葉を発してごらん。極端に言えば、言葉にならなくたっていいんだよ。言葉が見つからなくて、唸るだけでもいいんだよ。それも自己表現なんだから。そんなふうに自分を晒してごらん。
そんな言葉を失う困惑の只中の佇立こそが言葉の生誕地なのだから。
この半世紀の日本古代史における学問的成果は、古代日本の文化がいかに東アジアの世界と連動していたかをつぎつぎと実証してきた。そのことは学校教科書にも反映されている。古代史の講義を担当するようになって、私自身、素人ながら、古代日本史を古代東アジア世界の中に位置づけ、国外の動向と国内の事象との連動性をしばしば授業中に強調している。
その観点から見ると、その国にとっては境界領域あるいは辺境こそが異文化に接する最前線になることもよく見えてくる。例えば、漢字文化との直接的なふれあいが、朝鮮半島に近い対馬や北九州などではじまったことは、容易に推測することができる。
対馬で発見された如来座像の銘文の中に北魏の年号の興安二年(453)と刻銘されていた。もちろんそれだけでは、この如来坐像がいつ対馬に伝えられたかを確定する証拠にはならない。しかし、仏教文化の伝来が中央政権が形成される大和地方よりも対馬や北九州などの方が早かったことは、『日本霊異記』や『新撰姓氏録』の伝承などからうかがわれると上田氏は言う(同書第Ⅱ部「渡来文化の諸相」第一章「文字の使用」「4 文字のひろまり」「漢字の理解」冒頭参照。私が読んでいるのは電子書籍で、選択する文字の大きさで頁数が変わってしまうので、頁数は示しても意味がない)。
私は、数年前から、特に対馬に注目している。それは古代から近世まで、大陸、とりわけ朝鮮半島との交流において対馬がきわめて重要な地政学的役割を果たしているからである。
上田氏は本書のあとがきで、対馬藩の儒学者雨森芳洲(1668~1755)の『交隣提醒』から次の一節を引いている。
誠信の交わりと申す事、人々申す事に候へども、多くは字義を分明に仕えざる事これあり候。誠信と申し候は実意と申す事にて、互いに欺ず争ず、真実を以て交り候を誠信とは申し候。
私たちが生きている現代世界は、芳州が定義した誠信とはまさに真逆の方向に向いつつある、と言わざるを得ないであろうか。
昨年三月に亡くなられた日本古代史研究の第一人者上田正昭氏は、1965年に中公新書の一冊として出版された『帰化人』の中で、古代日本史において「帰化」・「帰化人」という概念を使用することへの疑義を呈し、それにかわって「渡来」・「渡来人」という語の使用を提唱した。同書の出版以降、ほとんどの歴史教科書が「渡来」・「渡来人」という語に切り替えていった。
上田氏の「帰化」概念批判は、「帰化」すべき統一国家が存在せず、「帰化」のあかしになる戸籍が存在しない時代に、「帰化人」とよぶべき人間のいるはずがないこと、「帰化」はそもそも「内帰欽化」という中華思想の産物であって、帝国周囲の夷狄が中国皇帝の徳化によって「帰属し、欽び化す」ことを意味していたこと、「帰化」という用語は『日本書紀』には頻用されているが、『古事記』『風土記』にはまったく使われていないことなどを論拠としていた。
この点に関して、昨年の発売以来非常によく売れているらしい『いっきに学び直す日本史』(東洋経済新報社)に一言苦言を呈しておきたい。
本文中には、同書でも「渡来人」という語が十数ヶ所使われているが、索引にはこの語がなく、「帰化人」という語のみ掲載され、示されている二頁(55、56頁)を見ると、そこに見られるのは「渡来人」についての記述であり、「帰化人」という言葉は出て来ない。ただ、百済・高句麗の「遺民が多数帰化してきた」という記述は見られる(55頁)。しかし、同頁に、「日本に渡来し、日本の国籍を得た外国人を渡来人という」定義が掲げられており、これでは、上田氏の上掲書での「帰化人」概念批判をまったく考慮していないことになる。おそらく、校訂以前は「帰化人」となっていたところを機械的に「渡来人」に置き換えただけだったためにこのような不整合な記述が生じてしまったのだろうと推測される。
さて、三年前に出版された上田氏の『渡来の古代史 国のかたちをつくったのは誰か』(角川選書)は、『帰化人』出版後ほぼ半世紀の古代史における学問的成果を踏まえて、それに伴っての著者自身の見解の深まりとともに新たな見地から渡来人についての考察をまとめた大変に読み応えのある一書である。
『渡来の古代史』において、豊富な事例に基づいて多角的に実証されていることを一言でまとめれば、以下の通り。
渡来人たちは、政治や経済ばかりでなく、文化の分野でも大きく活躍した。それは「影響」という言葉では覆いきれない。なぜなら、渡来人たちは、古代日本文化のそのものの担い手として活躍し、文化の創造にも注目すべき役割を果たした。
明日の記事では、同書の中で特に私の関心を引く何箇所かについて、感想を述べることにする。
昨日の「仏セブン」の人気ランキング投票についてですが、普段ほとんどコメントが付くことがない拙ブログであるにもかかわらず、空海にのみ二票入りましたから、世間では空海の好感度が高いように推測されます(って、ちょっと強引すぎるかなあ)。
巷間の空海ブームには、司馬遼太郎の『空海の風景』が一つの大きなきっかけになっているのかもしれませんが、末木文美士『仏典をよむ 死からはじまる仏教史』(新潮文庫)によると、丸山眞男に代表されるような平安時代の密教に対する否定的な態度が反転するのは一九八〇年代だそうです。
このような反密教主義が転じて、密教が一種の流行現象となるのは一九八〇年代あたりからで、近代的な合理主義の行き詰りから、非合理的な宗教への関心が高まった。先に挙げた空海ブームもその一環をなすが、チベット密教が大きく取り上げられたのもこの頃である。しかし、そのような非合理主義が行き着いた先は、オウム真理教が引き起こした一連の悲劇的な事件であった。(235頁)
今日の記事の話題は、しかし、現代日本における密教への関心の高まりについての末木氏の見方の当否ではありません。もっと軽い気持ちで、「仏セブン」の中で、詩人的資質に一番恵まれていたのは誰かなあと考えてみたかっただけです。これはもう空海が断然トップでしょうね。ついで道元ですかね。
空海がもし現代芸術の世界に突如登場すれば(教団内では、即身成仏して死んでないってことになっているらしいし)、世界的に活躍する総合的クリエイターにたちまちなること間違いなしでしょうね。
篠原資明著『空海と日本思想』(岩波新書、2012年)という、行論がアクロバティックな飛躍に満ちていてスリリンクな読書体験が得られる本があります。その中には、空海の著作からの引用も多数あり、それをちょっと読んだだけでも、詩人空海の語彙の豊穣・華麗さ・鮮やかさ、そして鋭さに、さらには、想像力のスケールの大きさに、圧倒されてしまいます。
それに、読んでいるだけで、何かこちらにもエネルギーが充填されるような気がして、元気になります。篠原書からの孫引きになりますが、『性霊集』の二編「大和の州益田の池の碑の銘」「山に遊むで仙を慕ふ詩」それぞれからほんの一部を引いて、本日の記事の締め括りとします(訓読ならびに現代語訳・注解については、篠原書、あるいは岩波古典文学大系『三教指帰・性霊集』などについて見られたし)。
日月運転して
山河錯り峙てり
千名森羅として
万物雑り起る
藤膚既に隠れて
稷秔爰に始まる
天池人池
灑ぎ霑す功似たり
一身独り生歿す
電影是れ無常なり
これからわしが申し上げますことには、皆様にあられましては多々ご異論もお持ちのことと拝察申し上げますが、孤死あるいは枯死を淡々と待つ一人の老人の戯言としてお聞き流しいただければ幸甚に存じます。
日本人を開祖あるいは宗祖とし、日本の地で生まれた仏教の宗派で、代表的であり且つ現在も信徒数が多いのは、開祖の生年順に並べますと、天台宗(開祖・最澄 767-822)、真言宗(開祖・空海 774-835)、浄土宗(法然 1133-1212)、臨済宗(開祖・栄西 1141-1215)、浄土真宗(開祖・親鸞 1173-1263)、曹洞宗(開祖・道元 1200-1253)、日蓮宗(開祖・日蓮 1222-1282)ということになりますじゃろう。
つまり、七宗派であり、それらの開祖あるいは宗祖たちは、日本仏教のいわば「神セブン」、ということになりますが、さすがに仏教の宗派のことですから、「神」はまずいじゃろうから、「仏セブン」となりますかのう。
もしこの「仏セブン」の人気ランキング投票をしたら、結果はどうなるじゃろうか……などと、ほんと他愛もないことを今日はぼんやりと空想しておった次第です(どなたかな、「あんたも暇じゃのう」とこっそり呟いているのは。わしは年は取ったが、耳はまださほど遠くはなっておらぬぞよ)。ただし、この投票に際して、教団および信者たちの組織票はこれを排除する、という約束は厳守しての話でござる。つまり、これら開祖の教義についてどれだけ知っているかどうかはともかく、誰の好感度が高いかってこっちゃ(そんなん調べて、どーすんねん)。
今の日本のことはもうようわからんようになってしもうたが、わしが思うに、やはり、一位は親鸞さんかのう。二位は、誰じゃろう。道元はんか、あるいは空海さんかのう。逆に、熾烈な最下位争いをしそうなのが、最澄、栄西、法然さんたちやろうか。過激な日蓮はんの人気はどうやろか。
わしの個人的ランキングは、トップから順に、親鸞、道元、空海、最澄、日蓮、法然、栄西となるかのう。ほんま、どーでもええことやけど。
こんなアホなことを空想しながら、空海はんの『即身成仏義』(ちくま学芸文庫版『空海コレクション 2』所収)を覗いておりました(やっぱ、空海すっげー)。
最後に、爺の戯言をここまで読んでくださった慈悲深いこと海の如き読者の方々への感謝の徴として、末木文美士『日本仏教史』(新潮文庫)から、『即身成仏義』についての一節を引用いたしまする。それでは皆様、ごきげんよろしゅう。
この理論は密教の理論であると同時に、もう一方では、興味深いことにいわば日本人の宗教観を理論化したともいえる面をもっている。一体、日本人はこの現象界の外に絶対神をたてたり、イデア的世界を認めたりせず、現象世界をそのまま肯定する傾向が強い。もともとアニミズム的世界観に由来するもので、とくに自然世界を尊重することが多い。汎神論的な六大説はこのような日本人の世界観にきわめてよく合致している。のちの道元の思想や親鸞の自然法爾説にもこの傾向は受けつがれる。(115頁)
いきなりですが、みなさん、文脈なしに、「コシタンタン」って、音だけ聞いたら、まず何を思い浮かべられますか。
故事成語にまったく無知な輩(って、日本人限定で言ってますよ、念のため。そういう輩はたぶんこの漢字も「ヤカラ」って読めないかもしれないですね。「先輩」の「輩」だから、「パイって読むの?」ってところが関の山(って、関取の名前でもないし、山の名前でもないですよ)ですかね)は、「コシタンタン」って、「腰のある担々麺のこと?」って、畏れ多くも宣(のたま)われるかもしれませんね(クワバラクワバラ)。
むか~しむかし、高校入試を控えた中学生を塾(って「受苦」と発音同じだね)で教えていました。それは古典の授業でした。平家物語のある一節に関する四択問題で、「次の四つ訳の中から正しいものを選べ」という設問でした。当該の語句は「こはいかに」です。もちろん、正解は、「これはいったいどうしたことか」です。
常々感心するのは、出題者が考え出す誤った選択肢です。これは正解を考えるよりはるかに難しい。なぜなら、誤答を考えるためには、専門家としての知識と一般人としての常識とだけでは十分ではなく、作家的な豊かな想像力と芸人的な余裕あるユーモアも必要だからです。ちなみに、この両者を兼ね備えることなしに知性はありえない、と私は愚考つかまつっております。
それでね、その「こはいかに」のことなんですが、誤った選択肢の一つに「怖い蟹だなあ」ってのがあったんですよ。これには、私が教えていた出来の芳しくない、日本人なのに日本語がなぜか不自由な中学生も、さすがにこれは「ありえん!」って、抱腹絶倒していましたよ。
でもね、この子の無知ぶりというのは、ほとんど無双と言ってもいいほど、すごかったんですよ。あるとき、自分よりも少し年上の女性―といっても二十歳前ですが―が、丁寧な礼状をその子のお父さんにある一件について送ったことがあったんですね。その手紙の末尾に「かしこ」って書いてあったのをその子がたまたま読んで、「ふ~ん、〇〇ちゃんて、本当の名前は「かしこ」っていうんだぁ」と言うのを聞いて、その子の両親は、一瞬絶句し、その後悶絶し、呼吸不全で救急車で病院に運ばれたそうです(っていうのは、もちろんウソです)。
話を元に戻しますと、「コシタンタン」って、「虎視眈々」でしょ、というのが良識ある日本人の一般的な答えですよね。ある辞書によると、「虎が、鋭い目つきで獲物をねらっているさま。転じて、じっと機会をねらっているさま。「虎視眈眈とチャンスをうかがう」」ということになります。
私は、それに対して、発音だけ同じということで、「孤死淡々」という四字熟語を提案したく思っております。「どういう意味?」って思われた方も少なくないことでしょう。でも、難しいことではございません。
ここ数年メディアでも頻繁に取り上げられ、行政もその対策に躍起になっている素振りを示しはじめているかに見える社会現象として、「孤独死」あるいは「孤立死」ということがありますね。その事後処理がビジネスとして成り立っているというのが現実です。その現場の悲惨さは、私もネット上の特集記事をいろいろ読んで一応の認識は得ておりますし、それらの記事を読みながら、「ほんと、他人事じゃないよなぁ」と、一再ならず長嘆息したことがあることをここにショージキに告白しておきまーす。
でもね、いつどこで死ぬかわからないのは誰も同じですよね。ですから、あまり今の自分のあり方を深刻に考え過ぎずに、路傍にその屍を静かに横たえる野良犬(って、日本ではいなくなっちゃいましたけど、インドなんか、今でもガンジス川沿いにゴロゴロいるんじゃないですか)のように、孤独な死をそれとして淡々と受入れる生き方があってもいいのではないかと思うんです。というわけで、「孤死淡々」という四字熟語を考案した次第でございます(いつか辞書に採用されることを夢見つつ……)。
別案として、「枯死淡々」というのもあります。冬枯れの樹木が、実は誰にも気づかれずにひっそりと冬の間に枯死していて、翌春、芽吹くことなく、花咲くことないのを見て、はじめて人々はその死に気づく、という「心」でございます。
遠い昔に書かれた日本語の古典を原文で読んだだけで、その文章の書き手の息遣いまで感じるということはなかなかに難しい。だから、原文の表現のニュアンスをよりよく感じ取りたければ、学者先生たちの注釈をたよりにすることになる。注釈の中には現代語訳もついているのがある。それを読めば、確かに内容はよりよく理解できる。でも、その現代語訳は、現代日本語としては不自然だったり、ぎこちなかったりして、とてもその訳を文学作品として鑑賞することは難しいことが多い。それはあくまで原文を味わうための補助手段にすぎない。このことは当の訳者である先生たち自身がよくご存知のことだ。
そのような学者先生たちの現代語訳とは違って、文学者が現代語に訳した古典には、それ自体が作品として読めるような見事な文章に仕上がっている場合もある。
河出書房新社から出ている池澤夏樹個人編集の『日本文学全集』にはそんな名訳がたくさん収められている。
伊藤比呂美が訳した『日本霊異記』には、かなり露骨な表現も散見されるが、原文でも相当に大胆な表現が採用されている。平安時代にこの説話集を読んだ人たちには、きっと私たちが伊藤比呂美訳を読んで感じるのと同じか、あるいはそれ以上のインパクトがあったのではないかと想像される。
下巻の最後から二番目の第三十八話には、世間のお偉方の堕落を叙述した後に、突然、著者景戒自身の自虐的とも言える懺悔の言葉が「嗚呼恥哉」から始まり、それは数行に渡り、「鄙哉我心微哉我行」と締め括られる。そこを読むと、昔も今も変わらないよなあ、とつくづく思う。伊藤比呂美訳を引いておく。
ああ、はずかしい。あさましい。
この世に生まれて生きてはいるが、生き方がわからない。
因果の理に引きずられて、執着する。
業や煩悩にまつわりつかれて、生き死にをくり返す。
あくせくとかけずりまわって、この身を焦がす。
俗家に住んで、妻も持った、子も出来た。
でも養うものがない。
食うものがない。菜がない。塩がない。衣がない。薪がない。
いつだって何もない。
何をあくせく。
明日をのみ思いわずらう。
昼は飢えて寒い。夜もまた飢えて寒い。
わたくしが前世で施しをしなかったからだ。
いやしすぎるぞ、わが心。
あさましすぎるぞ、わが行い。