内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日本的思考における主体性、あるいは非実体的・可塑的「場」としての現実性

2017-10-11 23:59:59 | 哲学

 まったく誤訳のない翻訳書というものはまずありえないと言っていいし、ましてや、訳に異論の余地がある場合も含めれば、ほとんどすべての翻訳書にはなんらかの問題があるとさえ言えるだろう。
 人の翻訳の粗探しをするのは、だから簡単なことで、そういう文句をつけてまわるのが趣味みたいになっている人もいるようだが、私にはそういう趣味はないし、そんな時間もない。
 ただ、信頼できる訳者によるすぐれた翻訳を原文と比較しながら読んでいて、訳の問題がきっかけとなって、さらに大きな問題を考えさせられることはしばしばある。
 例えば、今日の修士の演習のためにレヴィ=ストロースの『月の裏側』(川田順造訳、中央公論新社、2014年)をその原書 L’autre face de la lune (Seuil, 2001) と照らし合わせながら読んでいて、ここはまずいな、これではレヴィ=ストロースの言いたいことの逆になってしまっている、と気づいた箇所をその例として挙げることができる。
 その問題箇所は、「世界における日本文化の位置」という最初の文章の終わりの方で、西洋における主体と日本における主体とを比較している段落(原書51頁、翻訳38頁)の中にある。レヴィ=ストロースがそこで主張していること自体、多分に議論の余地があるが、今、そのことは措く。
 その段落で、レヴィ=ストロースは、西洋哲学の主体が、遠心的、つまりそこからすべてが出発する中心であると考えられるのに対して、日本的思考が構想する主体は、むしろ求心的、つまり、さまざまな要因が働き、次第に狭い帰属関係が限定されていく結果として生じるもののようだと自身の考察を述べている。そして、その段落をこう結んでいる。

Le sujet retrouve ainsi une réalité, il est comme le lieu dernier où se reflètent ses appartenances.

このようにして、主体は一つの実体となります。つまり、自らの帰属を映し出す、最終的な場となるのです。

 ここで réalité を「実体」と訳したのは、不適切であるだけでなく、レヴィ=ストロースが日本的思考における主体を、それ自体で存在する substance あるいは entité ではなく、réalité とした意図をまったく裏切ってしまっている。なぜなら、日本的な主体は、帰属関係の帰結を反映する「場」として発生する非実体的なものとして機能する「現実性」だというのがここでのレヴィ=ストロースの主張だからである。
 ここから非実体的・可塑的主体性論を展開することができるだろうと私は考えるが、そう考えるきっかけを与えてくれたのがまさに「実体」という不適切な訳だったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


思想史の方法としての可塑的〈古層〉概念の可能性

2017-10-10 19:20:36 | 講義の余白から

 今日は、この九月から初めてのことだと思うが、終日家に籠もって講義の準備に専念することができた。もちろん、仕事上の若干のメールは来たが、こちらから返事をする必要のある案件は一件しか来なかった。学生から届いた作文の宿題も今日は少なく、それぞれに五分後には添削して返信した。
 それに、いつも通っている近くの市営プールがストのため、開門がいつも七時ではなく、八時になり、それで、午後四時から行くつもりでいたのだが、午後三時までで今日は閉まることが昼過ぎにサイトを見たら告知してあり、結果として、今日は水泳もやむなく休む結果となった。
 朝からずっと『古事記』の上巻を読み直していた。講義で紹介する原文箇所とその仏訳の対照表をエクセルで作成するためであった。夕方までかかったが、古事記の神話構造についての私なりの個人的「発見」もあったりして、なかなかに楽しい作業であった。
 その作業を終えた後、丸山眞男の「歴史意識の古層」に思いを致した。今日では、丸山の古層論は批判的に言及されることが多い。私自身、歴史のある時点に古層が何か固定された実体として形成され、それ以降、表層の変化にもかかわらず、歴史を通じてその古層が不変のままにとどまると考えるような決定論、日本思想史における古代からの「等質性」を実体化するような決定論にはまったく同意できない。
 ただ、末木文美士『日本宗教史』(岩波新書、2006年)を読んで考えたことは、「古層」という概念を、宗教思想史にかぎらず、思想史一般における可塑的概念として方法的に使うことはできるだろう、ということである。このことについて、一言で今の私の考えをまとめると次のようになる。
 古層そのものが時代の変化の中でつねに形成過程にあり、それは現在でもそうであり、その可塑的・過程的〈古層〉をその都度の現在において規定し直すことそのことが、その上に積み重なった複数の〈新層〉、現在の〈表層〉、あるいは局所的な〈断層〉・〈褶曲〉を新たに規定し直すことにほかならず、この作業は、単にこれまでの思想のダイナミズムを解明することを可能にしてくれるだけでなく、現在の思想にダイナミズムを与えることを可能にしてもくれるだろう。












漢字の彼方の遡行不可能な根源としての〈原日本語〉への永遠回帰

2017-10-09 18:28:02 | 哲学

 最初から記録とその保存を目的とし、音読されることを想定していない文書であれば、その中に用いられた漢字の読みが確定できないとしても、その意味さえ確定できれば、それで用は足りるわけで、私たちは読みの不確定性によってそれほど居心地の悪い思いをしなくてすむだろう。
 まったく逆に、もともと音読されることを前提としたテキストでありながら、その中に使用されている漢字の読みが確定できないと、私たちはテキストそのものへ近づくことをそのことによって阻害されていると感じることだろう。それは、どの音に対応するのかわからない音符が紛れ込んだ楽譜を前にしたときの困惑に似ているかもしれない。
 ましてや、もともとは書かれたテキストではなく、声に出して誦習されたテキストを、そのテキストの言語とはまったく起源を異にした文字言語で書記しなければならなかった『古事記』の「本文」を前にするとき、そのテキストを後世に伝える機能を果たしているはずの表記文字がその彼方の音声テキストへの私たちのアクセスを拒絶しているかのような絶望感に捕らわれないであろうか。
 この絶望感に抗して、「ありのままの古代日本語」の生ける姿を再生させようというほとんど不可能な大事業のために三十数年に渡って営々と積み重ねられた努力の結晶が本居宣長の『古事記伝』であると言ってよいだろう。
 根源への遡行のためのこの膨大な絶望的努力と、今・ここでの生ける感情を重んずる「もののあはれ論」とは、矛盾しないどころか、互い他方を支え合っている。
 根源は、そこへの遡行が不可能な、それゆえにどこまでも〈異なるもの〉として彼方に逃れるものであるということは、私たちが本来的な真実からいつも遠ざかりつつ生きざるを得ない存在であることだけを意味しているのだろうか。
 しかし、そのような現実の生の非本来性から本来的な真実への回帰はロマンティシズムの運動としてしかありえないわけではない。根源への遡行不可能性は、出口のない絶望・自暴自棄や盲目的な熱狂・狂信に導くと限ったわけでもない。
 その遡行不可能性にもかかわらず、私たちが根源によって生かされているとすれば、その根源を固定化することなく、他のものをそれと取り違えることがないようにいつも注意深くあり、何度でもそこへと立ち戻ろうという試みの姿勢を保ち、その過程そのものから何かを新たに学び直そうし続けることが私たち一人一人に「存在論的に」要請されている、と言うことができるのではないであろうか。












『日本霊異記』― 現世の秩序を超えた驚愕の世界

2017-10-08 23:59:59 | 講義の余白から

 古代文学史で取り上げる主要な作品といえば、なんといっても『古事記』と『万葉集』ということになるし、時間的な制約からも、他の諸作品については挨拶程度に言及するにとどめて通り過ぎることが多い。
 しかし、今年度は、『日本霊異記』も少し時間を割いて取り上げることにした。それは、単に現存する日本最古の仏教説話集だからという文学史的位置のゆえばかりではなく、その中には民衆の生活の中にどのように仏教信仰が浸透していったかが生き生きと描かれていて大変興味深いからである。ただ、中には、かなり刺激の強い話も含まれていて、読んでいてあまりいい気持ちのしないときもあるが。
 そのような話も含めて、その多くは、正式書名『日本国現報善悪霊異記』からもわかるように、善悪の因果応報が来世を待たずにこの世に顕現する話である。それらの中に見られるのは、しかし、現世を現世内で合理的に説明しようとする態度とは対極的であり、現世を超えた秩序の支配が前提とされている。因果の理法は凡人の理解を超えたものであり、どんな結果が起こるかわからない、ということである。
 末木文美士『仏典をよむ 死からはじまる仏教史』(新潮文庫、2014年)によれば、『日本霊異記』が示しているのは、仏教によって「これまでの日本の一般の人々が想像だにしなかった異次元の世界が開かれ」たことであり、その世界はまさに「現世の秩序を超えた驚愕の世界」である(189頁) 。そんな世界の一端を講義の中で覗いてみようと思っている。
 ただ、私自身の思想史的関心からすると、末木書の『霊異記』に割かれた一章の末尾の次の問いかけがとくに重要に思われる。

 日本の仏教の二重性という最初の問題にもどると、仏教は抽象的な理論によって日本に定着したのでもないし、逆に理論なしに土着の民俗だけがあるわけでもない。むしろ民衆の中に定着していく中で、仏教の理論は深められ、表層から深層へと食い込み、現実にはたらく強力なパワーとなる。因果の理法は皮相的な合理的法則にとどまるものではなく、現世を超えて、死者の世界に通ずる驚嘆すべ論理としてはたらく。[中略]
 これらの動向は、決して仏教の低俗化でもなければ、単純な逸脱でもない。思想が本当に現実の力となってはたらくとき、それはもはや机上の空論ではなく、思想が現実の中で自らを鍛え、自らを造り出していくのだ。そのような思想のダイナミックな動きとして、日本の仏教を読み直していくことはできないだろうか。(203-204頁)












「古代史・古代文学史」中間試験予想問題 ― 歴史的想像力を問う

2017-10-07 23:59:59 | 講義の余白から

 史実を伝える歴史書としての資料価値は高いとは言えない『古事記』に依拠した歴史記述が今日の歴史書にはほとんどないのは当然のことです。
 例えば、高校の歴史教科書として最も詳細な山川出版社『詳説 日本史B』(2014年)には、たった一回『古事記』についての言及が見られるだけです。それも、天武天皇の時代に始められた国史編纂事業が奈良時代の初めに『古事記』『日本書紀』として完成した、とあるだけです。
 この教科書に準拠した同社の本格的な参考書『詳説 日本史研究』(2009年)でさえ、索引には言及箇所が三頁しか示されておらず、天平文化の項で、「記紀の編纂」について数行割かれ、参考記事として「記紀の神話」というコラムが設けられているだけです。
 昨年出版されて、またたくまに大ベストセラーとなった『いっきに学び直す日本史』(東洋経済新報社、往年の名参考書『大学への日本史』の改定復刊)では、言及箇所は七ヶ所ありますが、いずれの箇所にも立ち入った記述はなく、『古事記』そのものを主題とした箇所でも、次のような記述にとどまっています。

『古事記』3巻は、天武天皇のとき稗田阿礼に命じて帝紀・旧辞を誦習させたものを、のち太安万侶らが筆録し、712(和銅5)年に完成したもので、神代から推古天皇までの神話・伝承・歴史を漢字の音訓をたくみに使って日本語で表現した。(95頁)

 しかも、原文で太字で強調された「日本語で表現」というのは不正確な言い方で、誤解を招きます。むしろ、変則の漢文体と言うべきでしょう。
 放送大学の印刷教材を基にし、それを改訂増補した『大学の日本史 ①古代』(山川出版社、2016年)でも、『古事記』についてわずか三箇所で言及されているだけで、天武天皇に始まる国史編纂事業については言及さえ見られません。『万葉集』や『日本霊異記』からの引用のほうが目立つほどです。
 もちろん、文学史になれば、話は違います。講義で使っている高校生向けの参考書『原色シグマ新日本文学史』(文英堂、2000年)や『古典入門』(筑摩書房、1998年)などには、『古事記』の表現・文体について何行かの記述が見られます。例えば、前者には、次のような記述があります。

純粋な漢文体で記された序文以外は、漢字の音訓をまじえた変則の漢文体で記されており、語りつがれた本来の国語を忠実に伝えようとする努力がなされている。とくに歌謡や重要な語句は、万葉がなによる一字一音式の表記によって古意を伝える工夫がなされている。(16頁、原文で赤字強調)

 さらに同頁の下段の「太安万侶の苦心」と題されたコラム記事では、安麻呂の『古事記』序文を引きながら、日本固有の伝承を書き記す際に、異質の文字言語である漢字(漢文体)を使わねばならなかったことによる多大な困難に言及しています。
 私としては、学生たちにこの安麻呂の困難に思いを致してみてほしいのです。ただ上掲のような客観的で冷静な記述を知識として身につけるだけでなく、「その場に身をおいて」その困難を感じようと試みてほしいのです。
 もちろん、本格的にそうするためには、教科書やそれに準ずる参考書を読んだくらいではまったく準備が足りません。私がそれに補足説明を加えても、まだまだ遠く及びません。
 それでも、「歴史的に想像する」練習をしてみてほしいと思っています。それで、例えば、次のような問題場面を虚構として設定して、そこから事柄を考えてみるというような設問が考えられます。

天武天皇の治世のときに始まった国史編纂事業は天皇の崩御によって中断された。四半世紀後、旧辞の誤り乱れたままであることを惜しまれていた元明天皇は、稗田阿礼によって誦習された帝紀・本辞の撰録の命を太安万侶に下された。命を受けた安麻呂は、「古事記編纂委員会」を組織することにした。あなたはその委員の一人に任命された。第一回会議の議題は、採用すべき文体の決定である。その席上で、安麻呂は、委員たちに、次の三つの文体 ― 純漢文体、漢字をすべて表音文字として使う純国語体、両者を組み合わせる変則漢文体 ― のうちのいずれを選ぶべきか意見を求めた。あなたの意見を述べよ。

 もちろん、実際にはこの通りの出題はしません。しかし、趣旨はこの例に示された通りです。つまり、身につけた知識を基に、与えられた条件の枠内で、想像力を働かせて、「その場に身をおいて」考えてみよ、ということです。











「非歴史学的」歴史学習の目的とは

2017-10-06 21:41:54 | 講義の余白から

 単に一通りの、それこそ教科書的な知識を習得するためだけなら、わざわざ歴史の授業など必要ないのではないでしょうか。
 それだけのことなら、例えば、最初にいくつか必読文献を挙げ、読んでおくように指示し、然るべきときに定期的に試験を受けさせて、知識が確実に習得されているかどうか確認すれば済むことでしょう。教科書的な知識を与えるだけの授業によって時間を拘束されるくらいなら、教員も学生たちもその時間を他のより有益なことに使ったほうがいいだろうとさえ私には思えます。
 ましてや、歴史学科でもなく、日本学科の科目の一つとして課される日本史がそのような教科書的なものであっていいとは私には思えないのです。それは、特に、以下の二つの理由によります。
 第一の理由は、本格的な歴史学研究の基礎を身につけることがその目的ではない、ということです。そのためにはまず史学科に行くべきでしょう。その後、あるいは、可能ならばそれと並行して、日本語を勉強した方がいいと私は思います。
 それに、これは現実の問題として、仮に歴史学研究の基礎の習得がその講義の目的であったとしても、それができる教員が必ずしもすべての日本学科にいるとはかぎらない、ということがあります。私自身、歴史が専門ではないし、ましてや古代史など素人に等しい。そんな人間がまことしやかに古代史を語るのは、専門家に対する侮辱以外のなにものでもなく、学生たちに対しては、ほとんど詐欺行為だと言っていいでしょう。
 これまで、いったいどれだけの教員がこういう自覚をもってこの講義を担当してきたのか、私はそれに対して非常に懐疑的です。
 第二の理由は、講義の最終目的がいわゆる歴史的知識の習得でないとすれば、それとは別の目的のためにその講義は組織されるべきだろう、ということです。
 「〇〇史」と題した講義で、歴史学習そのものを否定することは、もちろん自己矛盾でしょうから、そのような極端な立場は一応排除するとして、それにしても、いわゆる歴史研究そのものが目的でないとすれば、いったい何がその講義の目的なのか、明確に提示されなければならないでしょう。
 以上の二つの理由から、毎年、「古代史」あるいは「古代文学史」の年度最初の講義で、学生たちに講義の「非歴史的な」目的を説明します。それだけで一回二時間の講義は終わってしまいます。それでも足りなくて、二回目、三回目にも追加説明を行います。
 しかしながら、いわゆる概念的説明だけでは、こちらの意図をすべての学生たちによく伝えることは困難です。それで、試験問題は例えばこんな問題になるかもしれないよ、と早めに「予想問題」をこちらから提示しつつ、その出題意図を説明することで、よりよくこちらの意図を理解してもらうように努めています。
 明日の記事では、そんな「予想問題」の一つをご披露させていただきます。












進化の中立説から古代神話世界の「古層」と世界観の「進化」へ

2017-10-05 23:59:59 | 講義の余白から

 すでに何度か取り上げた話題ですが、修士一・二年合同演習では、レヴィ=ストロースの『月の裏側』の原書 L’autre face de la lune(Seuil, 2011)を読んでいます。学生たちには、仏語原書の購入を義務づけ、日本語訳は部分的にPDF版で配布し、演習では、原則、私は日本語しか使わず、学生たちも発表はすべて日本語でさせています。
 昨日は、第一回目の個人発表でした。『月の裏側』の最初の文章「世界における日本文化の位置」(« Place de la culture japonaise dans le monde »、1988年に京都の国際日本文化研究センター(日文研)で行なわれた最初の公開講演の原稿が基になっている)を読んで、自分で大事だと思うところについて、三分から五分で発表せよ、というのが課題でした。
 結果として、一人飛び抜けてできる学生以外の発表は、日本語のレベルとしては、惨憺たるものでした。しかし、昨日のところは、人前で日本語で発表すること自体が目的だったので、それはそれでかまわないのです。
 彼らの発表には、ほとんど日本語の体をなしていないところも多々あったのですが、それをいきなりこちらで「合理的に」添削してしまうのではなく(そもそもそれさえ無理なほどめちゃくちゃだったし)、そのようないわば星雲発生以前の混沌とした状態からいかに相互限定的な関係性をもった諸要素から成る集合の形成にまで導くかがこの演習での私の課題だと言うことができます。
 この文章の最後の方に、木村資生の進化の中立説についての言及があります。学生たちは、当然のことながら、それについてなにも知りません。そこで、簡単にその概要を説明するために、その準備として、一昨日、木村資生の The neutral theory of molecular evolution (Cambridge University Press ; 1983) の仏訳 Théorie neutraliste de l’évolution, Flammarion, 1990 を取り出して、その裏表紙の紹介文を読んでいたのです。そうしたら、学部二年生対象の古代史の授業で先週出題した、「最後の文の冒頭に、「逆に言えば」という表現を使って、三つの文からなる短いアーギュメントを書け」という課題にまさにぴったりの例文があったんですね。

Kimura montre, de manière extrêmement argumentée, que la plupart des mutations sont sélectivement neutres et qu’elles ne suivent, dans leur devenir, que les lois du hasard. Ainsi s’explique le polymorphisme génétique propre à tous les êtres vivants. Ainsi s’explique que des espèces « fossiles », inchangées depuis des millions d’années, présentent une variation génétique souvent plus importante que les espèces ayant évolué rapidement. Inversement, une infime quantité de restructurations de l’ADN différencient l’homme du chimpanzé, et pourtant l’hominisation est un phénomène d’une immense ampleur.

 この文章の中の « inversement » がまさに「逆に言えば」なんですね。この文章の後半で言われていることは、およそ次のようなことです。
 進化の古層にあたる、何百万年と変化しない、いわば化石化した種が、遺伝形質の変異の歴史のおいて、急速に変化する種よりも、しばしばより大きな位置を占めていることが進化の中立説によって説明される。しかし、そのことは、逆に言えば、ごくわずかのDNAの再編成が人間とチンパンジーを差異化しているのであり、その量的に僅かな違いが、進化の歴史において、人間化という途方もないインパクトをもった現象を引き起こした。
 これ、使えるよなあ、というわけで、明日の授業では、学生たちの作文の講評をした後、この文章を見せて、この文章を日本語に訳すときに適訳として使えるのが、まさに「逆に言えば」なんだよ、って話をして、それを「枕」にして、日本古代の神話世界の「古層」と世界観の「進化」についての話に入っていこうというのが目論見です。











声と意味 ― テキスト朗読についての酔いどれ対話

2017-10-04 23:25:17 | 講義の余白から

 今朝、プール、サボりました。― ええぇ、どうして? 今朝、雨降ってなかったじゃん。― うん、そうなんだけど。行けないほど仕事が詰まっていたわけじゃなかったしね。でも、なんか、いいじゃん、そんな頑張らなくても、一日くらい、自分許してあげなよって、感じで。― それって、わかる気がするけど。
 今日もね、いろいろ思うこと、あったんだ。― あれぇっ、ムッシュー、今日もご機嫌ななめなの? ― いや、そうじゃなくて。私、引きずるタイプじゃないし。― それ、ウソ、よね。― あっ、ごめん。今、ウソ、言いました。でもさ、当たり前じゃない、なにか思うことがあるのって。だって、なにも思うことなしに生きている人がいたら、それこそ、それは、人でなし、でしょ? ― そりゃ、そうね。― でもね、どうせ何か思わざるを得ないのが人間なら、いいこと、思いたいし、嫌な奴のことじゃなくて、好きな人のこと、思いたいですよね。― うん、少なくとも、普通は。
 でもさ、ときどき、使いたくなるんだよね。北斗の拳のあのセリフ。 ―「おまえはすでに死んでいる(Tu es déjà mort(e) )!」、でしょ。― そう、そのとおり。
 まあ、いいや、そんなこと、どうでも。― なんなの、それ、話、聴いてあげてるのに。― あっ、ごめん、ありがと。でも、それよりさ、今日の修士の演習で気づいたことがあって。― なに? ― 今さらなんだけど、声と意味って、切り離せないなぁって、いうか。― どういうこと? ― 学生たち一人一人に同じテキストを声に出して読ませたんだ。漱石の『心』の「先生と遺書」の一節で、高校の教科書にもよく採用されている箇所。ちょっと読んでみて。

ある日私は久しぶりに学校の図書館に入りました。私は広い机の片隅で窓から射す光線を半身に受けながら、新着の外国雑誌を、あちらこちらと引繰り返して見ていました。私は担任教師から専攻の学科に関して、次の週までにある事項を調べて来いと命ぜられたのです。しかし私に必要な事柄がなかなか見つからないので、私は二度も三度も雑誌を借り替えなければなりませんでした。最後に私はやっと自分に必要な論文を探し出して、一心にそれを読み出しました。すると突然幅の広い机の向う側から小さな声で私の名を呼ぶものがあります。私はふと眼を上げてそこに立っているKを見ました。Kはその上半身を机の上に折り曲げるようにして、彼の顔を私に近づけました。ご承知の通り図書館では他の人の邪魔になるような大きな声で話をする訳にゆかないのですから、Kのこの所作は誰でもやる普通の事なのですが、私はその時に限って、一種変な心持ちがしました。

 ああ、私も高校生のとき、国語の授業で読んだことある。― でしょ。この一節は話の展開の上で特別重要な箇所ってわけでもないけれど、見事なんだよね。文章として完璧というか。― 確かに、なぜかよくわからないけど、声に出して読むと、まざまざと情景が浮かんでくるというか。― そう、そうなんだけどさ、今日、演習で学生たちに読ませていて、ちょっとハッとしたことがあって。― なに? ― そう意図したわけではないんだけれど、結果として、まず女子学生五人に読ませることになったんだ。― うん、それで? ― みんな、真面目な子たちだから、ちゃんと練習してきていて、上手に読んだんだよ。でもさ、なにか違うっていうか、聴いていてもぜんぜん情景が浮かんでこないというか、そういう意味で読めてないのさ。― ふーん。― ところがね、その後に読んだ男子学生の声を聴いて、ああ、これだ、この感じがテキストにぴったりだって、直感したんだ。別にうまいわけじゃあないんだよ。ときどきつっかえるし。その点、女の子たちのほうがうまかったくらい。
 つまりね、なにが言いたいかというと、― はいはい(Je t’écoute. Vas-y.)― テキストの意味が賦活されるためにはそれに相応しい声があるということなんです。それは上手下手とはちがった次元の問題というか…。
 あのさぁ、今日、もう遅いしぃ、その話、また明日にしない? ― ああ、そうですね。私も明日の授業の予習まだ終わってないし、学生たちの宿題添削もまだ残っているし。― じゃあ、おやすみぃ。― ああ、うん、おやすみなさい。











雨中、銀色の宝石を一面にぶち撒けたように表面が煌めくプールで泳ぐ。そして、学生の作文から友情について教えられる

2017-10-03 21:54:59 | 雑感

 午前五時起床。かなり強い雨が降っている。どうしよう、プール。やめとこうかな。無理することないよね。風邪引いたら、バカみたいじゃん。いや、ダメダメ、こんなことで挫けては、と、午前七時の開門に間に合うように、傘をさしてプールに徒歩で向かう。
 プール門前に着くと、いつもの半分も人は来ていない。そうだよね、こんな雨だもの。おかげさまで、ほとんど貸切状態で泳げましたよ。水面を叩く雨脚を水中から見ると、鈍色の空から注がれる光を映して、銀色の宝石を一面にぶち撒けたよう。こんな光景、寝具の中で惰眠を貪っていては見られませんよ。やっぱり来てよかったぁ。
 帰宅後、午前中は講義の準備。それを始めてまもなく、ああ、例のくだらない会合についての電話。自分でも返事の声が刺々しくなっているのがわかる。
 「あのね、わかりますか。こちらにはね、他にも大事な仕事がいろいろあるんですよ。はいはい、それで? 何をしゃべればいいの? ああ、そう。わかりました。私は私の言うべきことをその場で言うだけですから。じゃあ」って、ガチャンと切る。
 しばらく、不愉快の極みで仕事が手につかない。外は雨がやみ、晴れ間から差す陽光が雨に濡れた窓前の林檎の樹の葉を眩しいほどに煌めかせているというのに。夕方までそんな不快な気分を引きずってしまう。こんなこと、めったにない。よほど腹が立っているんだね、ムッシュー。
 それはともかく、今日しようと思っていた仕事をあらかた終えたところで、学生たちから今週の作文の宿題がばらばらと届く。即、添削して返信。平均、五分以内で返信。でも、中にはあまりにも出来が悪く、どう直していいのかわからないのがある。
 そういうときは、「ありがとう、作文提出。でもね、どう直したらいいかちょっとわからないところがあるんだよね。だから、こっちで適当に解釈して直したけれど、もし納得できなかったら、授業の後に質問に来てね」って、相手を傷つけないように一言添えて添削を送る(何ごとも配慮ざますよ、よくて)。
 他方、完璧なのもある。例えば、これ。

みんなと仲良くすることは出来ません。当然、人々は別の性格や趣味を持っているのです。逆にいえば、少数の人と強い友情を持つ方がいいということです。

 あれっ、私の気持ち、代弁してくれてるの? ってくらいよくできている。明後日の授業で目一杯褒めたるわ。












哲学と詩との幸福な結婚式への招待状、あるいは神秘主義への危険な誘惑

2017-10-02 23:06:11 | 哲学

 もし、日記風に今日の記事を記すとすれば、ただ淡々と職業上の優先順位に従って処理すべき諸案件を自宅で処理しただけの一日でした、ということになります。
 でも、昨日、レヴィ=ストロースの言葉を引用したときから、今日の記事で話題にしようと思っていたテキストがありました。それは、1963年にその初版が刊行されたピエール・アド(Pierre Hadot)の名著 Plotin ou la simplicité du regard のことです。この神秘的経験への情熱に荷電された美しい散文を読むことで、私たちは、哲学と詩との幸福な結婚式に出席することができます。その招待状は、同書の文庫版 Gallimard « Folio Essais »(1997年)を買うことで今でも簡単に入手できます。
 同書の初版の原稿を書き終えた直後の自身の精神状態について、アドが後日語っている文章を引用します。

Mais j’étais heureux, lorsqu’il parut, d’avoir pu m’exprimer personnellement. Je dois dire que j’éprouvais, après l’avoir terminé, les dangers de la mystique plotonienne. J’avais mis à peu près trois semaines à l’écrire, cloîtré chez moi, et quand, sortant enfin dans la rue, j’allai chercher mon pain chez le boulanger, j’eus l’impression, en quelque sorte, de me retrouver sur une planète inconnue. Je n’eus quand même pas, comme Porphyre, la tentation du suicide (P. Hadot, Plotin, Porphyre. Études néoplatoniciennes, Les Belles Lettres, 1999, p. 15).

 三週間家に閉じこもって同書を書き上げた後、アドはいつものパン屋さんにパンを買いに出かけます。そのとき、自分でも驚いたことに、まるで未知の惑星にいるかのような感情に捕われてしまったのです。それはまさに神秘主義の危険な領域に踏み込んだからに他なりません。
 しかし、このような「異常な」経験をするほどまでに現実から離脱することではじめて、私たちは、今日生まれたかのように新鮮な眼差しで現実を見つめ、その美しさに驚き、そしてそれを「透過する」ことができるのではないでしょうか。