まったく誤訳のない翻訳書というものはまずありえないと言っていいし、ましてや、訳に異論の余地がある場合も含めれば、ほとんどすべての翻訳書にはなんらかの問題があるとさえ言えるだろう。
人の翻訳の粗探しをするのは、だから簡単なことで、そういう文句をつけてまわるのが趣味みたいになっている人もいるようだが、私にはそういう趣味はないし、そんな時間もない。
ただ、信頼できる訳者によるすぐれた翻訳を原文と比較しながら読んでいて、訳の問題がきっかけとなって、さらに大きな問題を考えさせられることはしばしばある。
例えば、今日の修士の演習のためにレヴィ=ストロースの『月の裏側』(川田順造訳、中央公論新社、2014年)をその原書 L’autre face de la lune (Seuil, 2001) と照らし合わせながら読んでいて、ここはまずいな、これではレヴィ=ストロースの言いたいことの逆になってしまっている、と気づいた箇所をその例として挙げることができる。
その問題箇所は、「世界における日本文化の位置」という最初の文章の終わりの方で、西洋における主体と日本における主体とを比較している段落(原書51頁、翻訳38頁)の中にある。レヴィ=ストロースがそこで主張していること自体、多分に議論の余地があるが、今、そのことは措く。
その段落で、レヴィ=ストロースは、西洋哲学の主体が、遠心的、つまりそこからすべてが出発する中心であると考えられるのに対して、日本的思考が構想する主体は、むしろ求心的、つまり、さまざまな要因が働き、次第に狭い帰属関係が限定されていく結果として生じるもののようだと自身の考察を述べている。そして、その段落をこう結んでいる。
Le sujet retrouve ainsi une réalité, il est comme le lieu dernier où se reflètent ses appartenances.
このようにして、主体は一つの実体となります。つまり、自らの帰属を映し出す、最終的な場となるのです。
ここで réalité を「実体」と訳したのは、不適切であるだけでなく、レヴィ=ストロースが日本的思考における主体を、それ自体で存在する substance あるいは entité ではなく、réalité とした意図をまったく裏切ってしまっている。なぜなら、日本的な主体は、帰属関係の帰結を反映する「場」として発生する非実体的なものとして機能する「現実性」だというのがここでのレヴィ=ストロースの主張だからである。
ここから非実体的・可塑的主体性論を展開することができるだろうと私は考えるが、そう考えるきっかけを与えてくれたのがまさに「実体」という不適切な訳だったのである。