窓前を覆う樹々の葉を打つ雨の音に耳を傾け、その雨に打たれて顫動する葉をじっと眺めていると、雨音に包まれた室内の静寂が一層深まるときがある。そんなとき、風雨に揺れる枝葉の光景とそれを無言で見つめている私の心とが照応し、景情が一致する。
沈黙について語ることはできても、あるいは、静寂の風景を言葉で描写することはできても、沈黙と静寂そのものはつねにその彼方にある。ただ、語り得ぬものがあることに気づかせてくれる言葉がある。己が生まれ出て来た沈黙の深みを垣間見させてくれる言葉がある。
雨音も風音も波音も、鳥たちの囀りも、動物たちの鳴き声も、そして、音楽も、いや言葉さえも、声なきものの声なのではないかと感じられるときがある。その声なきものが時空を超えているとすれば、無数の音と響きに満ちたこの世界のいつどこにいても、それらの音と声を通じて、その永遠に声なきものに私たちは今ここで触れていることになる。
フランス語の silence には大きく分けて三つの意味がある。
一つは、雑音或いは騒音がないこと、つまり静寂の意である。一つは、何かについて話さないこと、つまり、あることについて沈黙を守る意である。一つは、しゃべるのを止めること、つまり静粛の意である。
第一の意味は、単に無音ということではなく、その場とそこに居る人(たち)を乱す音がないということであり、場合によっては、何かの音あるいは声を聴くために必要とされる静けさのことでもある。状態としての silence である。この意味では「沈黙」という言葉は使いにくい。
第二の意味は、秘密を守るために、余計な憶測を生じさせないために、誰かを守るために、暗黙の承認・了解を表すために、あるいは拒絶の意志を表示するためなどに口を閉ざすことである。態度としての沈黙である。
第三の意味は、文字通り声を出すことをやめることである。自らそうすることもあれば、人にそれを要求することもあるし、人からそれを要求されることもある。行為としての沈黙である。
もちろん、この語のすべての用法がこれら三つの意味に還元されるわけではないし、ある silence が複数の意味を持つこともある。
哲学は、この三つの意味での silence をその成立の必要条件とする。とはいえ、つねに静寂の中で声を出さず沈黙を守っているだけでは哲学にはならないことも言うまでもない。沈黙がおのずと哲学を生み出してくれるわけでもない。この三つの意味での silence を適切に用いることが哲学するためには必要である。
しかし、この上掲三つの意味とは別に、次元の異なった二つの沈黙をさらに区別することが哲学的思考には求められる。
その一つは内言語の次元である。書くことも声に出すこともなく黙考しているときであっても、私たちは通常母語で考えている。他の言語で、あるいは複数の言語間を行き来しながら考えることもありうるが、それらの個別言語を超えた普遍言語で考えているわけでない。しかし、西洋哲学史においては、プラトンからオッカムまで、あらゆる自然言語から区別された普遍的な思考そのものという理想言語の探究の系譜があった。この系譜を辿ったのが Claude Panaccio, Le discours intérieur. De Platon à Guillaume d’Ockham, Éditions du Seuil, 1999 である。
この問題の系譜とは別に、言葉の生誕地としての根源的な沈黙について考えたのがメルロ=ポンティである。メルロ=ポンティは「間接的言語と沈黙の声」『見えるものと見えないもの』その他の著作で何度もこの沈黙について考察している。
これとはまた別に、神の声を聴くために、それを聞こえなくしている自らの賢しらな考えや言辞を心から追い払うことを説くキリスト教的言説は数多い。この点については、昨日の記事で紹介した Jean-Louis Chrétien, L’espace intérieur, Les Éditions de Minuit, coll. « Paradoxe », 2014 がよき案内役になる。
沈黙について読むべき他の文献として、マックス・ピカート『沈黙の世界』(みすず書房 新装版 2014年 初版1964年)は、やはり挙げないわけにはいかないだろう。原書のドイツ語版の初版は1948年、仏訳はPUFから1954年に刊行されている。長らく入手困難だったが、昨年 La Baconnière という出版社から新装版が出た。拙ブログの三日前に紹介したアラン・コルバンの『静寂と沈黙の歴史』には、『沈黙の世界』が十数箇所に引用されていて、コルバンが同書でもっとも頻繁に参照している著作である。おそらくそのことと『沈黙の世界』新装版の出版とは無関係ではないだろう。
哲学はどこでするのか。
ソクラテスなら、アテナイのアゴラ(公共広場)またはギムナシオン(公共の競技施設)で、あるいは、アテナイ郊外の川の辺りなど野外で、と答えたかも知れない。
アリストテレスなら、リュケイオンのペリパトス(歩廊)を逍遥しながら、と答えたかも知れない。
ディオゲネスなら、「ここじゃよ」と大樽の中から答えるだろう。
ニーチェなら、シルバプラーナの湖畔で、あるいは、エズの断崖の上で、と答えたかも知れない。
しかし、哲学は、本来、場所を選ばないとしても、現実には、部屋の中でするのが普通であろう。独りで思索に耽ったり、古典の精密な読解に努めたり、著作に専念したり、誰かと対話したり、その形はさまざまであれ、それらすべての行いは室内で行われることが圧倒的に多いだろう。
その部屋はどのような部屋だろうか。なにか特別に哲学に向いた部屋があるかどうかはしばらく措くとして、時代・文化・社会によって多様であろう哲学者たちの思索・対話・読書・執筆の部屋を想像してみるのは楽しい。
思索や瞑想のための部屋に限らず、人が独りで過ごす部屋、あるいは誰かと親密な時を過ごす部屋、それらはどんな作りであったのか。そんな問いに答えてくれるのが、西洋における部屋(私室・寝室など)の歴史を古代から現代まで辿った Michelle Perrot, Histoire de chambres, Seuil, coll. « La librairie du XXIe siècle », 2009 である。
哲学者の部屋というテーマは本書では扱われてはいないが、« Écrire » と題された節の書き出しはこのテーマについて考える一つのヒントになる。
La chambre est par excellence le lieu de la pensée : la vision mathématique, par exemple, que favorise la nuit : « Les mathématiciens, les mathématiciennes ont le plus grand mal à faire comprendre à leur conjoint que le moment où ils travaillent le plus intensément est celui où ils sont couchés dans l’obscurité sur un lit », dit Alain Connes. Elle est aussi propice à l’écriture personnelle, celle qui ne nécessite pas le recours aux bibliothèques, aux dossiers documentaires : l’écriture de soi, par soi, aux intimes, qui requiert des dispositifs dont l’apparente simplicité est le fruit d’un extrême raffinement technique : table, chaise, papier, plume, stylo, plus tard machine à écrire, en attendant l’ordinateur, surtout solitude et calme, ceux qu’assurent la porte close et la nuit, compagne des écrivants dépourvus de cabinets et qui tentent de s’aménager un coin.
これがそのまま哲学的思索に適した部屋の条件に当てはまるわけではないが、ここに例としてあげられている数学者の場合のように、夜、薄暗がりの中で独りベッドに横になるときにもっとも集中できるという哲学者はいるだろう。書籍や資料類をあれこれ調べながら執筆する論文の場合とは違って、自己省察録は、必要最小限のものだけが置かれた簡素な私室で独り静かにという条件を必要とするというのも首肯できる。
他方、哲学的思索はそれが展開 ・深化されるための内的空間を必要とする。この思索のための内的空間の表象の西洋における変遷とそれに伴う思索の内実の変化については、Jean-Louis Chrétien, L’espace intérieur, Les Éditions de Minuit, coll. « Paradoxe », 2014 をまず参照したい。この本については、2014年12月13日から六回に渡って記事にしているので、ご興味のある方はそちらを参照していただければ幸いである。
タイトルに選んだ三つの言葉 ―気象・部屋・沈黙は、こう並べてみると字面が調和しておらず、いかにも「すわり」が悪く、見ていて落ち着かない。だから、これはもっと適切な言葉が見つかるまでの仮の選択にとどまる。それでもこれらの言葉を用いたのは、拙ブログでこれまで散発的に取り上げてきた諸テーマをこの三つのキーワードの下にまとめて整理しておきたいと思ったからである。
いずれも哲学の可能性の条件を示しているわけではないが、これらの語が示す環境がないところでは、そもそも考えるということができないのであるから、それらの環境と哲学との関係は無視することはできない。とはいえ、それぞれの環境に関してもっと問題を限定しなければ、そもそも哲学的な問いにはなりえない。
今日の記事では、第一の条件である気象についての覚書を記しておく。
人はつねにある気象条件の下で思考しており、気象と思考とには何らかの関係があるというだけでは、あまりにも漠然としており、それこそ「雲をつかむような話」である。このテーマについては、今年の2月25日の記事で一度取り上げている。それと前後して参考文献も収集済みである。
その記事では言及されていないが、このテーマで特に考察対象となるのは、Maine de Biran である。十八世紀末から十九世紀にかけての内部世界の気象学の展開については、Georges Gusdorf, Les écritures du moi. Lignes de vie 1, Odile Jacob, 1991 (この本はこちらのサイトから無料でダウンロードできる)に優れた考察があり(p. 353-366)、ビランが若き日に愛読したルソーとビランとの間の親近性と決定的な違いが的確に示されている。ビランの哲学の特性が十九世紀の近代気象学の発展と不可分であることもそこを読むとよくわかる。
気象(学)と哲学的思考との関係という問題をさらに展開する手がかりとなる論文は、Karin Becker (sous la direction de), La pluie et le beau temps dans la littérature française. Discours scientifiques et transformations littéraires du Moyen Age à l’époque moderne, Hermann, coll. « Météos », 2012 に収録された Claude Reichler の論文 « Météores et perception de soi : un paradigme de la variation liée » である。ちなみに、Alain Corbin, Histoire buissonnière de la pluie, Flammarion, « Champs », 2017 (le texte paru initialement dans l’ouvrage collectif La pluie, le soleil et le vent, Flammarion, 2013) の第三章 « Une tristesse épouvantable » には、Maine de Biran への言及が見られるが(p. 27-29)、それは Reichler 論文に依拠している。
コルバンがビランに言及している一節に、« cénesthésie » という術語が出てくる。
Tout cela constitue un bel exemple de ce qui lie la météorologie à la cénesthésie de l’individu, notion alors toute récente, qui retient l’attention de Maine de Biran (p. 28).
この文の後注でコルバンはこの語をこう定義している。
Rappelons que la cénesthésie désigne la sensibilité organique, émanant de l’ensemble des sensations internes, qui suscite chez l’être humain le sentiment général de son existence, indépendamment du rôle spécifique des sens (p. 106).
それは、内的諸感覚の全体から発する生体感覚であり、人間に自己存在の全体的感情を引き起こし、その感情は五感それぞれの特定の役割とは独立である。日本語では、生理学や心理学の術語として、「体感」と訳され、「快感,不快感を基本とする,漠然とした全身の感覚」(『小学館ロベール仏和大辞典』)と定義されている。
確かに、この意味での「体感」は漠然としたものであり、そのままでは科学的な研究対象にはなりえない。だから、生理学は、この体感をミクロの世界の現象へと還元し、それを考察対象とする。
しかし、気象学が一学問分野として確立されていく十九世紀、気象現象にはミクロレベルとマクロレベルの様々な要素が複雑に関係しており、マクロをミクロに還元することはできないということが明らかになっていく。つまり、気象現象に適した新しい科学的アプローチが必要なことがわかり、そのための術語が要請されるようになったのである。
この当時の気象学の認識の個体の体感への適用が、ビランの日記に見られる内部世界の記述言語の成立の一つの決定的な契機を成している。
Alain Corbin, Histoire du silence. De la Renaissance à nos jours, Albin Michel, 2016(邦訳はアラン・コルバン『静寂と沈黙の歴史 ルネッサンスから現代まで』藤原書店 2018年)については、2017年2月1日の記事で一度取り上げたことがある。一昨年には、 Flammarion 社の « Champs » 叢書の一冊としても出版され、より安価に入手できるようになった。
今日、ちょっと調べたいことがあって本書を読み返していた。第六章「沈黙の言葉」(La parole du silence)に引用されているメルロ=ポンティの言葉の出典を確認するために後注を見た。Signes からの引用とあるのだが、これが Nina Nazarova (textes réunis par), Le Silence en littérature. De Mauriac à Houellebecq, L’Harmattan, 2013 の Introduction からの孫引きなのである。
Le langage, écrit Merleau-Ponty, « ne vit que du silence : tout ce que nous jetons aux autres a germé dans ce grand pays muet qui ne nous quitte pas » (op. cit., Albin Michel, p. 109).
コルバン書の本文はこうなっている。ところが、この引用箇所は Signes にはない。この文は、Le visible et l’invisible, Gallimard, 1964 の167頁にある。引用元の Nazarova の本では、当該引用箇所の注に Signes. Paris, Gallimard, 1960, p. 167 とある。つまり、引用元の誤りがコルバンの本にそのまま引き継がれてしまっているのである。ただし、引用元では、書名と出版年は間違っているが、頁は合っている。もっと細かく重箱の隅をつつくと、引用元の本は、メルロ=ポンティの本文の「 ;」を正しく引用しているが、コルバンの本ではそれが「:」に置き換えられている。この孫引きの直後の文は « Soyons plus précis » となっていて洒落が効いている。さすがである。
このような嫌味なやり方で瑕瑾を穿り出して、悦に入っているのではない。実は、この出典確認作業のおかげで、今月末の研究発表の内容にさらに一展開を加えるためのヒントがいただけたのである。
Le visible et l’invisible の上掲の引用箇所の直後の一文はこうなっている。
Mais, parce qu’ayant éprouvé en lui-même le besoin de parler, la naissance de la parole comme une bulle au fond de son expérience muette, le philosophe sait mieux que personne que le vécu est du vécu-parlé, que, né à cette profondeur, le langage n’est pas un masque sur l’Être, mais, si l’on sait le ressaisir avec toutes ses racines et toute sa frondaison, le plus valable témoin de l’Être, qu’il n’interrompt pas une immédiation sans lui parfaite, que la vision même, la pensée même sont, a-t-on dit, « structurées comme un langage », sont articulation avant la lettre, apparition de quelque chose là où il n’y avait rien ou autre chose.
p. 167-168.
ここを読んで、はたと気づいた。この文の中の le langage を l’ombre に置き換えれば、谷崎の『陰翳礼讃』における陰翳の説明として使えるばかりでなく、陰翳とは〈存在〉の言語であるというテーゼがここを手がかりに展開できるのではないか、と。
こう言うとコルバン先生は嫌な顔をされるかもしれないけれど、孫引きの出典表示の誤りがもたらしてくれたこの思いがけぬ贈り物を私はとても喜んでいる。
ストラスブールには近代的な高層建築がまったくない。一四三九年に完成した高さ一四二メートルのカテドラルの尖塔が今でもアルザスで最も高い建築物だ。市内の様々な角度から見える。よく晴れて空気が澄んでいる日には、直線距離にして三十キロ離れたモン・サントディール(Mont Sainte-Odile)の頂上の見晴台からも見える。高速道路四号線をパリからストラスブール方面に向かって走らせていると、市の中心部までまだ二十キロほど離れたところから真正面にカテドラルが視界に入ってくる。初めてそれを見たのは、もう二十年以上も前のことだが、その時の感動はいまだに忘れない。
高い建物がないということは空が広く見えるということでもある。それだけではなく、ライン川がドイツとの国境をなし、リル川とその支流が市の中心部を取り囲むように幾筋も流れ、ラインとマルヌを結ぶ運河(Canal de la Marne au Rhin)も市中を横切っているため、市中のいたるところで、それら水流の上には視界が広く開けている。それらの流れの上に架かる多数の橋からの眺めも変化に富み、逆にそれらの橋の一つ一つがそれぞれに異なった街の景観の要素を成している。
雲ひとつない青空を背景とした街並みの美しさももちろん嘆賞に値するが、歩くことを日課にするようになってから、歩きながら空をよく眺めるようになった。特に、日毎時々刻々と形を変化させる雲は見飽きるということがない。その造花の妙に感じ入ることもしばしばある。
自宅からの市内路面電車の最寄り駅である「欧州議会」は運河の上に架かる橋の直前にある。その橋の上に立つと、ライン川に向かって真っ直ぐに伸びている運河の彼方に、シュヴァルツヴァルト(Schwarzwald)の稜線が見渡せる。その上に広がった大空では、雲の多様な造形運動が四季を通じて繰り広げられている。それら雲の動きを眺めながら自宅の方に向かってゆっくりと歩いていると、雄大かつ荘厳な交響曲の一節を聴いているかような充溢感に満たされる時がある。
昨日の昼過ぎのことでした。FNACに届いた本を歩いて取りに行きました。市の中心部のクレベール広場にある店舗まで普段は自転車で行きます。それでも片道15分位かかります。徒歩だとその三倍はかかります。それでも、歩いて行こうという気になったのです。
空はちょっと曇っていましたが、雨の心配はせず、傘も持たずに自宅を出ました。ところが、クレベール広場まであと十分くらいのところにあるレピュブリック広場に差しかかったとき、空が俄にかき曇り、ぽつぽつと雨が降り始め、あっという間に強い雨脚になりました。
広場の芝生のあちこちで車座になってさんざめいていた高校生らしき女の子たちは、慌てて広場を覆っている幾本かの銀杏の大樹の下へと逃げこむか、雨宿りできる軒先を求めて広場から四方に散っていきました。
私も大きな銀杏の樹の下でしばらく雨が止むのを待ちました。いくら青葉に厚く覆われていたとはいえ、雨雫は滴り落ちて来たので、ワイシャツはすっかりびしょ濡れになってしまいました。十五分ほどで雨は上がりました。
通り雨に濡れた樹々は、再び広がり始めた青空から注がれる陽射しと路上の水たまりからの反射光で美しく煌めき、それば眩しいほどでした。自転車で来ていたら、雨が降り始めた頃にはもう自宅に帰り着けていたかもしれません。そのかわり、この雨に濡れた青葉の美しさを見ることはできませんでした。
六月一日の記事で紹介した『雨のことば辞典』に「青時雨」(あおしぐれ)という言葉が載っています。
木々の青葉からしたたり落ちる水滴を時雨に見たてた言葉。また、青葉若葉のころの時雨のような通り雨。時雨は、本来は冬の季語だが、青葉の「青」を頭につけ、夏の雨の意としている。「目には青葉」といわれる初夏は、青葉若葉がひときわ美しく際立つ季節、雨や霧や朝霧にぬれた木々の若葉の美しさが目に浮かぶことば。
そのすぐ下に「青葉雨」(あおばあめ)という言葉も載っています。
木々の青葉に降りかかる雨。春萌え出た新芽は緑の濃さを増し、やがて青葉のときを迎える。青葉をぬらして降る雨が、青葉雨。みずみずしくすがすがしい気配にみちたことば。このころ吹く風が青葉風。爽やかさが薫る。
これらの言葉の美しさがことのほか身に沁みて感じられた午後のひとときでありました。
三月後半から八週間続いた外出規制令によって自分の身にどんな変化が起こっただろうか。自分では気づいていない変化もあるかも知れないが、はっきり自覚できていることの一つは、歩くことが好きになったことである。
最初は、それまでの日課だった水泳の代わりとして、規則的に体を動かして健康を維持するためというもっぱら「実利主義」的な目的から、なかば仕方なしに始めたことだったが、ひと月も続けていると、一日一回は歩くことを体が自ずと欲するようになった。つまり習慣になった。おかげで体調も良好だ。
外出規制が段階的に解除され始めた五月十一日以降もほぼ毎日一時間から一時間半歩いている。歩いていると、自転車で毎日のように通り、すっかり見慣れていた街路に、こんなにも見落としていたものがあったのかと気づく。それだけでも楽しい。
それに、自転車では考えごとはしにくいし、できても、あまり考えに耽っては危険でさえある。その点、歩いているときはまず安全だし、よく考えられる。思考を発展・深化させるためには、身動きせずに沈思黙考することも必要だが、歩行が促す思考はそれとは質が異なる。一般的そう言えるかどうかは別として、私の場合、静止的思考と動的思考とは相補的な関係にあるようだ。
時間に対する考え方も少し変わった。できるだけ速く目的地に着くこと、そして、それを可能にする交通手段を使うこと、つまり最短の時間で目的を達成することが必ずしも「最良」の選択ではないと考えるようになった。歩行という過程そのものにおいてこそ見いだされる「時」があることに気づかされた。何らかの「有用性」によって計られた時間の価値とはまったく質を異にした、無償で贈与される時間そのものの汲み尽くしがたい豊穣性により敏感になった。
つまり、歩くことが習慣化して、いい事ずくめなのである。
2013年6月2日に始めたこのブログは、今日から八年目に入ります。原則はこれまで通り、毎日投稿することです。内容についても、新企画があるわけでもなく、だいたい同じような傾向になると思います。
ただ、毎年元旦に、たいへん月次ながら、その年の抱負を書いていますが、拙ブログの節目はやはり毎年6月2日になりますから、その抱負とは別に、拙ブログの基本方針についてここで確認しておきたいと思います。
ちょっと語呂合わせのようで、いかがわしいところがないわけでもないのですが、その基本的態度は、三つの「たんたん」に集約できます。
まずは、「旦旦」。『日本国語大辞典』によると、その意味は、「毎朝。毎日。」毎朝というわけにはいきませんが、これまで通り、毎日、一日も欠かさず投稿するという意が込められています。
次に、「坦坦」。同じく『日本国語大辞典』によると、「道や土地など、でこぼこがなく平らであるさま」というもともとの意味から転じて、「かわったことがなくふつうと同じように行なわれるさま。平凡なさま。」世の中に何が起ころうとも、いつもと同じように続けていこうという意が込められています。
そして、「淡淡」。同辞典によると、「あっさりしているさま。物の色・味・感じなどが淡泊なさま。ものにこだわらないさま。」これまでの記事を振り返れば、ときに激した内容になってしまったこともなくはありませんでしたが、基本は、やはり、「あっさり」、「こだわらず」でいきたいと思います。この語には、「水などが静かに揺れ動くさま」という意もあって、これは私にとって散文の理想的イメージです。
ただ、古語の「淡淡し」(あはあはし)は、「思慮もなく浅はかである。かるがるしい。うわついている」の意ですから、そうはならないように気をつけたいと思います。
これからの一年も、旦旦、坦坦、淡々と、毎日「焼き立て」の文章を皆様の机下にお届けしたく存じます。
本書の原本は二〇〇〇年に講談社から刊行された。
本書の巻末の編著者紹介によると、編著者の倉嶋厚氏は、1924年生まれ。気象庁主任予報官、鹿児島地方気象台長などを歴任。その後NHKの気象キャスターを務める。理学博士。エッセイスト。著書に『日本の空を見つめて』『やまない雨はない』『倉嶋厚の人生気象学』など多数。もう一人の編著者である原田稔氏は、1944年生まれ。郷土史研究をきっかけに、「雨の文化誌」の研究に志す。エッセイスト。著書に『雨の楽しい話』。
本文庫版あとがきによると、旧版は、倉嶋氏が講談社から原田氏の仕事の成果の監修を依頼されたことがきっかけで生まれた共編著である。原田氏のすでに執筆済みの原稿に倉嶋氏が項目を追加し、さらにそれに多くのコラムを追加することで出来上がった本である。
旧版誕生の経緯は、『風と雲のことば辞典』(2016年)とともに講談社学術文庫版三部作をなす『花のことば辞典』(2019年)の編者宇田川眞人氏による序言にさらに詳しく述べられている。
辞典であるから、本文はあいうえお順に並べられた諸項目からなる。主として現代使われている日本語(漢語・方言・気象用語などを含む)のなかから「雨」にまつわることばに限って千九百余語を選び、それらに語義・解説・用例などを加えたものが本文の主要部分である。そのところどころにコラムが組み込まれている。巻末には、「雨の歳時記」としての利用に資するために、四季別索引「雨ごよみ」が付されている。
凡例に、「エッセイ的な記述を大胆に取り入れ、引く辞典よりも読んでおもしろい辞典を目指した」とあるが、本書は編著者のその狙い通りの一書になっている。
上に述べたように、講談社学術文庫には、倉嶋氏編著の続編が二書ある。『風と雲のことば辞典』(2016年)と『花のことば辞典』(2019年)。どちらも書き下ろしである。
学術文庫には、武田喬男著『雨の科学』(2019年 原本『雨の科学―雲をつかむ話』成山堂書店 2005年)も収められていて、両書をあわせ読むことで、雨の文化誌、雨の科学についての知見を広め深めることができる。そうすれば、梅雨の眺めもおのずとこれまでとは異なることだろう。