1982年、ロンドンのエアー・スタジオで「愛がなくちゃね」の録音中の矢野顕子・坂本龍一夫妻がトーマス・ドルビーと出会い、彼のソロのファースト・アルバムの「レディオ・サイレンス」にて矢野顕子がバッキング・ヴォーカルを務める。
当時のトーマス・ドルビーなんと24歳。

その「レディオ・サイレンス」含めた「ザ・ゴールデン・エイジ・オブ・ワイアレス」が英国で3月に発表され、日本国内では「光と物体」というタイトルで6月に発売された。
マッド・プロフェッサー、マッド・サイエンティストと呼ばれたトーマス・ドルビー。
「ザ・ゴールデン・エイジ・オブ・ワイアレス」は、まさにテクノの黄金時代を語るような曲の数々。
彼は、実験的試みを取り込みながらも、ようく聴けばどの曲もメロディアスの洪水。
このアルバムを当時の自分は秋葉原の石丸電気の輸入盤コーナーで買い、よく聴いた。

70年代末から80年代前半、どっぷりとシンセイサイザー・コンピューター・電子楽器とテクノの洪水に浸る自分を、メディアも音楽雑誌も「こういう無味乾燥な機械音しか聴かない子供はどうなるのでしょうか」、親もオトナもテクノに全身全霊を捧げる自分を遠巻きに忌み嫌い、異質な生き物の眼を向けた。
私は、ジョン・フォックスが「I WANT TO BE MACHINE」と言ったように、自分の肉体ごと機械になりたかった。
今日は、アルバムB面に収められた「ワン・オブ・アワ・サブマリン」を聴く。

【「写真」は、左が坂本がポラロイドカメラで撮影したトーマス・ドルビー青年。
右がエアー・スタジオの名エンジニア、スティーヴ・ナーイが撮影したピーター・バラカン。
ピーター・バラカンは、坂本の「B-2UNIT」以来YMO及び彼ら周辺の音楽を、海外へ紹介するスポークスマンの役割を果たす。
と共に彼らの歌詞英訳・英語歌唱指導・時には自らの作詞を提供した、80年代テクノの影のキーマンである。】
当時のトーマス・ドルビーなんと24歳。

その「レディオ・サイレンス」含めた「ザ・ゴールデン・エイジ・オブ・ワイアレス」が英国で3月に発表され、日本国内では「光と物体」というタイトルで6月に発売された。
マッド・プロフェッサー、マッド・サイエンティストと呼ばれたトーマス・ドルビー。
「ザ・ゴールデン・エイジ・オブ・ワイアレス」は、まさにテクノの黄金時代を語るような曲の数々。
彼は、実験的試みを取り込みながらも、ようく聴けばどの曲もメロディアスの洪水。
このアルバムを当時の自分は秋葉原の石丸電気の輸入盤コーナーで買い、よく聴いた。

70年代末から80年代前半、どっぷりとシンセイサイザー・コンピューター・電子楽器とテクノの洪水に浸る自分を、メディアも音楽雑誌も「こういう無味乾燥な機械音しか聴かない子供はどうなるのでしょうか」、親もオトナもテクノに全身全霊を捧げる自分を遠巻きに忌み嫌い、異質な生き物の眼を向けた。
私は、ジョン・フォックスが「I WANT TO BE MACHINE」と言ったように、自分の肉体ごと機械になりたかった。
今日は、アルバムB面に収められた「ワン・オブ・アワ・サブマリン」を聴く。

【「写真」は、左が坂本がポラロイドカメラで撮影したトーマス・ドルビー青年。
右がエアー・スタジオの名エンジニア、スティーヴ・ナーイが撮影したピーター・バラカン。
ピーター・バラカンは、坂本の「B-2UNIT」以来YMO及び彼ら周辺の音楽を、海外へ紹介するスポークスマンの役割を果たす。
と共に彼らの歌詞英訳・英語歌唱指導・時には自らの作詞を提供した、80年代テクノの影のキーマンである。】