佐久間正英さんといって、いったいどれだけの人が分かるだろうか?
彼は、元「四人囃子」の「メンバー」ということになっていたが、実際はプロデューサーのような立場の人だった。
解散後、プラスチックスの「メンバー」ということになっていたが、それも同様。
もともと、佐久間正英さんというのはミュージシャンというより、どちらかというと裏方的方面の人である。
***
プラスチックスについては、デザイナー、ファッション関係、イラストレイターそういった音楽が本業ではない人が集まって創ったユニットで、いわば素人。
それに対して、音楽的サジェスチョンをするという立場で彼らに接する佐久間さんは、やむなく引きづり込まれてメンバーとなってしまった。
実際の音作りとまとめ役は佐久間さんが行っていた。
そして結成時に、いわゆる下手とか上手ではない世界に出ないとこのユニットは成立しないと判断した佐久間さんが彼らに指示したのが「リズムボックスを使いなさい」ということ。
【カッコよすぎたセカンドアルバム「オリガト・プラスティコ」】
YMO3人が幼い頃から素養のある音楽を経験したベテランのプロ集団であったに対抗するには、へたうまの世界しかない、そう佐久間さんは思い、そして、重層的でプロのYMOと相反する、素人のリズムボックスに頼るチープなテクノに「これは成功する」と確信したという。
実際、それは、ボクら中学生の頭を一撃した。
当時、中学でプラスチックスはYMOと半々の人気、人によってはプラスチックス命の人も居たくらいだった。
「そうか、大した練習や鍛錬をつまなくてもこういう手があったのか」という発見だった。
プラスチックスの良いところというのは、このチープさ。
そんな中、裏方で居たかった佐久間さんは、キーボードにギターにベースにと音作りに参加しながら、結局メンバーの1人になってしまう。
***
ただし、プラスチックスは2枚の優れたアルバムを創った後におかしくなり出す。
佐久間さんは、2枚目の名盤「オリガト・プラスティコ」を良く思っていなかった。
音楽が本業では無かった彼らに「野心」が出てきた2枚目のアルバム。
そして、アルバム完成後、実質プロデューサーだった佐久間正英さんは「もうこれはプラスチックスではないから、自分は去るよ・・・。」と言って去る。
「野心」を持ってしまったプラスチックスは、ニューヨークでのライブ、そして、当時ブームでミュージシャンの憧れだったアイランド・レコードのバハマはナッソーにあるコンパスポイントスタジオで2枚のアルバムを1枚にミックスしたリメイクを海外向けに創ることになる。
素人でへたうまだから良かった世界から、チカとトシは音楽での野望を抱き、ハジメちゃんとも齟齬を起こすようになり、当初のユニットのコンセプトから外れ出す。
そして、プラスチックス解散に至る。
***
佐久間さんは裏方として、いろんなミュージシャンと関わっており、80年代ニューウェイヴとも深く係わり合いを持ちつつ、一方では歌謡曲の仕事をしたりと、みんなが知らない世界で音楽を後ろから支えてきた。
そんな佐久間さんのソロアルバムはことごとく廃盤になっているが、自分は3枚のアルバムを持っている。
その中の1枚が「イン・ア・ガーデン」という1991年の作品。
決して上手とは言えないヴォーカル。
メロディアスとも言えない曲の数々。
そうであっても、なんだか自分には、その半端さが実にかわいらしく思えて、いつも気になる存在である。
このアルバム「イン・ア・ガーデン」の1曲目にタイトル曲の「イン・ア・ガーデン」があるが、ボクはこの曲で奏でられる佐久間さんの甘く・絶望の中でも希望を望んで仕方が無いといったチューンのギターがとても久遠の響きに聴こえて官能に浸ることはしばしば。。。。
この曲では、ディップ・イン・ザ・プールの2人が全面的に協力をしている。
作詞が甲田益也子さん
作曲は佐久間正英さん
そしてアレンジメントが、佐久間さんとDIPの木村達司さん。
別に売れなくても良いし、有名にならなくても良い。
そういう音楽があり・音楽に関わる人が居ることが、実は商業主義のみではない音楽を支えている。
そういうことを大事にしたい。
佐久間さんの存在を思うと、そういう優しい気持ちになれる。
彼は、元「四人囃子」の「メンバー」ということになっていたが、実際はプロデューサーのような立場の人だった。
解散後、プラスチックスの「メンバー」ということになっていたが、それも同様。
もともと、佐久間正英さんというのはミュージシャンというより、どちらかというと裏方的方面の人である。
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プラスチックスについては、デザイナー、ファッション関係、イラストレイターそういった音楽が本業ではない人が集まって創ったユニットで、いわば素人。
それに対して、音楽的サジェスチョンをするという立場で彼らに接する佐久間さんは、やむなく引きづり込まれてメンバーとなってしまった。
実際の音作りとまとめ役は佐久間さんが行っていた。
そして結成時に、いわゆる下手とか上手ではない世界に出ないとこのユニットは成立しないと判断した佐久間さんが彼らに指示したのが「リズムボックスを使いなさい」ということ。
【カッコよすぎたセカンドアルバム「オリガト・プラスティコ」】
YMO3人が幼い頃から素養のある音楽を経験したベテランのプロ集団であったに対抗するには、へたうまの世界しかない、そう佐久間さんは思い、そして、重層的でプロのYMOと相反する、素人のリズムボックスに頼るチープなテクノに「これは成功する」と確信したという。
実際、それは、ボクら中学生の頭を一撃した。
当時、中学でプラスチックスはYMOと半々の人気、人によってはプラスチックス命の人も居たくらいだった。
「そうか、大した練習や鍛錬をつまなくてもこういう手があったのか」という発見だった。
プラスチックスの良いところというのは、このチープさ。
そんな中、裏方で居たかった佐久間さんは、キーボードにギターにベースにと音作りに参加しながら、結局メンバーの1人になってしまう。
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ただし、プラスチックスは2枚の優れたアルバムを創った後におかしくなり出す。
佐久間さんは、2枚目の名盤「オリガト・プラスティコ」を良く思っていなかった。
音楽が本業では無かった彼らに「野心」が出てきた2枚目のアルバム。
そして、アルバム完成後、実質プロデューサーだった佐久間正英さんは「もうこれはプラスチックスではないから、自分は去るよ・・・。」と言って去る。
「野心」を持ってしまったプラスチックスは、ニューヨークでのライブ、そして、当時ブームでミュージシャンの憧れだったアイランド・レコードのバハマはナッソーにあるコンパスポイントスタジオで2枚のアルバムを1枚にミックスしたリメイクを海外向けに創ることになる。
素人でへたうまだから良かった世界から、チカとトシは音楽での野望を抱き、ハジメちゃんとも齟齬を起こすようになり、当初のユニットのコンセプトから外れ出す。
そして、プラスチックス解散に至る。
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佐久間さんは裏方として、いろんなミュージシャンと関わっており、80年代ニューウェイヴとも深く係わり合いを持ちつつ、一方では歌謡曲の仕事をしたりと、みんなが知らない世界で音楽を後ろから支えてきた。
そんな佐久間さんのソロアルバムはことごとく廃盤になっているが、自分は3枚のアルバムを持っている。
その中の1枚が「イン・ア・ガーデン」という1991年の作品。
決して上手とは言えないヴォーカル。
メロディアスとも言えない曲の数々。
そうであっても、なんだか自分には、その半端さが実にかわいらしく思えて、いつも気になる存在である。
このアルバム「イン・ア・ガーデン」の1曲目にタイトル曲の「イン・ア・ガーデン」があるが、ボクはこの曲で奏でられる佐久間さんの甘く・絶望の中でも希望を望んで仕方が無いといったチューンのギターがとても久遠の響きに聴こえて官能に浸ることはしばしば。。。。
この曲では、ディップ・イン・ザ・プールの2人が全面的に協力をしている。
作詞が甲田益也子さん
作曲は佐久間正英さん
そしてアレンジメントが、佐久間さんとDIPの木村達司さん。
別に売れなくても良いし、有名にならなくても良い。
そういう音楽があり・音楽に関わる人が居ることが、実は商業主義のみではない音楽を支えている。
そういうことを大事にしたい。
佐久間さんの存在を思うと、そういう優しい気持ちになれる。