こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2011年8月22日 月曜日 夏のフェイバリッツ・50 トーマス・ドルビー「Budapest By Blimp」'88

2011-08-22 23:48:19 | 音楽帳
私にとっての日々「より異なる地点へと」向かっていったニューウェイヴ/テクノは1986年末を持って終わった。
他の一般音楽の中に溶解していったような感じであった。

そこには、二年浪人した末の葛藤が精神分裂症と同じ症状として現れ、自分の中のコントロールが効かなくなり、自分の体内が自分を殺しに来るという妄想として現れ苦しみの末、自害しようとしたが失敗に終わり・・・病院通いが始まり、弛緩剤によるヘロヘロな状態に麻痺されていたのが、1986→1987年への峠の時期だったのが、重なっている。

これは私個人の私的状況だったが、そこから自分にとって終わってしまった音楽について、積極的には聴かず(それは妄想を助長するため)、雑誌も買わず、音楽シーンともサヨナラを告げた。

それ以降、雑誌を見たり・チャートを見たり・リアルタイム性のある音楽シーンを無理して追い掛けたり・・・そういう行動から「降りた」。

偶然との出会いというものが、その後の自分の音楽の集積となる。
ある種の呪縛からの開放。

***

とはいえ、日本に居る以上、音を避けて通るわけにもいかず、遠目で見ながら、時折、ラジオから流れていた、過去お世話になったミュージシャンの動向は気がかりではあった。



トーマス・ドルビーは1984年に「ザ・フラット・アース」を発表後、なかなか新作を出さなかった。
浪人の頃には、映画「ハワード・ザ・ダック」のサウンドトラックに創った『ドンド・ターン・アウェイ』がとても好きで聴いていた。
この曲では、スティーヴィー・ワンダーが吹くハーモニカが素晴らしくグッと来た。

また「ドルビーズ・キューブ」というユニット?らしき名義で出した『キューブは貴方とともに』も聴いた。
この曲には、ファンクの影響が強く、目立って優れた曲では無かったが、カセットにエア・チェックして聴いていた。

彼の3枚目のオリジナル・アルバムは、1988年に発表された。
気になってFMの特集を聴いたが、ピンと来ないのと・がっかり感と・・・そして「やっぱりニューウェイヴは明らかに崩壊したんだな」と確信した。

レコード盤のジャケットを見て、まず「一体、何をやってんだ!」という落胆と怒りがあった。

【サード・アルバム「エイリアン・エイト・マイ・ビュイック」】

***

どうやらドラマ仕立てにしたらしく、宇宙人が自分の愛車を飲み込んでしまった、とのことで、裏ジャケットには、ハンバーガーショップから出てきて置いていた車の所に行ったら車の本体が消えていて、ポテトやコーラを持って唖然とするトーマス・ドルビーのコミカルな姿。

「誰もこんなことを、君に望んでいないよ」そう自分は言いたかった。
知的でメロディアスな音楽を創り出し、憧れだったトーマス・ドルビーの姿は、もうそこには無かった。



いくらUFO好きの自分でも、彼がこの時点で明らかにアメリカ受けの視点で、こういった下世話なジャケットと、フェラーリがどうしたこうした・・・と大して出来の良くない曲を並べている様は、完全に彼自身が持っていた資質を殺していると思ったし、イギリス・ニューウェイヴィーの恥だと思った。
「お前までもが寝返り、裏切ったのか」そういう想いで一杯になった。

そこから相当な間、彼のこのアルバムを「そういうもんだ」と思って、悪夢として見捨ててきた。

***

再び聴くに至るのは、90年代以降のこと。
と言ってもA面から聴く自分は、その段階で、何度かのトライで、即パスしていた。

素晴らしい曲があると発見したのは、2000年以降のこと。

B面に「The Ability To Swing」と「Budapest By Blimp」を発見。

特に「Budapest By Blimp」の素晴らしさは、このジャケットさえ無ければ、音だけ聴くことが出来たら、もっと早く発見出来たかもしれない。

しかし、音楽というのも一期一会。
会えなかったのには、ちゃんと理由があって、そこから離れた地点で出会えたのも、何かがあるのだろう。

1988年当時ラリっていた自分とは全く異なる時代と状況の中で、今の自分の中では「Budapest By Blimp」は、自分好みの名曲と言える。
トーマス・ドルビーの面目躍如。
彼にしか書けないこういう曲を中心として、アルバムを創れば良かった。
しかし、それも時代の流れの中での彼のその時の判断だったのだから、仕方が無かったのだろう。

THOMAS DOLBY 「Budapest by Blimp」


街路の曲がり角で、君の名を呼ぶ 流れてくる僕ら二人の調べ・・・
小さな手が僕をつかむ 炎のように 月の満ち欠けのごとく、蒼白く

カフェで、ショッピング・モールで、君の幻を見る
幻は黄昏の露の上に、霧と消える

しかし本と写真は同じものとは言えないさ
あの列車はもうすぐに出発してしまう

・・・・・保守主義者の、ブダペスト

柱や宮殿の上でもどこででも、君の手を握っていよう、霧が晴れるまで・・・
僕がどんなに遠く彷徨ってきたかを理解するより
もっと強く抱きしめているのがいいと思う

悲劇を目の当たりにしてもなお、偉大なる幻想の死を知るのはあまりにつらいから
僕らはその宝を嘲り、その輝きを掠め取った
学校では教えられなかったんだ

・・・・・多分、忘れることのほうが簡単なのよ
 私が旅立つ理由を知るよりはね
 過去から剥ぎ取ったページなの
 列車は離れて行くわ、この霧から

・・・・・保守主義者の、ブダペスト

さて、紳士淑女の皆さん、ご紹介したいものがあります
どうぞ、とくとご覧あれ

このしわくちゃの地図とダイヤグラムは、歴史書から破いた1ページ
時の中で凍りついた、掛け替えのない古代の遺物
ユダヤの灰の上に築かれているのが分かるかい

君の好奇心を満足させようか?
華麗なる美は、ズールー族の血で署名されたんだよ

まったく上げ足歩調どころか、びっこ引いてるじゃないか

…保守主義者の、ブダペスト
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2011年8月22日 月曜日 夏のフェイバリッツ・49 スザンヌ・ヴェガ「Tired Of Sleeping」'90  

2011-08-22 19:53:30 | 音楽帳

怠惰な自分。
昨夜は結果なかなか眠れずに寝付いたのは夜中の3時半近くだった。。。

そして、気がつかない間に、またカラダじゅう湿疹が出て、掻き苦しみながらも、まるで希望を失った者が、この世で起きていること自体が苦しみそのもののように、10:00、12:00、15:00と途中目覚めながらも、結局、17:00まで眠ってしまった。

起きて外を見れば、もう薄い闇が街を包もうとしていた。
小音量でラジオを付ければ「荒川強啓デイキャッチ」から阿蘇山大噴火さんの裁判傍聴日記が流れている。

次第に闇が迫る中、ラジオの音が聴こえる中、ゴミ屋敷の別室でCDの山から必死で選んでまさぐると、地震が起きた。

18時過ぎ、電飾を灯す。
オンワードのCM「組曲」にピアノとアトモスフィアのみで創られたCDをセットして流して、熱く濃い緑茶を口に含みながら、つらつらと思うがままに文章を書き出す。

「ハード・ロマンティック - モダーン・アンビエント・カラーズ - 」という1996年10月発表のCD。
ひたすら、月・夜・闇・・・静かな空間の隙間に漂う空気感。


***

「夏のフェイバリッツ」などと書いて音楽を紹介してきたが、私はもう先週末で夏は終わったと思っている。
だから、タイトルも変えるべきとも思う。
もう、夏では無い。それは喜びべきこと。
そして恵みの雨としっとりした低温度の世界。
これで、生き物たちも植物たちも、何とか救われる。

既に死亡を確認した夏の余韻を、有難く思っている。
死んだ夏への供養・葬礼歌を今後は一定の時期まで綴ろうかと・・・。
まあ、それも明日になれば、そういう気持ちすら変わってしまうかもしれないが。

***

休みをもらったのが良かったのか?悪かったのか?と言えば、悪かったのかもしれない。
ただ、休みになるとひたすら眠ってしまい、長時間睡眠の果ての寝起きに罪悪感を覚えることもしばしばの自分だから。
また、家から出ないで、音楽とビールとの生活に入るさまは、世に言う「引きこもり」「自閉症」的な独り者の孤独な世間離れした世界。

近所は、家族持ちだらけの中、自分はある種の変人視。
自分は、幼い頃から変人扱いされてきたが、そういう差別を意識することはとうの涅槃を過ぎてしまった。

***

スザンヌ・ヴェガに出会ったのは、1986年末に自分の中でニューウェイヴ=音楽が終わり、1987年から病院通いが始まり・精神分裂病に使う弛緩剤でふらふらになり、そういう姿で余生を送るように、大学でも家でも絵を描きながら、時代が迷走し初めた中であった。

音楽が妄想を加速化させること、既に音楽を見捨てたこと、また聴くに耐えるものは無いこと・・・そこから新しい音楽が出ようが出まいが、そういう時代や騒ぎのある場所から可能な限りの距離を取っていた。

ただ、そんな中で偶然「ルカ」という曲に出会い、既に時代はMDに突入する中、自分はカセットテープに録音した。
幼児虐待をテーマにした曲だったが、そういう歌詞世界には興味がなかった。
流麗なギターとシンセで作られた音空間のエコーの在り方が、元音楽趣味人だった自分を捉えた。

20:22追記:つい書いた後になって「ルカ」も久しぶりに聴いてみたくなったので、挿入する。


大学時代に出会った音楽というのは、今まで語ったように極めて少ない。
それまでの1986年までとは全く異なる量。
そんな中の1つが「ルカ」だった。
彼女との結び付きがその後どうなるかなんて知ったことでは無かった。

***

大学4年生、社会という船出の直前。
大阪に勤務地が決まり、残る東京での生活に別れを告げる日々の中。
大阪行きの荷物をまとめながら、渋谷陽一さんの1日をかけてのビートルズ特集を聴いた夕べ。

そして、夜のクロスオーヴァー・イレブンとジェット・ストリーム。
1990年か?1991年?の冬。
ジェット・ストリームの後半で特集が日々あった。
ある日の放送でスザンヌ・ヴェガ特集があり、3曲がかかった。
それを聴きながら録音した。
前日か翌日は井上陽水の特集だった。

その1曲目が「眠り疲れて(Tired Of Sleeping)」だった。

「・・・ねえ、ママ。私いつ夢からさめるのかしら?
 私、やることがたくさんあるの。
 私、もう眠るのはたくさんなの。。。」子供の言葉。

その優しさと開放感と静けさを持った曲に、自分は惹かれた。
しかし、時刻は着実に船出の出航時間に向かっていた。
不可逆な世界へ没入していくのは避けようの無い事実だった。

***

1991年4月、右も左も分からない大阪。
あまり良い物件が無い中、梅田に近い所の最上階にある部屋を見つけて契約する。
築数十年という古いマンションの10畳1間のワンルームが、その後の自分の砦となった。

友人も居ない中、また新入社員で「どあほ」「しばくぞ」と日々必死にやっても叩かれる世界で、それでも耐えたのは、ここで根を上げたら自分は情けない姿で東京に戻らねばならないというだけの我慢だった。
その我慢が次第に実り・周囲にやっと認められ出すのは3年目に入って以降だが、その時点での自分はとにかく必死な日々だった。

休みには、自転車で梅田に行き、中古レコード屋さんでレコードを漁るのに費やした。

また、レコードとカセットに執着していた自分だったが、もうそれらが手に入りずらくCD時代に移行する中、日本橋(にっぽんばし)へ行って、色んな音を聴き比べた結果、10万位するマランツのCDプレイヤーを買った。
その帰り道、初めてCDを買った。
それが、スザンヌ・ヴェガの「孤独(ソリチュード・スタンディング)」だった。

このアルバムは、大学1年生の頃、先輩の家を泊まり歩く中、U2の「ヨシュア・トゥリー」、マイケル・ジャクソンの「バッド」と共に、当時、一緒に車で色んなことろに連れていってもらった中聴いたアルバムでもあった。

自分の大阪での孤独とマッチしたスザンヌ・ヴェガの「孤独」。
タイトル曲は・・・部屋の隅っこで「孤独」が自分を見て立っている・・・そんな詩だった。

***

スザンヌは、聴くごとに分かってきたのは、かぼそいつぶやくような声。
その声を、発言することの重さ、ある言葉を発する、この世の側に内界から外界へ。。。そういった事への微細な神経を持った人だった。

下の写真は、レコード漁りをする中で発見したスザンヌ・ヴェガの「眠り疲れて(Tired Of Sleeping)」の10インチ・シングル。

A面・B面各2曲を納めた珍しい変則サイズのレコード。
B面には名曲「レフト・オブ・センター」も入っている。



これらの曲を納めた「眠り疲れて」で始まる3枚目のアルバム「デイズ・オブ・オープン・ハンド」。

その後、まさか・・・と思ったエレクトロニクスやノイジーな音を加えた4枚目「99.9度」というアルバムに向かうとは思ってもみなかった。
その音の在り方は、明らかにスザンヌ・ヴェガの冒険というよりも、それまで居た穏やかな世界から、汚れた世界と堕天使を演じてみせようという作品だった。

彼女の中で、自分のイメージを壊してみたい衝動があったのか、インナースリーヴには裸の複数の男たちの横でSEXを彷彿とさせる美脚があらわになった水着のような下着姿のモノクロ写真があった。

***

その後、結果的にスザンヌ・ヴェガのアルバムが出るたびに買って聴き、ラジオでピーター・バラカンが紹介していたFMでのライヴも録音し、未だに聴いている。
社会人になってから二十年余、彼女と自分との出会いと変遷を色々思う。

■スザンヌ・ヴェガ 「眠り疲れて(Tired of Sleeping)」


お互いの間に、不思議な「糸」のようなものがある。
そういう錯覚を思わせてくれる音楽家。
コメント (2)
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