※2018-10-05の記事の改変
所有と間身体性
身体を所有しているものは誰だろうか。まぁ、もちろん、自分が所有しているだろう。しかし、自分だけが所有しているかというとそうではない。子供のころは親の庇護の基にある。少なくとも出生を自力でできる人はいない。また、老人として死ぬときは他者のもとに死ぬのが普通だろう。人は一人で生きることはない。誰のものかを考えてもわかる。そして、そういう身体らの間の関係=「間身体性」というものを評論文の業界人は考えることになる。身体は何故に関係を持てるのか、ということだ。例えば、間身体に存在するものは何なのか、などである。橋爪大三郎氏は「言語・貨幣・権力」としている。
※ということはとりあえず、若いときに使えそうなもんは「言語」だな。権力と貨幣を持っている若い衆は少ないよな。な。だから、しっかり「言語」と向かい合おうぜ。
全体と拡張
身体は「精神と物質(二元論)」で言うと物質の仲間とされてきた。だから、人間にとって独自のあり方とは無関係とされてきた。だって、動物にも身体はあるもんね。だが、身体なくして人間は考えることができるのだろうか。例えば「身につく」という言い方の身はボディだろうか。そう考えると、身体というのは全体(物質=肉体と精神・経験の主体=主人公、当事者)としてとらえられるものである。そして、身体は全体(精神も肉体も一緒のひとかたまりのもの)として世界を把握する。身体は皮膚の内部だけではなく、外にもはみだす。例えば、肉体的にも靴などは肉体も同然の機能をもっている(靴の裏を感じないで、靴の外を触覚で感じているってことっす)。また、社会的にも自分のテリトリー(縄張り)という感覚があって、肉体の一部も同然である。ここは俺の店だから、俺が払うよ、なんて感じだな。ちなみに日本語には「身」という言葉があるから、身体論が発達したという指摘もある。
イメージ(像)と表現
自分を見ながら生きている人はいない。幽体離脱が趣味の方は置いといてだが。その結果、こう見られているはずということで人は生きている。自分のイメージがあってそれに基づいて生きているということだ。ということはだ、身体は表現でもある。他人にこう思われているはずだと考えてふるまっているわけだから。そういうイメージや表現を統御(コントロール)するためにも「服装」というのが大事になる。同じ服装の人間は同じような文化に生きるものと考えるわけだ。街頭でナンパ(アンケートでもいいや)している人を見るとよくわかる。服装という表現を読みとって声をかけているよ。美人でも声をかけられない人がいるからね。諸君も就職の時は「リクルートスーツ」という表現を選ぶんだろうか。(モビルスーツなんて選ばないように)
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