しあはせ考
薪能(たきぎのう)で狂言『仏師』を見た。狂言は室町時代の笑劇であるが、能の詞章に比べると、言葉がちょっとわかりやすい。「なかなか」というのが「はい、そうです」、「たのうだひと」が「ご主人さま」、やるまいぞ」が「待て!」というくらいのことは狂言をはじめて見る中学生でもわかる。だが、現代語と同一の語でニュアンスの違う語が出てくると、逆にうまく呑(の)み込めない。
「しあはせ」というのが私に呑み込めなかった語である。
『仏師』は都の素ッ破(すっぱ・悪漢、詐欺師)が仏師を探して都にくる田舎者を、偽仏師に化けてさんざんからかうという笑話である、その素ッ破が舞台に登場してくるときに、最近どうもいいことがないので、「何事にもさわたり、しあはせを直そうと存ずる」(なんでも試してみて、ツキを変えてみるつもりである)という決意表明を述べる。そして騙(だま)す相手となる田舎者をみつけたときには「そなたはしあはせのよいお方じゃ」と評する。
「しあわせを直す」とか「しあわせがよい」という言い方を私たちはしない。私たちは「しあわせである」とか「しあわせでない」というふうに言う。この差異はどこから来たのか、狂言を見ながら考えた。
「あいあわせ」は古くは「仕合はせ」と書いた(今でもそう書く人はいる)。それは「仕合わす」、つまり「物と物をきちんと揃える」を意味する動詞の名詞化したものである。だから、「しあわせ」とは本来「合うべきものをぴたりと出会うようにする」という他動詞的な働きかけの結果を言ったのである。
『仏師』では「仏買います」と田舎者がよばわるのを聞きつけた素ッ破が「それがしに会ったのがしあわせでござる」と応じる。つまり、一方に仏師を探す田舎者がおり、他方にクライアントを探す仏師(のふりをした詐欺師)がおり、求める相手を探す二人がピンポイントで出会ったという事態をして「しあわせ」と称したのである。
「しあわせ」の古義に含まれていて、現代語義から失われたものがあるとすれば、それは「しあわせ」が前提とした手間ひまであろう。「しあわせ」は「しあわす」人がいてはじめてもたらされる。「しあわす」という主体的意思と行動を抜きにして「しあわせ」は到来しない。
現代人にとって「しあわせ」は当人の努力や決意とかかわりなしに「あちら」から来るものである。それは私の主体的関与ぬきにたまたま天から降ってきたものであるから、長くは続かない。それは来たときと同じように不意に立ち去るだろう。私たちはそんなふうに考えている。
「しあわせがよい」のが偶然的である以上、仮に「しあわせが悪い」状態にあっても、私たちはそれを自分の責任であるとは考えない。
そんなふうにして私たちは「しあわす」という行為が存在することを忘れた。
今、「しあわせ」は「うざい」とか「きもい」とか「むかつく」と同じように、不意に私たちに取り憑(つ)く得体の知れない情緒的な飛来物のようなものとして観念されている。だから、現代人は「うざい」以下の否定的形容辞が示す心的状態もまた、その人自身の努力と決意の産物である可能性には決して思い至らないのである。
『態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い』121頁より
問い 傍線部「情緒的な飛来物のようなもの」を「しあわせ」について説明しなさい
【解答例】
自分の「しあわせ」という感情は、本来、他人との望ましい出会いに対して自分の主体的関与という努力や決意といった手間ひまと関係があるはずなのに、主体的意思もなく原因もわからずにたまたま運よく手に言えれた好ましい感情のこと。
●内田樹著『態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い』(角川新書)について角川書店へのリンクはこちらになります。
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