国語屋稼業の戯言

国語の記事、多数あり。国語屋を営むこと三〇余年。趣味記事(手品)多し。

誤読の練習(芥川龍之介『或阿呆の一生』より)

2021-08-25 14:12:00 | 国語
●昔、問題を解いて感動した文章です。


『或阿呆の一生』        芥川龍之介


 それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子(はしご)に登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ、……
 そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも寧(むし)ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……
 彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇(たたず)んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下(みおろ)した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「人生は一行(いちぎやう)のボオドレエルにも若(し)かない。」
 彼は暫しばらく梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。……

 隅田川はどんより曇つてゐた。彼は走つてゐる小蒸汽の窓から向う島の桜を眺めてゐた。花を盛つた桜は彼の目には一列の襤褸(ぼろ)のやうに憂欝だつた。が、彼はその桜に、――江戸以来の向う島の桜にいつか彼自身を見出してゐた。





●『或阿呆の一生』の一と四を合わせた全文である。

●これをつなげて問題を作ったのはお茶の水大学(高校?)だったと思う。ただ手元に問題がないので、一、四という数字が付いていたかは忘れた。おぼろげな記憶では数字はついていなかったような気がするが。

●知らないでいると一篇の掌編小説として読める。

●西洋風のはしご→新しい文学→世紀末それ自身→江戸以来の~桜~彼自身

 以上の流れ(掌編だから全文に直接矢印で説明したいくらい)から新しい文学を受け入れずに江戸以来のなにかを背負った絶望(自殺後に見つかった文章である)の小説家の気持ちが読み取れる。

●内田樹氏は誤読の自由をうったえていたがいくらでも誤読するに堪える文章だと思う。先の私の解釈も誤読であろう。「二十歳の彼」という部分が私には落ち着かないからである。

●「見下した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。」

●「人生は一行のボオドレエルにも若かない」

●「隅田川はどんより曇つてゐた」

●「走つてゐる小蒸汽の窓」

●上記のように、どんどん誤読する自由を与えてくれる文章である。どういう意味なのか。何を象徴しているのか。

●さて、誤読の練習をしてみるか。




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