この年にしてようやく、先生の「学問のすゝめ」を拝読いたしました。とはいえ、非才なわたくしには原文は難しいので、かの齋藤孝先生が現代語訳された新書を読みました。ある日の書店で、何気なく目にとまり、何かに惹かれる思いで手にしたのですが、ひじょうにわかりやすく、快活な内容で、なぜこんな面白い書物を今まで知らなかったのだろうと、わたくし少し恥ずかしくなりました。
「天は人の上に人を作らず・・・」の序文は、今や幼い子でも諳んじることができるようです。本を読むだけが学問ではない、経済活動も、時流を読むことも学問だと。先生のおっしゃる「実学」というのは、わたくしもこれからも大いに続けて行きたく思います。
しかし先生が相対します「政府」およびそれに関わる人々は、本当に国民のために働いているのか、最近わからなくなってきたように思います。最近、税金に関する議論が始まっています。主たる目的は、社会保障の充実だそうですが、「税金を払って政府の保護を買う」ことが、気持ちよく、はたして安い買い物と言えるのかが心配です。
総理大臣が、昨日テレビジョンに出演されまして、(社会保障と税の一体改革の法案成立に)一歩も引かない、先延ばしにはしないと意気込んでいたようですが、その周囲の方々、ともに政治を司る人々がその足を引っ張る、あるいはかき乱す行動をしているように見えるのです。一人ひとりは立派でも、そんな政治政党の集団に入ると、目も当てられないような行動や言動が多いのは、先生のおっしゃる「気風」に縛られているというまさしく一例に当てはまるように思いますが、どうなのでしょう。
先生の活躍された時代からおよそ130年後、東日本を巨大地震が襲ってから、国民の考え方が大きく変わってきたように思います。国民は「絆」という言葉で助け合い、時には金品の寄付により、被害に遭われた方々を勇気づけ、元気づけています。国民一人一人が賢くなったと思うのですが、しかしその上に立つ政府がよい政府かといえば、あまり良いとは思えません。
そんなダメな政府に対しては、「身を犠牲にして正義を守る」ことが最上だとおっしゃいますが、今の時代、その「正義」すら疑いを持つようになってきたように思います。
しかもこれは今や国内だけでなく、世界各国、ある国とある国が対峙する場合によくみられます。
自分が正しいと思うことが「正義」で、敵対する者も、そのひと自身が正しいと思えば、それもまた「正義」でしょう。相容れないはずの二つの正義は、どちらが正しいのでしょう、それとも、どちらも正しくないのでしょうか?
そのことについて先生は、「信じる、疑うということについては、取捨選択のための判断力が必要だ。学問は、この判断力を確立するためにある」とおっしゃいました。だとすれば、先のことで迷うわたくしなどは、まだまだ学問が不足しているということでしょう。
今後も生きていく上で、あるいは仕事している手を少し休めて、どこかで再び手にとって読み返し、まだまだ足りない学問に励む所存です・・・。
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・・・こんな文章、本当に送ったら「バカモン!」と一喝され突っ返されるかもな。