熊本熊的日常

日常生活についての雑記

杉板

2010年12月01日 | Weblog
木工で作っている杉板製のミニ箱膳の本体部分のパーツが揃った。次回は各パーツを紙やすりで磨いて、組み上げる。

杉は木目の美しい材だが、表面が柔らかいので傷がつきやすい。切断したり鉋をかけたりしたときに飛び散った木屑が表面に残ったまま、別の材と重ねてしまったりすると、たちまちその木屑のところに凹みができてしまう。まだ完成前だというのに、既にあちこちにそうしたキズができてしまった。それでも、そうしたキズを含めて、肌触りというか存在感というか、なんとも言えない味わいを感じる。

今回は、まず本体を先に作ってから、それに合うように蓋のほうを組む。最後に全体にやすりをかけて、蜜蝋か胡麻油を塗って仕上げる。

杉というと、花粉症の人にとっては大敵なのだが、逆に、それほど多くの杉が日本にあるということだ。そもそも杉は日本原産の木、つまり日本の風土に適した木であり、最も潤沢に入手できるはずの材である。現実には、林業の衰退で手入れされないままに荒廃が進んだ森林が増えており、潤沢であるはずの森林資源も使われることなく放置されている地域が多いようだ。それをもったいない、と称してしまうのはたやすいが、輸入材のほうが低コストで扱いが容易ということならば、わが国の森林資源の荒廃は必然ということでもある。あるものを素直に利用できないという状況は、それを取り巻く制度や社会に何がしかの構造的問題があるということでもある。

確かに、ホームセンターなどで小売されている杉を使って、道具類を作れば、材料費だけで市販の同等製品の市場価格を超えてしまう。手作りが割安というのは幻想でしかない。誰もが身の回りのことは一通りできて、身の回りで使うものも簡単なものなら自分で作って、というような生活がいいとは思わないが、安価な市販品に慣れ親しんでしまうと、物を大切にするという心理が醸成されない。物、すなわち自分の外部の存在への慈しみの心が失われることに、他者に対する想像力が失われることに通じるものがあるのではないだろうか。

自分で材料を調達して、それを使って何かを作る、ただそれだけの行為から、社会の背後にある時代の潮流のようなものが否応無く見えてくるものだ。逆に、生活に必要なことの全てを金銭を払うことで他者の手に委ねてしまうと、目先のことにしか関心を寄せることなく生涯を全うできてしまう。順風満帆のまま、それで一生を終えることができるなら、目先のことだけに心を砕いていればよいのだろうが、そのような状況が一般化できるとは思えない。本人にとっては一大事かもしれないが他者の目には馬鹿馬鹿しく瑣末なことで精神的に追い詰められてしまったり、それを解消すべく反社会的行為に走ってみたりするというようなことは少なくないだろう。自分の生活がどのように成り立っているのか、考えるきっかけにめぐり合うことは、今の時代なればこそ、それ自体幸運なことのように思う。