熊本熊的日常

日常生活についての雑記

ひまわりのたね

2010年12月09日 | Weblog
「とっとこハム太郎」の話をしようというのではない。テート・モダンのタービン・ホールの床にひまわりの種が敷き詰められているそうだ。その数約1億個。もちろん、これは立派な「アート」である。中国人アーチスト、アイ・ウェイウェイの作品で、ひまわりの種は江西省景徳鎮市の陶工が1,600人がかりで作った焼き物だという。一粒ずつに彩色もなされていて、本物そっくりなのだという。当初は、この種のじゅうたんを踏みしめて客が館内の各展示室へ向かうはずだったのだが、「種」が摩擦で磨耗し、その粉塵が入館者や職員の健康を害する恐れがあるとして、歩行禁止になってしまったのは残念なことだ。

アイ・ウェイウェイは個人と社会との関係とか、個人の社会に対するコミットメントのようなことをテーマに作品を作っている人だ。今回の作品であるひまわりの種は作者の子供時代、文化大革命の頃の中国では典型的な子供たちのおやつだったという。この作品でのひまわりの種は、ひとつひとつを取り出せば独立した存在のように見えているが、文革当時の中国にあって、毛沢東が太陽であるかの如くに扱われ、ひまわりが太陽を追い求めるように、結局は権力の下に靡く人民を象徴しているのだという。他にひまわりの種が象徴しているのは、貧困と抑圧と不安のなかにあって、わずかばかりの食べ物の足しとして人々の間で融通し合っていたものであり、人々が互いを思いやる姿でもあるという。

アイ・ウェイウェイは私よりも少し年長だが、ほぼ同世代と言ってよい。北京で生まれ育ち、現在も北京を拠点に活動している。現在の急速な発展は勿論のこと、文革も、民主化運動も、生活のなかで経験してきたはずだ。時代の大きなうねりのなかで、個人ができることというのは知れていると私は思っている。それでも生を受けた場において、その生を全うしなければならいのが生き物の定めだ。ひとりひとりはひまわりの種のような小さなもので、時に踏みつけられてしまうものもあるけれど、全体としてみれば、それがまた社会の運動のようなものを構成している。その社会の動きと個人の意図とが必ずしも調和しなかったり、あるいは自分の置かれた場所が運動の主流だったり、そういうところに人生の悲喜劇も生まれるのだろう。大きな空間一面にひとつひとつ手作りのひまわりの種を敷き詰めて中国という社会を表現する、その発想になんとなく親しみを感じる。そして、日本を同じような手法で表現するとしたら、一体どのようになるのだろうとも思う。人の社会というのは、自分たちが思っているほどに違いはないものなのかもしれない。