ズボンを買った。行きつけの百貨店に行ったのだが、紳士用品売り場というのは、ここに限ったことではないだろうが、いつでも空いている。
ズボンという用途を満足するだけなら、ユニクロで必要十分だ。ただ、そう思って見る所為なのかもしれないが、ユニクロの衣料品は一見してそれとわかる、ような気がする。それでも経済性を優先すれば、身体中ユニクロに包まれることになる。見栄を張るわけではないのだが、美意識として、それはいかがなものかと思う。下着とか家の中で着るスエットなどはそれでいいとして、外から見えるものまでユニクロばかりというのは、どうなのか、と思うのである。いくら色柄のバリュエーションが豊富であったとしても、そういう服装の人が多いので、なんとなく人民服や国民服を連想し、そこから悲惨な歴史まで思いが馳せてしまうのは私だけだろうか。
私自身、ユニクロ愛用者だ。下着はすべてユニクロ製で、しかもかなり以前から使っている。それで気がつくのは、昔の製品は表裏にプリントが入っていたが、最近のは表面だけにしか柄が入っていなくて、裏面は無地だ。材質も同じ「綿」でありながら微妙に質感が違う。おそらく、プリントを片面にして、材質も変更したことで、コストが下がっているはずだ。下着なのだから、プリントが片面だろうが両面だろうが関係ない、という考え方は理解できる。しかし、感情というか気持ちの問題として、コスト最優先の発想で作られたものを身につけるということに抵抗を覚えない感性というのは危険ではないだろうか。
いろいろなところで引き合いに出されることだが、戦間期のドイツでナチスが政権を獲得したときの選挙の得票率は33%だったという話を聞いたことがある。しかし、政権獲得後は周知の通りの独裁へと一気に進むのである。生活の健康ということを考えるとき、「どうでもよい」と思って切り捨てたことのなかに、実はどうでもよくないことがあって、気がついたときには手の施しようがなくなっていた、ということは少なくないのではなかろうか。病気もそうだろう。最初は微細な病変が、あるところまで進行するとカタストロフィックに拡大して手遅れとなる。どの程度までの進行で発見するか、というのは身体の健康を守る上では重大なことだ。「身体」を社会、技術、産業、企業、文化、文明、などいろいろに置き換えても、通じるものがあるのではないだろうか。
安物がいけないというのではない。無闇に贅沢をしたり、無意味に華美を誇るよりも、質素や倹約のほうが健康といえるかもしれない。しかし、下着の素材を両面プリントから片面へ、という現象の背後にある発想に注目する必要はないのかということだ。なんでも金さえ出せば手に入る、というのは現代の真実だと思う。しかし、銭金というのは、あくまでも評価のための便宜であって、それ自身が価値ではない。ものを買うのであれば、そのものを作るのに要した多くの人々の手間隙を単一尺度に便宜的に換算したものが価格なのである。昔、ベンツのCMで「高い100円もあれば、安い100万円もあります」というようなものがあったが、それは貨幣が尺度のひとつにすぎないことを上手く語っていると思う。同じものであっても、評価する人によって価値は様々に付されるのが自然であるはずだ。そのものの何に注目するかによって、価値は一様ではないからだ。自分にとって何が大事なのか、という自分なりの尺度を持たない限り「豊かさ」の本当の意味はわからないのではないだろうか。
できることなら、顔馴染のテーラーで、店の人と相談しながら、自分だけのズボンをつくってもらって身に着けたい。それをやろうと思えば、私の所得ではとうてい手の届かないような店に行くしかないだろうし、そんなところと顔馴染になどなれるはずもない。しかし、何十年か前までは、街の商店街の一角に、そういうことができる店が当たり前に存在していたのである。スーツや和服は、単に「買う」のではなく、「誂える」ものだったのである。「誂える」ということは、誂えたひとだけのものだ。人民服のようなものではなく、そこにその人の個性がきちんと反映されていたはずのものだ。
値段だけを見るのではなく、その仕事を想像するという、ちょっとした配慮が我々ひとりひとりにあれば、わずかではあるかもしれないが、雇用が生まれ、それによって社会全体も多少は潤うような気がするのだが、どうだろうか。
ズボンという用途を満足するだけなら、ユニクロで必要十分だ。ただ、そう思って見る所為なのかもしれないが、ユニクロの衣料品は一見してそれとわかる、ような気がする。それでも経済性を優先すれば、身体中ユニクロに包まれることになる。見栄を張るわけではないのだが、美意識として、それはいかがなものかと思う。下着とか家の中で着るスエットなどはそれでいいとして、外から見えるものまでユニクロばかりというのは、どうなのか、と思うのである。いくら色柄のバリュエーションが豊富であったとしても、そういう服装の人が多いので、なんとなく人民服や国民服を連想し、そこから悲惨な歴史まで思いが馳せてしまうのは私だけだろうか。
私自身、ユニクロ愛用者だ。下着はすべてユニクロ製で、しかもかなり以前から使っている。それで気がつくのは、昔の製品は表裏にプリントが入っていたが、最近のは表面だけにしか柄が入っていなくて、裏面は無地だ。材質も同じ「綿」でありながら微妙に質感が違う。おそらく、プリントを片面にして、材質も変更したことで、コストが下がっているはずだ。下着なのだから、プリントが片面だろうが両面だろうが関係ない、という考え方は理解できる。しかし、感情というか気持ちの問題として、コスト最優先の発想で作られたものを身につけるということに抵抗を覚えない感性というのは危険ではないだろうか。
いろいろなところで引き合いに出されることだが、戦間期のドイツでナチスが政権を獲得したときの選挙の得票率は33%だったという話を聞いたことがある。しかし、政権獲得後は周知の通りの独裁へと一気に進むのである。生活の健康ということを考えるとき、「どうでもよい」と思って切り捨てたことのなかに、実はどうでもよくないことがあって、気がついたときには手の施しようがなくなっていた、ということは少なくないのではなかろうか。病気もそうだろう。最初は微細な病変が、あるところまで進行するとカタストロフィックに拡大して手遅れとなる。どの程度までの進行で発見するか、というのは身体の健康を守る上では重大なことだ。「身体」を社会、技術、産業、企業、文化、文明、などいろいろに置き換えても、通じるものがあるのではないだろうか。
安物がいけないというのではない。無闇に贅沢をしたり、無意味に華美を誇るよりも、質素や倹約のほうが健康といえるかもしれない。しかし、下着の素材を両面プリントから片面へ、という現象の背後にある発想に注目する必要はないのかということだ。なんでも金さえ出せば手に入る、というのは現代の真実だと思う。しかし、銭金というのは、あくまでも評価のための便宜であって、それ自身が価値ではない。ものを買うのであれば、そのものを作るのに要した多くの人々の手間隙を単一尺度に便宜的に換算したものが価格なのである。昔、ベンツのCMで「高い100円もあれば、安い100万円もあります」というようなものがあったが、それは貨幣が尺度のひとつにすぎないことを上手く語っていると思う。同じものであっても、評価する人によって価値は様々に付されるのが自然であるはずだ。そのものの何に注目するかによって、価値は一様ではないからだ。自分にとって何が大事なのか、という自分なりの尺度を持たない限り「豊かさ」の本当の意味はわからないのではないだろうか。
できることなら、顔馴染のテーラーで、店の人と相談しながら、自分だけのズボンをつくってもらって身に着けたい。それをやろうと思えば、私の所得ではとうてい手の届かないような店に行くしかないだろうし、そんなところと顔馴染になどなれるはずもない。しかし、何十年か前までは、街の商店街の一角に、そういうことができる店が当たり前に存在していたのである。スーツや和服は、単に「買う」のではなく、「誂える」ものだったのである。「誂える」ということは、誂えたひとだけのものだ。人民服のようなものではなく、そこにその人の個性がきちんと反映されていたはずのものだ。
値段だけを見るのではなく、その仕事を想像するという、ちょっとした配慮が我々ひとりひとりにあれば、わずかではあるかもしれないが、雇用が生まれ、それによって社会全体も多少は潤うような気がするのだが、どうだろうか。