熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「玄牝」

2010年12月03日 | Weblog
ふりがながないと読めない。「げんぴん」と読むのだそうだ。

「谷神不死。是謂玄牝」――谷神(こくしん)は死せず。これを玄牝という。

老子「道徳経」第六章にある言葉で、「大河の源流にある谷神は、とめどなく生命を生み出しながらも絶えることはない」という意味だという。この作品では、万物を生み出す源たる「玄牝」を女性あるいは女性器になぞらえている。

たびたびこのブログにも書いているが、50年近くも生きてきて、ますます命というものの不思議を思うようになっている。自分が今、ここでこうしていることの不思議、だ。生命を受けたら、ただひたすらそれを全うする。他にどうしようもないのである。それは生まれる前に潰えてしまうかもしれないし、大往生に至るかもしれない。世に健康法だのアンチエイジングだのと喧しいことだが、自殺でもしない限り、自分の命がいつどのような形で終わるのかわからない。その不思議を思えば、世の中にはどのようなことでも起こり得ると素直に思える。

この作品は愛知県岡崎市にある吉村医院という産婦人科を扱ったドキュメンタリーだ。ここの吉村先生は自然分娩でお産をさせる産科医で、1961年の開業以来、2万例以上の分娩を扱ってこられた。ここでは妊婦がアスリートのようなトレーニングに励む。トレーニングといっても、雑巾がけや薪割りといった、少し前の時代なら当たり前に誰もがしていた家事労働だ。そうやって身体を鍛えることで、出産に耐える体力と精神力を醸成するのである。その姿の美しさに心奪われた。ドキュメンタリーとは言え、映画なのだから被写体を選ぶことはできる。しかし、ここに登場する人達の美しさは、内面から溢れ出るような輝きを感じさせるのである。化粧は殆どしていないようなのにアップになったときの肌の質感が、おもわず触れたくなるようなみずみずしさだ。薪割りは武道の達人を思わせるような精悍さを思わせる。なにげない表情が、妙に楽しそうでいい。そんな先生と妊婦さんたちの四季が描かれている。

この作品を観て、自分でも驚いたのだが、出産シーンを観ていたら涙が溢れてきた。勿論、スクリーンの登場人物は自分とは何の関係もない人達だ。それなのに、涙が溢れてくる。なんだか嬉しくて嬉しくて涙が止まらない。生命が繋がることを目の当たりにすることで、意識の深層が反応しているのだろうか。

何人かの出産シーンがあるのだが、どの人も産んだ直後に「ありがとう」と繰り返す。それはとても自然に口をついて出ているように見える。個人の意識というよりも、命を次の世代に繋ぐことができたことを人類の一員として感謝し喜んでいる、というのは大袈裟だろうか。

ある母親はこう語る。
「そりゃお産のときはすごく痛くて、わめいたりしたけど、今はその痛さを思い出すのが好き」
一体どのような「痛み」なのだろうか。

吉村医院で働く助産婦さんの言葉も印象的だった。
「女性が心を込めるのは産道であり膣。究極には一体感を得ること」
セックスも分娩もこの道の出入りだ。ある妊婦さんはこう言っていた。
「妊婦であることに誇りを感じる。ほら見て、見て、って」
それが作った言葉ではないことは映像を見ていて明らかなのである。なぜ明らかかというと、うまく表現できないのだが、一言で表現すると、その言葉の主の妊婦さんも含め、この作品に登場する妊婦さんはみんな美しい。所謂「美人」というのではない。光輝いている感じだ。まるで如来観音のようなのである。

作品を紹介する記述のなかで、私は「自然分娩」という言葉を使ったが、作品の中ではこの言葉は登場しない。おそらく、それは意図的に遠ざけされているのだと思う。この作品の制作者も、登場する吉村先生も、先生を支える助産婦さんたちも、妊婦さんたちの多くも、人として、命あるものとしての当然の営みをしているのであって殊更に「自然」という不自然なレッテルを求めているわけではないからだ。

我々の日常には「自然」が溢れている。しかし、「自然」と名づけた瞬間にそれがもはや自然ではなくなってしまっていることには、誰も気付かないふりをしている。「自然」は我々が勝手に作り出したものであって、人の生活のある場所に人の手の入らない「自然」などあるはずがない。人の営みというものは、全て人の価値観に基づいて執り行われるものだ。生命の営みも然りだろう。どのようなお産が「自然」で「あるべき」ものなのか、誰にも答えは出せないはずだ。

吉村先生は、ご自身の価値観と経験に基づいて現在のスタイルを持つに至っている。一般的な医療機関での分娩は、母子のリスクを最小限にするという考え方で、結果的に妊婦本人の意向や考えを無視せざるを得ないことにもなる。どちらが良いとか悪いということではないと思う。

吉村医院でのお産は、「ぽっこり」産まれる。そのためには、妊婦も「ぽっこり」を実現するための身体作りが求められる。「ゴロゴロ、パクパク、ビクビクしない」のが基本だ。妊婦は欲求の「自然」に身を任せていてはいけないのである。強い意志を持って、毎日の生活のなかで心身を鍛えるということを続けなければならない。例えばスクワットのような板戸拭きを一日300回するのだという。妊娠をすれば当然に妊婦の身体は胎児の成長に伴って変化をする。日々の鍛錬で妊婦の体力は増強される。胎児の成長と出産を控えての身体作りで、たぶん気分も高揚してくる。そうやって分娩時に母子の出産へ向けての波長が一致して、無事誕生となる。これは「自然」なことではなく、ある種の管理だ。

要するに、どのようなお産をするかということは、価値観や世界観の問題なのだと思う。映画のプログラムのなかに書かれている、この作品の監督・撮影・構成を担当している河瀬直美の言葉が印象的だ。
「吉村医院に来る妊婦さんは、自分の考えや意思を持っている人ばかりなので、関係を結びやすかったし、お産に立ち会うことに躊躇う人はいませんでしたね。」
吉村先生の価値観や世界観があり、それに自分の価値観を重ね合わせることのできる人達が先生のもとに集まっているということなのである。出産は女性の多くが経験するあたりまえのことなのだが、命がけのことでもある。それを世の少数派意見に基づく方法でやろうとする姿勢に、物事をきちんと考えようとする真摯な生き方が見え隠れしている。こういう女性をパートナーにしたら、ケンカをしたりすると厳しいときもあるだろうが、きっと楽しいだろうなと思う。

頭の中は目次だけでコンテンツが無いような奴は、大事なところで世間や周囲の雑音に惑わされてきちんとした決断ができない。自分の納得のいく決断ができないから、その後に不平不満に苛まれ、口を開けば文句と愚痴しか出てこない。結果が思い通りにならなくても、それが自分の決断ならば、苦い結果を潔く甘受でき、そこから次に繋がる発想を得るものだ。自分のことは自分で考えて決める、そういう当たり前のことができていれば、不平や不満などはそもそも生まれないだろう。当たり前のことができる人との健全な関係をひとつでもふたつでも、きちんと積み重ねていかないと人生は豊かにならない。自分の人生がいつ終わるのか知らないが、これこそがライフワークというものだろう。

この作品に登場する妊婦さんのなかに、夫が失踪してしまったという人がいる。彼女のほうからは心当たりに連絡を取るのだが、返事が無いのだという。失踪してしまった夫の子を産むべく吉村医院に通っているが、そこにもうひとつの理由がある。彼女は一人目の子をここで産んでいて、二人目も吉村先生のところで産むことを夫に連絡している。その連絡を夫が受け取っているのかいないのかわからないのだが、ここで産めば、夫が戻ってくるかもしれないというかすかな希望も抱いている。分娩のとき、たぶん5歳くらいの一人目の子が付き添い、甲斐甲斐しく母親の顔の汗をタオルで拭ったりしている。無事出産して、まだ息が荒い母親に向かって冷静に「ママ、よかったね」などと、すっかり一人前の口をきく。人の生死を目の当たりにするというのは、命というもののイメージを醸成するのに何物にも代えがたい教材だ。母の出産に立ち会って自分なりの役割を果たした実感を得たというそのことだけで、この子はこれから真っ当な人生を歩いていけるような気がする。そして、夫は戻ってきた。そりゃ戻るだろう。自分の出産をきちんと考える妻とその母をしっかり支える子なのだから、その夫が真っ当な人間なら、この真っ当な妻子のもとに戻るのが自然というものだ。