熊本熊的日常

日常生活についての雑記

粗にして野だが、卑でもある

2010年12月16日 | Weblog
小林秀雄の著作集を読んでいたら、政治というものについて、なるほどと納得できる一節に出会った。

「政治家には、私の意見も私の思想もない。そんなものは、政治という行為には、邪魔になるばかりで、何んの役にも立たない。政治の対象は、いつも集団であり、集団向きの思想が操れなければ、政治家の資格はない。だから無論、彼等は、思想を自ら創り出す喜びも苦しみも知らない、いや寧ろ、さような詩人の空想を信ずるには、自分はあまりに現実家だという考えを抱いています。既に出来上って社会に在る思想を拾い上げて利用すればよい。利用というのは、各人の個性などにはお構いなく、選挙権並みに、思想を集団の間に分配することだ。幸いにして出来合いの思想というものは、こういう不思議な作業に堪えますから、ここに指導したい人種と指導されたい人種との間に、馴合いが生じます。何故政治に党派というものが必至かという事も、元はと言えば、思想のそういう扱い方から来ていると思う。幾人にでも分配の可能な、社会的思想という匿名思想には、無論、個性という質がないわけであるから、その効力は量によって定まる他はない。
…(中略)…
政治家の変節を、人は非難するが、おかしな話で、政治思想というものが、もともと人格とは相関関係にはないものなのである。そういう次第で、同類を増やす事は極めて易しい。だが、それは裏返して言えば、敵を作る事も亦極めて易しいという意味になります。空虚な精神が饒舌であり、勇気を欠くものが喧嘩を好むが如く、自足する喜びを蔵しない思想は、相手の弱点や欠点に乗じて生きようとする。」
(「小林秀雄全作品19」新潮社 90-91頁)

余計なことは言うまい。なるほど、その通りだ。